うちゅうてきなとりで

The Cosmological Fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『想像の共同体』ベネディクト・アンダーソン その1

 国民国家論の有名な本。日本語が読みにくい。

 

 Ⅰ 序

 インドシナ戦争をみて、マルクス主義諸国もまた、国家という概念のもとに成り立っていることを指摘する。

 「ナショナリズムマルクス主義理論にとって厄介な変則であり続けてきた」。

 ナショナリズムパラドックス……まず、歴史家には新しいものと映るのに、ナショナリストからは古い、歴史あるものに映ること。次に、現在では人間が皆国家に帰属できることになっているのに、実際にはそうでないこと。最後に、政治的影響力の大きさに反して、ナショナリズムの内容は貧困で支離滅裂であること。

 ナショナリズムは、神経症と同じ病理としてとらえられている(「神経症と同じように本質的にあいまいでやがては痴呆症へと陥っていくものであって……」)。これは、ナショナリズムを思想のひとつとしてとらえてしまうからであって、人類学的にとらえなければならない。

 「国民とはイメージとして心に描かれた想像の政治共同体である――そしてそれは、本来的に限定され、かつ主権的なものとして想像される」。

 ゲルナー曰く「ナショナリズムは存在しない国民を発明すること」。

 

 ナショナリズムは必ず境界をもち、外には他国民がいる。また、ナショナリズムは主権的でなければならない。

 

 Ⅱ 文化的根源

 無名マルクシストの墓とか無名自由主義者の墓ほどこっけいなものはない。ナショナリズムは死と不死と強い親和性をもっているが、これは宗教に似た性質である。

 宗教が何千年ものあいだ支持されてきたのは、人間を司るものである偶然に、想像力に満ちた回答を与えてくれたからだった。また、連続性の提示により不死が暗示され、われわれは子供の誕生を認識するのである。

 こうした宗教的思考がたそがれになったとき、啓蒙主義・進歩的思想が生れたのだった。だが、偶然を運命と連続性に変える必要はなくならない。

 ――ナショナリズムは、自覚的な政治的イデオロギーと同列に論じるのではなく、ナショナリズムがそこから――そしてまたそれにあらがいながら――存在するにいたったナショナリズムに先行する大規模な文化システムと比較して理解されなければならない、ということである。

 この日本語はどうにかならないものか。

 つまりナショナリズムと先ナショナリズムを比較せよということ。それは宗教共同体と、王国である。

 三大宗教、そして中華の共同体は、「主として聖なる言語と書かれた文字を媒体とすることによってはじめて想像可能となったのだった」。

 コーランアラビア語でしか書かれていない。イスラムは漢字や数学と同様、音ではなく記号によって共同体を想像した。古典アラビア語や、サンスクリットのように、聖なる言語は死語になっているほどよい。漢字を習得した夷荻は、中華の共同体に組み込まれた。

 この時代、聖なる言語はまさに世界の真実をあらわすものだった。これを学ぶことでだれでも、共同体に改宗できた。

 中世以降の世界拡大によって、この宗教の力に衰退のきざしがあらわれる。フビライ・ハンは領内のさまざまな宗教すべてを尊重した。また、出版の勃興によりラテン語が唯一の言語ではなくなる。ホッブズは神聖語(ラテン語)で書いたため広く評価されたが、もし英語が普及しなかったらシェイクスピアは島国の一作家にとどまっただろう。

 俗語での著述・出版が増えるにつれて、神聖言語に基づく共同体は分裂し、複数化・領土化をはじめたのだった。

 王権はすべてを中心にしたがって配置するので、周辺部や境界では主権が重なりあっていた。領土拡大は戦争だけでなくハプスブルク家のように結婚によっても広げられた。後期ハプスブルク家はヨーロッパのほとんどの領地を独占していたといっていい。また、雑婚は威信の源である。十一世紀以来イングランド人がロンドンで王朝を支配したことはなく、ブルボン家に国籍は存在しない。

 この王国というシステムも、清教徒革命でステュアートが処刑されるなど徐々に衰退した。代わりに権力をもったのは平民の護国卿クロムウェルだった。以降、王の正統性を叫ぶ声は大きくなった。タイは王権支配の機微を学ばせ、一九一〇年「ラーマ六世が即位したときに、英国、ロシア、ギリシア、スウェーデンデンマーク、そして日本の皇太子が式典に参列し、彼の即位は王際的承認を得たのであった」。

 完全に王国のシステムが崩壊するのが一九一四年である。

 だが、これら宗教共同体、王国の崩壊の下には、さらに根源的な世界理解様式の変化があった、と著者は言う。キリスト教文化を見ればわかるように、圧倒的に視覚・聴覚に訴えるものである。マリアを考証にしたがいセム族の容姿で描くなど考えられないことだ。

 同時性の観念はわれわれとはまったく異質のものである。イサクの生贄事件は、キリスト受難を予兆するものなので、時間的に因果関係のない出来事のあいだに関係が確立される。この時間間隔が変化し、時計と暦で計られる「均質で空虚な時間」となったとき、中世が終わった。

 曰く、小説と新聞が、国民という想像の共同体の性質を「表示」する技術を提供した。たとえば、小説のなかでまったく出会わない二人の人物がいたとしても、二人は社会にはめ込まれているため、関連しているとわかる。また読者は登場人物の動きを神のように同時に眺めることができる。

「社会的有機体が均質で空虚な時間のなかを暦にしたがって移動していくという観念は、国民の観念とまったくよく似ている」。

 国民もまた歴史を動いていく堅固な共同体とされる。わたしはほとんどの日本人を知らないにもかかわらず彼らの同時的活動を確信している。近代小説は国家を箱庭にして繰り広げられる。話者は自国民に向かって語りかける。

 一方、バルタサルの叙事詩は、年代記のように(直線的一列縦隊の話法)進むのではなく会話からの過去のフラッシュバックによって物語を構成する。

 「(彼は)次々と職を変えた。神父、賭博師、盗人、薬剤師見習い、医者、いなか町の書記等々……」

 この複数形の行列が、同等の牢獄、固有の重要性をもたない牢獄を意味している。聖書の牢獄はひとつひとつが孤高であるのにたいして。

 近代小説では、われわれはいつも暦の時間と見慣れた風景のなかに投げ込まれる。新聞を読んで青年は浮浪者の死体を想像するが、それは誰でもない、浮浪者という人間集団である。なぜ新聞では事件が並列されているのか。まずは暦の上での偶然である。殺人がある日掲載され、その後一週間記事にならなくても、われわれは殺人がなかったことになったとは考えない。

 「新聞の小説的構成によって、読者は、どこか向こうの方で「登場人物」殺人が次の出番を待ちながら静かに移動しているのを確信しているのだ」。

 新聞は一日限りのベストセラーで、翌日からは紙くずになる。これにより、国民は新聞的「時間」を共有することができるのだ。塩・砂糖は時計とは異なる時間を進むから、時代遅れになったりしない。

 同じ時間を生きる想像の共同体。これを彼は世界理解変化の深層とする。

 「宇宙論と歴史とは区別不能であり、世界と人の起源は本質的に同一であるとの時間観念」の衰退。

 ――出版資本主義(print capitalism)こそ、ますます多くの人びとが、まったく新しいやり方で、みずからについて考え、かつ自己と他者を関係づけることを可能にしたのである。

 

想像の共同体―ナショナリズムの起源と流行 (ネットワークの社会科学シリーズ)

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