アメリカを調べるうえで必読の書だと直観した。宗教、政治、文化の面から反知性主義の推移を書きだす。
エマソンのことば……「正直に、事実を述べようではないか。わが国アメリカは皮相な国だといわれる。しかし偉大な人びと、偉大な国ぐにが、かつて法螺ふきや粗野な道化師であったことはなく、彼らは人生における脅威を察知し、みずからを励ましてそれに直面してきた」。
第一部 序論
反知性主義の概略。反知性主義はしばしば自国批判のことばとして用いられる。五〇年代、マッカーシーは大学と知識人を攻撃し、俗物のアイゼンハワーが大統領選に勝った。ビジネス優位の社会は、ほぼ例外なく社会の俗化をしめすと騒がれ、知識人と民衆の深い断絶が取りざたされた。その後、ロシアのスプートニク打ち上げにより知識・教育の重要性がふたたび持ち上げられ、国民は自尊心を傷つけられ、マッカーシーは支持を失った。
「民衆の情熱は知性を豊かにすることより、もっぱらより多くの人工衛星を製造することに向けられたようだった」。
一九五八年には、反知性主義は国家の弱点だということを多くの人びとが受け入れた。
反知性主義はマッカーシズムの時代より前にさかのぼる深い根をもっている。それは建国以前からはじまった。この言葉を見直すことが大事である、「知性あるいは知識人にたいする純粋な嫌悪はまれである」。
――私が反知性主義と呼ぶ心的姿勢と理念の共通の特徴は、知的な生き方およびそれを代表するとされる人びとにたいする憤りと疑惑である。そしてそのような生き方の価値をつねに極小化しようとする傾向である。
知識人はお互いけんか腰になって批評するのが仕事である。ここでは、エマソン、ホイットマン、ニーチェ、ロレンス、ウィリアム・ブレイク、ヘミングウェイといった反合理主義は対象にはならない。
反知性主義的な現象があげられる。
一九五二年の総選挙中、エッグヘッドという嘲笑的な語がとびかった。アイゼンハワーは知識人を揶揄する発言をおこなった。純粋科学への軽蔑としてウィルソン国防長官が言った、「私は軍事研究家として、じゃがいもを揚げると茶色になる原因にほとんど興味がない」。
マッカーシー曰く、名門で教育ある、恵まれた家庭の青年たちこそがこの国を裏切った。鼻持ちならない東部人が、アイビー・リーガーが裏切った。「わが国の大学は、将来の野蛮人が訓練を受ける場所である」、これは共産主義への敵意である。
「大学にたいする右翼の敵意」。
ミシガン州下院議員ドンデーロにいたっては、反知性どころか反文化的にうつる……「もろもろのイズムのつく芸術は、ロシア革命の武器であり……愛すべきわが国のいわゆる近代芸術や現代芸術は、堕落、デカダンス、そして破壊のイズムをすべて含んでいる」。福音主義者ビリー・グレアム。読み書き算数ができなくてもよいと主張する論者もあらわれた。学校への嫌悪。
――複雑なアメリカをインテリと愚者の戦いとして割り切るのは妄想であり、私はこの妄想に縛られない。
まず国民の大半は非知識人であり、彼らは知識人にたいして矛盾した感情を抱いている。反知性主義はアメリカの一部を構成しているが、すべてではない。著者は、反知性主義はどの社会でもみられるが、とくに英米で顕著であると主張する。
「イギリス人ほど知性と知識人を軽視し、不信の念をいだいてきた国民はいない」。
知性をただしく評価し、位置づけることが大切である。エリオット曰く「人間的な属性の不足した知的能力は、チェスの神童とおなじ意味でのみ、尊敬される」。
――教育ある者にとって、もっとも有効な敵は中途半端な教育を受けた者であるのと同様に、指折りの反知性主義者は通常、思想に深くかかわっている人びとであり、それもしばしば、陳腐な思想や認知されない思想にとり憑かれている。
反知性主義の主導者はたいてい追い出された知識人である。ビートニクや福音主義者を見よ、彼ら反知性主義者はたいてい、はるか昔に死んだ知識人(神学者やアダム・スミス)に傾倒している。知性があやまった方向に導かれるとき、われわれは大義名分として反知性主義をもちいるにすぎない。この粉飾をはげば、歴代の反知性主義者たちがなにをもとめていたのかがわかる。したがって、この本は悪を解剖するものではない。
動物の生来の能力である知能が普遍的な価値をもつとされるのにたいし、知性はときに疑惑の目をむけられる。
これをよくあらわしているのが、アメリカの発明家への尊敬と、純粋科学への軽蔑である。
「一般的には、知性とは特定の専門職の属性と考えられている」。
知識人とはブリーフケースを持ち歩く人である。知識人と精神的労働者とのちがいは、知識のために生きるものと知識を食って生きるものとの違いである。前者は、考察のなかに「絶対的な価値を認める」、聖職者の仕事をうけつぐものである。
マルローの小説、人生を最大限に生かすには「そのためにはできるかぎり広範囲の経験を、意識的思考に転化することである」。
知識への敬虔な信仰が、狂信にかわらぬために、遊びというものがある。
「知的生活の意味は真理を所有することではなく、不確実なことを新たに問いかけることにある」。
遊び心と敬虔のバランスが重要である。一方は数寄者に、もう一方は狂信者に陥る。知性と実用性の問題。
今日では、知識人の実用性があまりに向上したために、怨恨の対象にされる。反知性主義は権力への敵視の一形態となっている。
「アメリカの歴史には、憎悪を一種の信条へと上昇させてしまうある精神類型がつねに存在してきた」。
階級間対立のかわりに、アメリカでは特定の集団がスケープゴートにされる……フリーメーソン、奴隷廃止論者、カトリック教徒、モルモン教徒、ユダヤ人、黒人、移民、酒造業界、国際銀行家、そして知識人である。
アメリカでは公人になる以上下品にまみれるのをまぬがれない。トマス・ジェファソン曰く「巷間の話題になっているかぎり、悪口をいわれ中傷を受けるというのが、アメリカ人の第一の属性であり、特性ではないだろうか?」
大審問、赤狩りについて。マッカーシーは共産主義撲滅を看板に追放運動をおこなった。だが、そのなかには共産主義者でないものもいた。
「彼らは、共産主義者と一角獣の区別などほとんど気にかけていないようだった……審問者たちはリベラル派、ニューディール派、改革派、国際主義者、知識人」を攻撃した。ニューディールの目指す福祉国家は共産主義に結び付けられた。一方、国際政治で台頭する共産主義には、この狩人たちはまったく無頓着だった。
彼らは誰だったのか? 一九一四年までの、孤立した平和な古きアメリカの末裔たちが復讐をおこなったのだ。「宗教的には根本主義、偏見については移民排斥、外交政策においては孤立主義、経済においては保守主義」だったアメリカが、海外にひっぱりだされ、また海外からの闖入をこうむった。かつては、アメリカは農村社会だった。
南北戦争を通して、アメリカ人は「政治的抽象概念やイデオロギー上の一般概念に固執すべきでないという信念がさらに強まった」。イズムを避ける風潮は、しかし、孤立主義がおわるとともに消えて、北米はイデオロギーの紛争地帯のひとつとなってしまった。当時世界を分割していたナショナリズム、帝国主義、ファシズム、共産主義、社会主義の影響をうけることはさけられなかったのである。
これを解決するには、アメリカ式の、中庸の民主主義を導入すればいいのではないだろうか? これが現在の挫折の根源である。「アメリカ的直接行動主義」がこれを実行にうつした。アメリカ型平和をさまたげるのは偏狭なイデオロギーである。その国内での先鞭こそ知識人である。
――本書の目的は、われわれの歴史上のいくつかの社会的動きのなかで知性が他の人間的徳性と同等ではなく、特殊な悪徳の地位に貶められてきた事実をたどることにある。
アメリカにおいては知性よりは宗教のほうがいまだに信頼を得ている。アメリカにおける原始主義(プリミティズム)は「人間の内なる「自然」の力を回復させたいという要求」である。神と自然に近づくこと。曰く、合理性は人工物だが知恵は神与のものだ。超越主義、黒人やインディアンの英雄、開拓地のイーロー、西部劇、探偵小説など。もともとアメリカ人は抑圧と頽廃のヨーロッパから逃げ出してきたのだから、当然である。
「アメリカ精神は何度となく、組織化された社会の浸蝕に苛立ちをみせてきた」。
文明には、なにか有害なものが混じっている、彼らはそう考えた。トクヴィル曰く「民主主義においては、商業よりも偉大で輝かしいものはない」。ビジネスは男がやり、文化世界は女どもにまかせておけ……こうして文化は女性的なものとなってしまった。
近年特に顕著なことは、知性が「人びとから平民の感覚をほぼ確実に奪い取る資質として恨まれていることである」。
- 作者: リチャード・ホーフスタッター ,田村哲夫
- 出版社/メーカー: みすず書房
- 発売日: 2003/12/19
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