『ワイマル共和国』につづいて林健太郎のヨーロッパ史を読む。戦間期は、現在のシナイ半島紛争の要因であり、また今読んでいる『ブリキの太鼓』の舞台でもあり、ユンガーの活躍した時代でもある。この時代およびビスマルクからはじまる近代ドイツの歴史を把握しておくことが重要である。
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第一次大戦におけるドイツの戦略は参謀総長シュリーフェンの考案した「シュリーフェン計画」に基づいておこなわれるはずだった。ところが次期参謀総長モルトケは、計画の根幹たる西部戦線右翼の強化をせずに戦線を停滞させてしまう。この最初期のたたかいがマルヌおよびタンネンベルクのたたかいである。東部戦線が順調に進む一方、ヴェルダン、ソンムと西部戦線の激戦がつづく。モルトケのあとに就いたのがファルケンハインである。
国際連盟設立を唱えるウィルソンと対立したのが、従来の勢力均衡理論とドイツへの報復を志す首相クレマンソーだった。パリ会議ののちのヴェルサイユ条約では、民族自決の概念に基づいて領土調整がおこなわれた。ところがここには問題点がいくつかあった。
具体的には、あらゆる欧州国家に海への出口を与えるという理念から、ドイツ人の都市ダンツィヒやイタリア人の居住地域フィウメがそれぞれポーランド、ユーゴスラヴィアに編入されてしまったこと、またオーストリアとドイツとの併合(両国ともドイツ人国家)が拒否されたこと、ポーランドが他民族の地域までをも自国領土としたことなど、民族自決にそぐわぬ政治的な領土再編がみられる。
とくに問題となったのはトルコの分割である。「メソポタミア(イラク)とパレスチナ、トランスヨルダンはイギリスの、シリアはフランスの委任統治となった」が、実相は領有である。またイギリスは、パレスチナの独立を援助する一方で、「バルフォア宣言」においてユダヤ人のパレスチナ帰還を支持したため、続々と移民を流入させることになった。これが現在までつづく対立の要因のひとつである。
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ロシア革命についてはこれまで読んだ本のとおり。レーニンやトロツキー、秘密警察(チェカ)を率いる冷酷なジェルジンスキー、彼らすぐれた革命家たちによってプロレタリア独裁の基礎が築かれた。
ヴェルサイユ条約によって独立した東欧諸国のほとんどは、民主主義の経験がないため右翼と軍人による独裁政権の跋扈するところとなった。例外として安定した民主政を達成したのがトマース・マサリク率いるチェコスロヴァキアである。
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ドイツは敗戦後たびたび共産革命がおこされたがそのたびに失敗し、やがて左翼に幻滅した国民は右傾化していく。ドイツはすでに先進工業国であったため、労働者の間には共産主義への志向が生まれなかったのだと著者は述べている。敗戦時に解体された国防軍の残党が義勇軍となり、このなかからバイエルンの州都ミュンヘンを根城にするナチスが生まれることになる。
ワイマル共和国時代、軍部はひそかにソ連と密約を結び軍事的協力を推し進めていた。シュトレーゼマン首相時代がワイマルの最盛期であるといえる。フランス第三共和国はクレマンソーおよびポアンカレのもとで国家建て直しを敢行したが植民地の混乱や不況など先行きは暗かった。一九二五年のロカルノ条約によってひとまずヨーロッパの外交は回復し、国際協調がはかられることになる。
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イギリスは戦時中、アスキスにかわってロイド・ジョージが独裁体制を敷き、無事切り抜けることができた。しかし戦後になると人望を失い、また保守党と新興左翼勢力である労働党に支持が集中し、彼の所属する自由党は少数党に転落してしまった。
ロイド・ジョージの後、保守党からボナー・ロー、ボールドウィンが首相となり、マクドナルド労働党内閣を経て再びボールドウィンが首相の座に就く。
大英帝国のおもな領地……オーストラリア、ニュージーランド、カナダ、南アフリカは一九三一年のウェストミンスター憲章によって、英国王を元首に戴きながらも実質独立国となった。アイルランドは戦時中の叛乱を経て一九二二年独立する。
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イタリアは準備もなしに連合国側として参戦し、戦後はうまく立ち回って未回収のイタリアを回収することができた。しかしもともと後進国だったので経済は困窮し、自由主義政権はなすすべもなく無政府主義勢力および民族主義勢力の台頭を許した。この社会主義的側面と民族主義的側面をうまく融合させたのがムッソリーニ率いるファシスト党である。無法者の黒シャツ団を率いるこのギャング政党に、イタリア人民は国家を委ねたのである。
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ウィルソンののちハーディング、クーリッジと大統領がつづくあいだアメリカは経済繁栄を享受したが、一方で禁酒法やKKK、ファンダメンタリスムなど農村部の貧困問題も顕在化した。日本を抑止するためのワシントン条約、ロンドン条約はやがて日本の国粋主義を生むことになる。
ソ連において純粋な共産主義政策が用いられたのははじめの数年のみである。一九二一年のクロンシュタット水兵の叛乱後(トハチェフスキーにより鎮圧)は、新経済政策(ネップ)によってある程度自由経済の要素が取り入れられた。レーニン存命の時代は飾りのカリーニンを議長として、政治局にはレーニン、トロツキー、スターリン、カーメネフ、ブハーリンが就いていた。スターリンのみは書記長も兼ねていた。
トロツキー対トロイカ(スターリン、カーメネフ、ジノヴィエフの三頭政治)を経て、スターリンはうまく立ち回り実質指導者の地位を手に入れる。
スターリンは五ヵ年計画を発表し、カーメネフ、ジノヴィエフ、ブハーリン、ルイコフ、トムスキー、トロツキーらを政局から排除し、やがて粛清することになる。五カ年計画を通して国民はゲー・ペー・ウー(チェカの改善版)の監視下に置かれ、官僚統制が敷かれたが、工業化は成功した。
ドイツではヒトラーがライヒスバンク総裁シャハト中心とした実業界、および東部ユンカー(大土地所有者)を取り込み党を拡大しつつあった。
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大恐慌は世界に大きな影響を与えた。アメリカの生産高は落ち込み、アメリカの資本導入に依存していたドイツも恐慌に陥り、これと連動して国際金融の中心オーストリアのクレディト・アンシュタルトも倒産する。英もマクドナルド国民内閣によって対処をせまられる。フランスは農業国であり国民が貯蓄と公債を好む傾向にあったため、被害はそれほど大きくなかった。
シュライヒャーやパーペンによるワイマル共和国の破壊、それにヒトラーの政権奪取は以前読んだ通りだ。沈む船の上で椅子取りゲームをするとはこのことである。
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WW1終結後混乱するヨーロッパでまず受け容れられたのがシュペングラーである。芸術運動は盛んになったが、総じて感じるのは知識人・芸術家の無力である。もとから無力だったのだからしょうがないだろうが。シュペングラーなどは「保守革命主義者」とされ、ナチスとも思想傾向は類似していたが、ナチスの野蛮さにはまったく賛同しなかった。芸術家が政治や闘争の世界で生き延びるには、その前衛になるよりほかないようだ。
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WW1によってヨーロッパの均衡が崩れた後、これを完全に克服することができなかった結果、WW2が起きたのである。政治と経済との両面において各国は傷を抱えていたが、ここにつけいったのがデマゴーグたちだった。
ドイツの運動、ソ連史、および全体主義とナチズムについてはまた個別に調査する必要がある。