英和辞書をひくと経験所与だとかききなれない単語が並んでいるが当面は無視する。
認識論ばかりにこだわっている、と一見感じるが、そもそも哲学自体この問題にまつわる学問なのだろう。
ただでさえ門外漢な哲学の、さらにややこしい分析哲学にいきなりとりくむのは無謀だった。この種の哲学と言語学は近いところにいるという感想をもったがどうだろうか。まずは哲学入門から学ぶ必要がある。
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1 appearance and reality
それぞれ現象、本質と訳すらしい。われわれが事象matterからうけとるのは知覚sensationである。事象と知覚はどのような関係にあるのだろうか。また事象とは存在するのか、するとしたらどういう性質をもつのか。
われわれが得るテーブルについての情報は、テーブルからうけとった知覚にすぎず、これは環境とわれわれ自身の状態に依存する。われわれから独立した、テーブルの本質を手に入れたわけではない。
バークレーは物質とは神の精神mind of Godのなかにあり、ひとが直接知覚することは不可能であるとかんがえた。知覚するものは現象、表層appearanceにすぎない。ライブニッツもバークレーと同じように、物事の本質は存在するだろうが直接見つけられないだろうと考えた。これがidealist唯心論、観念論である。
2 the existence of matter
matter物質は実在するのだろうか? それともまぼろしか、複雑な夢にすぎないのだろうか? この問いは重要な意味をもつ。
※くだらない、あほらしいとおもえる仮定も、哲学者は受け入れなくてはならない。あほらしい推論から考えることも必要である。
3 the nature of matter
われわれの知覚情報は、われわれの観念から独立して存在するなにものかの兆候である、ととりあえず仮定する。ではその「なにものか」はどういう性質をもっているのだろうか?
この問いにたいしては、科学がある程度のこたえを与えてくれる。科学の与えるデータはわれわれの知覚情報とはかけはなれている。空間にはわれわれ個人の得る個人的時間とはべつに公的に存在する物理空間がある。時間も同様で、われわれが感じる時間とはべつに公的な時間があるはずだ。
物理的物体と、知覚情報sense-datumは分ける必要がある。雷と音との関係、星そのものとわれわれのみる星との関係を考えるとわかる。
物理的物体との関係はわかるが、物理物体そのものの性質はわからないままである。これは直接知る方法はあるのだろうか。知覚情報と実体は精確にではないが類似している、という考えはすぐにあやまりとわかる。物体の色を例にとれば、色はわれわれと物体を隔てる空間の光に粒子に依存している。そもそも光線が目に届くことで色が生まれるのだから物体自体は色をもたない。
以上、多くの哲学者、観念論者は物質の実在を否定はしないが、物質は精神のなかにあると考えている。
4 idealism
観念論とは、存在するもの、存在するようにみえるものはいずれにせよ精神のなかにあるはずだという考えだとここでは定義する。われわれの常識からはかけはなれているが、くだらないといって捨ててはならない。
われわれが理解するapprehendものはすべてわれわれの精神のなかにある、というのがバークリーの主張である。なにかと接触することが精神のおもな機能である。知るとは精神とそれ以外との関係からなりたつ。これがものを知るという能力である。
「われわれがその存在を知覚していないことがらを、われわれは判断できない」
これはあやまりである。中国皇帝を知覚しなくても人づてにそれを知っている。この叙述に対応するものの存在はわれわれが近くしたものの存在から導かれる。
5 knowledge by acquaintance and knowledge by description
認識knowledgeにはことがらについての認識と真理についての認識のふたつがある。
「ことがらについての認識、つまり知覚する認識は、真理についてのいかなる認識よりも単純であり、真理の認識からは論理的に独立しており、真理を認識することなしに事物を知覚しているとおもいがちである」。
一方、叙述からの事物の認識は、そのソースや根拠にかんして、ある程度の真理認識とかかわっている。
テーブルの現象(表層)の認識にたいして、物体としてのテーブルを認識することは直接的ではない。物体たるテーブルの認識は、「記述、説明、叙述」descriptionのかたちをとる。すなわち、「これこれこういう知覚情報をひきおこす物体である」。物理物体を直接認識はできないが、この説明をとおしてわれわれは知る。これが叙述による認識である。
※分析哲学専攻らしき人間のブログでは、acquaintanceは見知ると訳されていた。
知覚情報sens-datumは知覚による認識のいちばんわかりやすい例だが、知覚するものがこれしかないとすれば過去のことや真理を知ることができない。あらゆる真理の認識には、一般概念universalsや、抽象的観念abstract ideasとよばれる、経験所与とは異なったものとの接触を要求するからである。
経験所与でない知覚には、まず記憶による知覚があり、つぎに内省introspectionによる知覚がある。われわれが太陽を見るとき、われわれはまた太陽を見る自分を見知っている。こうした自意識は自分のなかで完結しているが、この内省がなくては、他人に精神があるという推論にたどりつくことができない。おそらくこれが動物と人間をへだてている。動物は経験所与を知覚できるが、そのことを知覚はできない。ところが、この自意識はわたし自身(I, self)を知っているのではなく、特定の思考や感覚を知っているにすぎない。思考の動きを含まない「わたし」とはなんなのかはしばらくおいておく。
また一般概念もわれわれが知覚できるもののひとつである。すなわち想起することconceiveと、概念conceptである。
※田村慶一というラッセル研究者によるとknowledge by descreptionを「記述による知識」、definite descreptionを「確定的記述」としている。
the manのような限定記述を確定的記述とし、これが物体にかかわる。
A is the manのときA is a man, and no one else isであり、われわれがthe Xを知覚するときわれわれはthe Xが存在していると認識する。だがたとえThe Xを知覚していなくともわれわれはThe Xを認識する。
一般的な単語や固有名詞はふつう記述descriptionである。
ビスマルク本人がビスマルクという名前を用いるとき、これは直接かれを根拠としている。ところがビスマルクの友人がビスマルクという名前を見知るとき、ビスマルク自身ではなくビスマルクからうけとった感覚情報がつながる。友人の心のなかにうかぶビスマルクの記述は遇有的accidentalであり、ビスマルクという実体そのものとは触れていないにもかかわらず、ビスマルクと結びつくさまざまな記述をも同時に認識する。
記述からのみ知ることを述べるとき、われわれはそれを実在のこととして述べようとしている。ビスマルクについて言及するとき、必然それは間接的なものとなるということだろうか。
われわれの直接知覚できぬものを排除していくと、われわれはビスマルクについてなにもしらない。多くの普遍概念も、ただ記述を通してのみわれわれは認識している。記述による知識は知覚による知識へ縮小可能である。
命題分析の基本原理に以下のようなものがある……われわれが理解できるすべての命題は、われわれの見知る要素に整形可能である。
シーザーのことを話すとき、それがノイズか無意味なおたけびかでないかぎり、この発話はシーザーそのものではなくシーザーにかんする記述知識を含んでいる。記述による知識があるから、われわれは直接経験の範囲を超えることができる。記述による知識によって、われわれは自分たちが経験しなかったものごとに近づくことができる。
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