うちゅうてきなとりで

The Cosmological Fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『科挙』宮崎市定

 「中国の試験地獄」、『アジア史概説』につづく宮崎市定の本。彼曰く、歴史考証を通して現代社会を論じる、評論家風の仕事は苦手であるので、事実の記述に徹するつもりだという。

 

 五八七年、ゲルマン民族大移動の頃に、科挙制度ははじまった。貴族制度は中国では既に終わりかけ、官吏が登場するのだった。貴族の横暴に業を煮やした隋の文帝は地方の高等官をすべて中央から派遣することにした。科挙とは「科目による選挙」のことである。

 だが清朝になると科挙の弊害ばかりが目立つようになり、ついに一九〇四年廃止された。明代まで、利殖の道は官吏と商人だけだった。富裕な知識人の親をもつ都市部の人間が科挙に有利なのは、いまと同じである。

 ――自然科学や技術に関することは労働者のやること、数学は町人がやればい。堂々たる士大夫の学ばねばならぬことは古代の聖人の教えを書きとめた四書・五経など儒教の経典、それに中国文化の精粋である詩や文章をつくることが大切であり、科挙の試験問題も要するにこの範囲を出ない。

 早熟の天才は天子に注目されると童科を受けられるが、「童子出身者はいたずらに早熟なだけで、それ以後どうも大成した者がない」。勧学歌というものが古来からある。

 記録風に当時の試験の様子が描かれる。受験制度は現在にも通じるものがある。科挙を受けるには国立学校に入る必要があるが、その入学試験が三段階ある。不正行為への注意。合格すると入学金その他が必要なので、結局貧乏人では勝ち抜けないのだ。

 学校への入学試験に向けて、四十万字その他注釈の暗記が必須である。学校の教官は科挙に及第するも出世できなかった落ちこぼれの職であり、薄給で権力もない。学校ももぬけの殻で、生員は各自科挙に向けて勉強していた。

 生員の社会的地位は高かった。副業は官吏の幕友(私設秘書)をすることが多く、これを本業にして進取をあきらめる者もいた。

 郷試験……貢院で一万から二万人の挙子が独房に詰め込まれ、そこで答案作成をする。

 「疲労と興奮が重なって、たいていの人は頭が少しおかしくなり、日頃の実力が発揮できぬものが多いが、ひどいのになると病気になったり、発狂したりする」。

 貢院は不気味な場所なので、幽霊譚が多く伝えられている。試験が終了するまで娑婆から隔絶されており、警察の力も届かない。だから幽霊や化け物の敵討が許される場所なのだ。中国の幽霊はしっかりと人間と会話し、示談に応じる。悪行が報いられ、善行は報われる。

 蘇州科挙の先進地域で、競争率も高い。試験は三回行われるから、採点も大変である。

 「来る日も来る日も似たような答案の山を崩していくのだから、この方も少し頭がへんになる」。

 採点の際にも神さまの力があらわれることがある。

 郷試に合格すると挙人となるがこれは大変名誉な肩書きである。なるほど、この科挙を主題にしたのが、『儒林外史』である。

 郷試のあとは会試と、再試験の意味しかもたない殿試だけである。殿試では天子に対する上奏文という形式をとって答案作成を行う。コウ頭という方法を用いるため、ニマスあけて文章を書く。皇帝陛下や、国家などの文字は、普通の行よりも頭を出して書かなければならない。行においても上にあるほうがえらいのだ。この答案は意見とは言え実際は形式化されていた。

 宋代以降は徹底した天子の独裁政治が行われた。殿試の採点は読巻大臣が行うが、文字が読めず名前しか書けない満州族の将軍が、天子の命で任命されたことがある。

 「運で得た地位は、また運で失いやすい」。

 ――しかし受験生にいわせれば、科挙を通っても失意があるほどなら、もし通らなければいよいよ失意に落ちこむほかないと答えるだろう。そうだ、若者はやっぱり青雲の志を大きく抱いて、どんな苦労にも打ちかっていこうという意気があってこそ尊いのだ、とこの老官吏も相槌をうったにちがいない。

 裏の世界を牛耳るのは、中国では閻魔大王である。天命は実は皆みずからがつくっている、因果応報がおこなわれるというのが道教の倫理である。

 「この思想を裏返せば、人類は本来対等なもので、平等に平和な生活を営む権利があるのだが、ただ貧富の懸隔があって、上に立つ者と下に位する者があるばかりなので、上の者は決して勢いに任せて下の者の生活を脅かしてはならぬというにある……道教は元来、きわめて平民的な宗教である」。

 文科挙とは別に、まったく同じ行程をもつ武科挙というものがあり、こちらは騎射などの武芸によって試験を行う。進士になったものは武官に任じられる。

 ――武進士らはその成績に応じてそれぞれの武職に任命されるが、世間でも、また軍隊の中でも武進士はあまり重んじられない。戦争は政治とは違って、試験にうまく及第したからといって、それが本当に役立つとはかぎらないからである。

 「軍隊ではばがきくのは、何といっても兵卒から叩きあげ、実戦で手柄をたてた将軍である。軍隊というところは一種特別な社会であり、始めからそこで苦労をつまないと兵卒の心理もわからないし、軍隊のかけひきのこつも会得できないのである」。

 文官の圧倒的に優遇されるのが清であった。

 「しかし本当の隠者であるならば、天子によばれたからといって、のこのこと出て行くのが大体おかしい」。

 昔から学問と文章は両立しがたいとされている。唐を経て、中国は貴族政治から官僚政治へと移行した。

 「あたかもヨーロッパにおける近世初期ブルジョワジーのような階級が、中国ではすでに宋代に成立したのである」。

 ところが進士が多くなりすぎて、ポストが足りなくなる。科挙を重んじ、すぐに効果の出ない教育は軽視され、不正が横行した。

 「失望から自暴自棄へ、自暴自棄から反抗へ」。

 科挙に敗れた知識階級が反乱の指導者となることがよくある……黄巣など。

 清朝を滅亡させた太平天国軍の洪秀全も書生崩れである。英米でさえ、官吏登用試験を行うようになったのは十九世紀後半である。産業革命後の新しい世界情勢を見て「いちはやくそれに順応し、成功したのは東亜諸国の中では日本である」。

 教育制度を取り入れたことが成長の要因だったと彼は述べる。

 ――科挙制度は実に中国政治に特有な文を尊重すること、もっと詳しくいえば、武を抑えて文を進める精神によって貫かれているところに根本的な特長がある。

 文民統制の萌芽があったということだろうか。イギリスのことわざ曰く「軍隊は最良の召使であるが、それが主人になったら最後、最悪の主人公になる」。

 中国がヨーロッパ全体ほどの大きさであることを考えれば、中国の歴史は統一と平和の歴史であるといえよう。

 「そもそも人生そのものが長い競争試験の連続である」。

 アメリカの大学は毎日の宿題が大変だという。日本の学校制度も、武士撤廃の代替に生まれたものである。

 「一生の運命はほとんど卒業の一瞬間に定まる」点で、日本の受験と科挙は類似している。終身雇用が封建的忠誠を要求する。

 

 

科挙―中国の試験地獄 (中公新書 (15))

科挙―中国の試験地獄 (中公新書 (15))