平沼騏一郎ではないが、複雑怪奇な陣取りゲームで、すべての国家の動向を把握するのは自分には不可能だった。
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本書のテーマとなる1848年から1918年の七十年間は、経済や外交といった非軍事力によってヨーロッパの列強が争った時代であり、またヨーロッパが世界の中心であった最後の時期でもある。
二月革命以後のヨーロッパの推移としてあげられるのが、フランスの停滞とドイツ、イタリア、ロシアの台頭、オーストリアの衰退である。また、欧州勢力すべてを凌駕するものとして、やがて合衆国が出現する。これら列強の推移は人口、軍事費の割合、軍事力などのデータによって示されている。プロイセンの軍国主義までは、人口が軍事力にそのまま反映されていた。プロイセンが三年間の徴兵制を採用することで、軍事革命が発生する。
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この時代においては、radicalやrevolutionaryがマルクス主義のみを指すのでないことに注意しなければならない。ドイツの統一主義者や、イタリア、ポーランドなどの独立派、フランスの共和派もまた、保守反動、すなわち既存の体制にたいする危険分子だった。
the straitとは黒海海峡をさす。the soundは、soundが海峡なのでおそらくジブラルタルか、もしくは黒海の海峡をさすのだろう。
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革命の外交
フランスにおいて1848年の革命がおこり、ラマルティーヌ率いる臨時政府が誕生し、欧州各国に影響をおよぼす。三帝同盟のうちオーストリア、プロイセンともに、ロシアかイギリスに従うことを好んだ。プロイセン皇帝は「ロシアには決して刃を向けない」といった。英墺露の進出するトルコは、このときはまだ紛争にいたるとは考えられていなかった。
一方、ドイツのリベラルはロシアを憎悪し、戦争のみがドイツを統一させると息巻いた。彼らは自分たちをオーストリア支配に抵抗するイタリアになぞらえた。
シュレスヴィヒ=ホルスタイン公国をめぐってドイツ連邦とデンマークが争うが、各国はこれに手を出さなかった。当時の人間は、ウィーン体制以来、フランスの力を過大評価していた。イギリスにとってはデンマークやポーランドの紛争は大事でなく、フランスの力の及ぶイタリア問題こそが重要だった。イギリスはパルマストンのもとで最盛期にあった。
イタリアのナショナリズムは英仏墺によって問題視されたが、最終的にフランスがヴェネツィアを占領する。オーストリアの宰相がリアリストのシュヴァルツェンヴェルクに変わる。彼は原理ではなく事実に基づいて外交を展開しようと考えた。オーストリアとフランスは、お互いに協調できるはずだと彼は考えた。すなわち、イギリスを牽制し、イタリアの統一とドイツの統一を阻止することが、秩序の維持につながるのだ。オーストリアに続いて、フランスにおいてもリアリストがあらわれた。一九四八年十二月の選挙によってナポレオン三世が大統領となり、第二帝政を開始する。英仏墺において、自由主義的な、ナショナリズムに同情的な、理想主義的な政治はおわった。
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反動の外交
ルイ・ナポレオン、オーストリア皇帝、フリードリヒ・ヴィルヘルム、ヴィットーリオ・エマヌエーレ、彼らは皆正統的君主にもかかわらず革命的、ロマン的野心を抱いていた。その上、彼らは革命的手段を避け、現実の機微を見て外交を進めた。1949年ヴィットーリオ・エマヌエーレはオーストリアに対し独立を達成する。英仏の介入を恐れてシュヴァルツェンヴェルク(オーストリア宰相)はこれを承認した。
トルコを巡ってロシアと英仏が対立し、またデンマークとドイツ連邦の、シュレスヴィヒ=ホルスタインをめぐる紛争にたいしては英仏露が介入した。ドイツ統一をめぐるプロイセンとオーストリアの対立は、フランスがこれを煽ったという一面をもっていた。
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神聖同盟の終焉
一八一五年、ウィーン会議において、君主間の神聖同盟が結ばれた。イギリス、ローマ教皇、オスマン帝国をのぞくヨーロッパ諸国はこれに加わっていたが、トルコ権益をめぐって崩壊した。
1854年ロシアがトルコに宣戦布告することでクリミア戦争がはじまった。英仏はロシアの撤退を求めて艦隊を送った。ロシアは安全保障の面から撤退はできず、ナポレオンは国内での立場から撤退できず、イギリスは、地中海覇権のためにトルコの独立を維持しなければならなかった。ロシアと英仏、相互の恐怖がお互いを戦争にひきずりこんだ。クリミア戦争の問題はトルコではなく中欧だった。イギリスはロシアの覇権のかわりに勢力均衡を求め、フランスは自らの覇権を求めた。クリミア戦争は神聖同盟を破壊したが、かわりになにも生み出さず、ヨーロッパのシステムの無秩序を引き起こしただけだった。
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同盟国(英仏)はオーストリアを引き込もうと必死だったが、オーストリアは宰相ブオルの手腕によって中立を保つことができ、また講和もとりしきることができた。不倒要塞セバストポリが陥落すると、ロシアは無条件で同盟国側の提案を受け入れた。これは西洋によるあきらかなロシア侵攻であり、そのなかでももっとも首尾よくいった例だった、とテイラーは述べる。以降ロシアは西洋に介入せず、西洋諸国のうちはじめはナポレオン三世が、のちにビスマルクが覇権を握ることができるようになった。
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パリ会議とその結果
パリ会議は参加国のだれにとっても失望を禁じえないものとなった。イタリア独立を目指すカブールはフランスの援助を手に入れ、またフランスはロシアと協商を結んだ。自由イタリアこそ第二帝国の牙城となるはずだとナポレオンは考えていたので、ロシアがイタリア独立を容認するかわりに、将来ロシアに便宜をはかると約束した。宗主国オーストリアとイタリア(サルディニア)は開戦間近となったが、イギリスは攻撃された方に与すると宣言して戦争を回避しようとした。このあいだ、プロイセンはオーストリアと良好な関係にあり、中立を保っていた。
国際法や条約は明らかにオーストリアに有利であり、カブールは窮地に立たされていた。イギリスに促されて武装解除を試みるがこれをオーストリアが許さず、最後通牒ultimatumをつきつける。「人は失敗から新たな失敗を生みだすことを学ぶ」と皮肉られているが、クリミア戦争の際参戦を渋った墺は、今度は即座に開戦した。
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イタリア戦争
諸国の対立がうまく作用することでイタリアは統一を達成した。露仏協商によってオーストリアは孤立した。また、ドイツにおけ地位向上を目指してプロイセンがイギリスと協調し、オーストリアとウィーン体制は崩壊した。イタリア統一は英仏によって承認された。ヨーロッパの覇権はナポレオン三世の手に渡るかにおもわれた。
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1864年、デンマークの領地シュレスヴィヒ・ホルスタインをめぐって墺と普が進軍し、デンマークはすぐに負ける。ところが普と墺はこの取り分をめぐって対立し、1866年、普墺戦争がはじまる。伝記でも強調されていたが、ビスマルクは天性の外交官であり戦争はデメリットが多いとして嫌っていた。普墺戦争の結果プロイセンはドイツ統一へ一歩進み、一方オーストリアは大ドイツ主義の道を絶たれ、その後オーストリア=ハンガリー二重帝国となる。
Struggle for Mastery in Europe 1848 1918 (Oxford History of Modern Europe)
- 作者: A. J. P. Taylor
- 出版社/メーカー: Oxford Univ Pr (Sd)
- 発売日: 1980/12/04
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