うちゅうてきなとりで

The Cosmological Fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『消去』トーマス・ベルンハルト その1

 オーストリアの代表的な作家。呪詛でつくられた小説だとのこと。薄暗い、暗鬱な、じめじめした旧家、土地持ちの家に一生住み続けることを義務付けられる家に生まれた主人公が、脱出した話。

 

 電報

 これはフランツ=ヨーゼフ・ムーラウの手記である。彼は両親と兄の事故死の電報を受け取った。

 教え子のガンベッティに渡す本のなかには、ベルンハルト『アムラス』なるものがある。

 「私」は故郷ヴォルフスエックとその家族と仲違いし、まったく縁を絶って生活しているのだった。

 

 改行がなく、間接話法、同じことの繰り返し(痴呆?)が続く。ムーラウの家は土地持ちの資産家で両親たちはいかにその不動産を守り抜くかに人生のすべてを注いでいた。働くために生きる中欧人を彼は軽蔑した。彼が家族で尊敬し、親しみを感じていたのは母の兄、ゲオルク叔父だけだった。叔父もまたヴォルフスエックを嫌って外国に行った。彼がいないとき家族の食卓で豚と牛と薪と倉庫の値段以外の話がされたことがなかった。ゲオルクはムーラウによれば真に芸術を愛する人間であった。ヴォルフスエックの家族は邸宅の蔵書を自慢していたものの一度も読んだためしがなく、蔵書自体も何代も前の祖母だかが揃えたものだった。

 「私」は両親と兄の死を契機に因習的な故郷の思い出をひとつひとつこきおろしていく。曰くドイツ語は考えを押し潰してしまう、だからドイツ語で書かれたものは皆鉛のように重々しいのだ。彼やゲオルクは反動として地中海諸国、特にイタリアにあこがれを抱いていて、教え子であり友人のガンベッティはおそらく彼のもっとも親しい人間である。

 写真は人間の実体をよく現していない人類の犯罪的発明である。ゲオルクがかつてヴォルフスエックに来たとき、彼は妹の服を批判した。

「まるで喪中みたいだよそれじゃ。父が死んでからはもう十五年になるんだよ……自分で自分に「雇われてる」みたいに見えるよ。私は大きな声で笑わずにいられなかった」。

「ドイツとオーストリアといわゆるスイス・ドイツ語圏には食事なんてものはない、あるのは餌だ……胃と全身に加えられる暴行だ」。

 叔父曰く中欧の人間は人間というより人形に似ている。

 美学を学ばずに自然の美しさをほんとうに感じることはできないと、ゲオルク叔父に主人公は二十歳過ぎてから教えられた。彼は両親に古代芸術の攻撃を浴びて芸術にたいして何も感じなくなっていた。ムーラウは現在、オーストリアを批判する文章を新聞などで発表しているようだが、本国から次々と憎悪の手紙がやってくるのだった。脅迫状に近い手紙を書くのは予想に反して狂人どもではなく、まともな人間たちだった。オーストリアは彼ら曰く「ただただ素晴らしい国」である。

 双子の妹ツィツェーリアとアマーリアは散々主人公をいじめた。残酷な子供は残酷な大人に成長し、いつも姉妹でべたべたしていたので結婚もできなかった。兄ヨセフスは弟よりも不器用で、よくやつあたりするのだった。

「精神的人間にはいわゆる無為などそもそもありえないのだ。ところが両親の無為ときたら文字どおり何もしないことだった。というのも彼らが無為に過ごすとき、二人の中では何ひとつ進行しなかったからだ。精神的人間はまさにその反対に、いわゆる無為に過ごすときもっとも活動的なのだ」。

 ――大学教育を受けた人間の大半は、たとえば私の知っている医者の大部分がそうだが、学業を終えたとたん、すでに自分は自らの存在の頂点に到達したと信じ、自らの存在の要件は十分に満たされたから、もはや知識や認識や人格を拡げるために苦労する必要はないと思うものだが、私の家のものたちも、いわゆる古典語ギムナジウムを修了した時点で、いっさいの努力を放棄し……

「彼らは何かに賭けることも、危険を冒すこともなく、ごく若いうちに、これから述べるように、自分の人生を諦めたのだ」。

 このムーラウは、案外若々しい考えをもっている。

「自分はかくかくの人間という言い方はせず、自分はしかじかの肩書き、しかじかの証明書、という言い方をする」。

「人々がコーヒー店で出会うのはフーバー氏ではなく、フーバーという博士号であり……」

 彼曰く人間とくに中欧人は勤勉に働く役を演じるのが得意である。実際は怠惰であることに自分でも気がつかずに苦役に従事していると彼らは考える。作業着を着ればそれでもう哀れな労働者なので、インテリはだんまり役をするしかない。

 語り手はロマンス語圏、イタリア、スペインにあこがれている。厳格で重厚なゲルマンの気風に嫌気がさしたのだろうか。だが、これだけ呪詛を吐きつづける自信もなかなかのものである。彼は知識階級という肩書きについた責務を全うしている。蒙昧を批判すること、因習を打破すること。

 若干逆恨みの異常者といった感じもある。

「すべての瓶詰め食品、とりわけマーマレードに対する恒常的な憎しみが定着した」。

 金銭欲にとりつかれた母を憎悪する、「あの女、つまり私たちの母は破壊者以外の何者でもなかった」。

「周知のように、人間は自分の養育者を憎む」。

 建築へ矛先が向けられる。

「最初はまるで戦争が私たちの町と私たちの風景をすっかり破滅してしまったかのように見えるが、実際にはこの何十年かの間に倒錯した平和が戦争によるよりももっと非良心的な破滅をもたらしたのだ」。

 彼曰くいまオーストリアを支配しているのは破滅する者、消去する者である。風景は破壊され、「同時に民衆の魂と人格をも破壊した」。

 ――君が美しい国へと旅しているつもりだとしても、実際、本当のところは、異常な仕方で運営されているオフィスビルへと旅しているんだ。

「いまや至るところに悪意に満ちた雰囲気が支配的になっている」。

 オーストリアほど、退屈なスローガンをクソまじめに受け取る国はない。まやかしの、うわべだけの社会主義者による進歩の合唱。

 ヴォルフスエックの人間は人形の家で、人形母、人形子供が住んでいる。母親は遊戯衝動がおさまらず人形を産んで人形を育てて遊ぶのだ。世界にはふたつの世界があり惨めな現実と、うすきれいな幸福を偽った写真の世界である。自分がどんなに幸せな人間であるかを示すために嘘っぱちの写真を引っ張り出して来客に見せる。

 「わたし」は弟子ガンベッティにたいしては誠実であらねばならないと誓っている。「場合によっては、ひどい人間にランク付けされてしまう危険」を冒そうとも、嘘で身を隠してはならない。

 ――しばらくの間は、私にはそこが楽園であることが分かっていた。しかしまもなくこの楽園は暗くなり、次第に私にとって煉獄に変わっていき、最終的には地獄になった。

 ――私たちが二度目に読むたいていの作家は、そもそもその作家を一度読んだこと自体が恥ずかしくなるような手合いである。

 この例外としてあげているのが、カフカツルゲーネフレールモントフプルーストフローベールサルトルである。

「両親は……私の若い頭を長年にわたり、カトリック的国民社会主義的な仕方でひっかきまわし、めちゃくちゃに破壊してしまった……あの不吉なカトリック的手法で私たちの頭を台無しにした」。

 曰くカトリックは自立的思考を破壊された何億人ものカトリック教徒によって支えられている。

「というのもカトリック信仰は、徐々に自立性を失ってゆき、自分の頭をもたない、他のいわゆるより高次な頭に自分の代わりに考えてもらわねばならない弱い人間にとっては、唯一の救いだからである」。

 

 オーストリアの政治はカトリック的頭脳にゆだねられている。近年になるまでとくにオーストリアカトリックに牛耳られるほど弱い国民であった。

カトリック教とハプスブルク家はこの千年の間に私たち国民の頭に破滅的影響を及ぼした」。

 考えるのを抑えつけられたので、阿呆のように音楽が隆盛したと言う。ひどい言い様だ。

 ショウペンハウアーが好きだった。

「誇大妄想にでもならないかぎり、とても自分が彼らを理解したなどとは言えない、それは自分自身についても、誇大妄想にでもならないかぎり、私自身を理解したなどと言えないのと同じことだ」。

 人間の時間は短すぎるので与えられるのはいつも認識ではなく近似値である。じきにわたしの人生も消去される。

 哲学者は誤った結論を出すために死ぬか発狂するかするまで考えることをやめなかった。

「私たちは何かを語り、それについて非常にはっきり分かっていても、次の瞬間にはもう自分の言ったことが分からなくなっていることがある、と私はガンベッティに言った」。

 この「と私はガンベッティに言った」、はいったい何回出てきただろうか。

 わたしたちは自分の頭を過大評価する。自分の考えを秘密にできないものは抹殺される。

 ヴォルフスエックの大邸宅は猟師と庭師を囲っており、兄は猟師と、「私」は庭師と親しくなった。オーストリアの男は皆狩猟服を着るのでこの国には猟師しかいないのではないかと思われるかもしれない、と彼は言う。庭師が長寿だったのにたいし猟師はいつもアル中になり猟銃自殺をするのだった。安全装置をはずした銃をかたわらに酒場でよく喧嘩をしたが、田舎の喧嘩によくあるように最後はけが人か死人がでた。

 気に入らない人物は誤射したと称して殺し、警告だけで放免されたのだった。そもそもナチスというものが猟師の集まりである。ここからナチスへの言及がはじまる。猟師たちはみな熱心なナチスになり、母と父も狂信的ナチスになった。邸宅には鉤十時がかかげられた。

 友人マリアとアイゼンベルク、スパドリーニらの話。マリアは詩人で、ローマ人でありウィーン人だ。『意思と表象としての世界』が頻出する。世界について何も知らないのに自分たちが世界の中心であると思い込む五万人を抱え込んだ地方都市で、マリアは生まれた。

「私たちは他人を卑しくて下劣な存在に仕立て上げようと、ありとあらゆる論拠を探してくるが、実は自分たちこそもっとずっと卑しくて下劣なのである」。

 スパドリーニと主人公の母は不倫をしていて、スパドリーニに会うために主人公を訪ねるという口実でローマにやってくるのだった。

「世界は事実ではなく、もっぱら嘘と偽善に慣らされているからだ。実際、この世界では事実は無視され、幻想的観念が事実だとされるのだ」。

 彼曰くヴォルフスエックは田舎地獄である。

 ――ああいういやな奴らが住んでいるのなら、あの小さな町々の美しい路地が何の役に立つ、多かれ少なかれ憎むべき奴らがたむろしているのなら、あの美しい広場が何の役に立つ、と私は考えるのだ。

「彼らは働くために生き、生きるために働かない」。

「孤独は、私がいまもう感じはじめているように、他の何にもまして人間を不幸にするものだからだ……孤独はあらゆる罰の中でもっとも恐ろしい罰だ」。

 ――気が狂った者だけが孤独を宣伝する。そして完全にひとりでいるということは最終的には、完全に気が狂っていることにほかならないのだ……

 

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