うちゅうてきなとりで

The Cosmological Fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『フランコ スペイン現代史の迷路』色摩力夫

 スペイン戦争には9つの誤解が存在する。これは当時の各勢力の宣伝戦の結果で、思い込みがいまもなお効力をもっていることを示す。

 九つの巷に流布する神話とは……「内戦はフランコの蜂起からはじまった。内戦はファシズム諸国もしくは共産勢力の陰謀である。内戦は第二次大戦の前哨戦である。内戦は軍部と人民広範の戦いである。内戦はファランヘ党共産党の抗争である。独伊の援助はソ連の援助より上回っていた。国際旅団は西側知識人の集団である。カトリックは陰謀段階から反乱軍を支援していた。反乱軍は非人道的であった」。これらの通説はいずれも誤りか、部分的なものであるにすぎない。

 われわれはあらためてスペイン戦争を見直す必要がある。

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 近代スペインを説明する上で、米西戦争、モロッコ問題、さらに国内不安の三つの背景が重要となる。アメリカの帝国主義拡張の過程でおこなわれた米西戦争によって、スペインは最後の植民地を失った。モロッコは英仏がお互いのパワーバランスを保つためにスペインに委託されたものである。ジブラルタル付近を弱小スペインがもっていれば、英仏どちらにとっても危機を回避することになるからだ。スペインはモロッコ統治に長い間手を焼くことになる。

 スペイン国内は争いが絶えなかった。まずナポレオンによる征服があり、その後アンダルシア南部で議会cortesを中心とする自由主義が栄える。Liberalを自由主義の形容詞としたのはこのスペインなのだ。伝統的に文民統制が存在しないスペインでは、19世紀を通して50回以上もの軍人蜂起がおこる。ところが、軍人は自由主義のために蜂起していたのだ。ここにスペインの特異な点がある。軍人のおこすこのクーデターを「Pronunciamiento(宣言)」とよぶ。

 一方、王位継承をめぐって保守的なカルリスモが生まれ、20世紀までその影響が残ることになる。また無政府主義はスペインにおいては共産主義よりも大きな力をもっていた。

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 政府が理想主義を追い求めるなか、民衆は極右と極左に分裂した。また、不安定な政権がつづくなか、軍は何度もクーデターを試みるが、フランコは申し出を受けるたびに「時期尚早」と断った。著者によればこれは自己利益を冷静に計算していたためのふるまいだという。

 よって、実際にクーデターがはじまるまで、フランコはほとんど部外者である。

 ――「クーデター」の謀議グループの核となる原メンバーは、モーラ、バレーラ、ファンフル、オルガスの各将軍とガラルサ大佐である。

 クーデターは失敗し、また共和国も極左勢力の「社会革命」暴走により崩壊する。こうして反乱軍・共和国政府双方にとって予想外の事態である内乱に突入してしまう。

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 フランコはアンダルシアを拠点として進軍を進め、モロッコと地形の似たエストゥレマドゥーラ地方を確保する。つづいて西に進みポルトガル国境のバダホスを制圧する。これが内戦史上はじめての会戦とよばれ、モロッコ部隊は民兵に苦戦した。反乱軍は制圧後に殺戮をおこなったため、「バダホスの虐殺」として非難された。

 フランコが南西部を進軍する一方、モーラはナヴァラを足がかりとしてバスク、旧カスティーリャなど北東部を制圧していった。軍の統率には一元的な指揮系統が不可欠だが、この二人が連絡に成功するまでには、フランコが優勢になっていた。独伊との交渉役はすでにフランコに一本化されており、世論の評価もフランコが勝っていた。

 こうしてフランコ国家元首と名乗り、のちに「総統caudillo」と呼称を変える。

 軍は反乱軍と共和派の二つに分裂した。高級将校は共和派のほうが多かったが、共和派が効果的に反撃できなかったのには編成上の理由がある。

 反乱軍が基本的な戦闘単位である師団divicion・連隊regimentを迅速につくることができたのにたいし、共和派は補助的単位である旅団brigada・大隊batalionしか組み立てることができなかった。

 また、ソ連からの援助を得た共産党は軍内部に政務委員comisalio politicoを入れざるを得ず、政治と軍事という二つの指揮系統をもったために混乱が生じた。

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 フランコが伝統的植民地戦争の手法、すなわち「領域確保」(面の確保、敵地の征服)を基本戦略としていたのにたいし、独伊は手早く政府を倒すことを要求した。このためフランコヒトラームッソリーニのあいだで紛糾がおこり、特にムッソリーニフランコの背信を蒙ったが、いまさら支持を撤回するわけにもいかず、イタリアの支援軍をフランコの指揮下にゆだねた。

 

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 内戦は両陣営にとって失敗と挫折の連続となった。フランコは前述の戦略のために長期戦にひきこまれてしまう。政府側は優秀な参謀総長ロホの作戦によって反乱軍にたいし善戦するが、アナキスト系団体とスターリン主義共産党団体と反スターリン主義共産党団体のあいだで内紛(大規模な市街戦)がおこり、さらに共和派軍人カサドらのクーデターが発生する。

 英仏がフランコにたいして政府承認をおこない、フランスが国境を封鎖し共和派への援助を締め切ったことで、フランコ側の勝利は確実となる。このあいだに、反乱軍の双璧モーラが墜落死し、フランコの基盤は確固たるものになる。ついに一九三九年四月、フランコは終結宣言を発布する。

 彼は反乱軍の諸党派を糾合したファランヘ党の党首となった。

 教会もピオ十一世、ピオ十二世のフランコ承認によっていっせいに反乱軍支持にまわり、「十字軍」といった宗教的用語が頻繁に使われた。

 ちなみに、有名なゲルニカの事実は流布しているものと異なる。まず、ゲルニカは共和派の要衝であったので軍事施設といって差し支えない。また、殺戮については、内乱条項が国際法には存在しないので、違反というものはない。また、ゲルニカの前に、より大規模な空爆と死者が近郊の町で発生している。

 ヒトラーの派遣したコンドル軍団のトップ、リヒトホーフェンは、第一次大戦撃墜王リヒトホーフェンの息子にあたる。

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 戦後の国際的な孤立のなか、フランコは外交・内政両面にわたり巧妙な調整をおこなうことで危機を回避した。国連はじめとする世界のスペインボイコットは米ソ対立をきっかけに崩れ、米国との国交は回復する。英国はチャーチルを筆頭にむしろ親スペインの態度を示した。

 国内においてはドン・フアンとの対立、モロッコ問題、国内世論と内閣の調整といった問題があった。

 ファランヘ党はやがて事務官僚(テクノクラット)を中心とするオプス・デイに支配的地位を奪われていき、フランコファランヘを閣僚から排除していく。

 彼の部下には懐刀カレロ・ブランコ、親枢軸国のセラノ・スーニェル、ブランコの後輩ロドーらがいた。

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 凡庸だが仕事ができるというフランコの特徴は官僚によく見られる。フランコは現在でも一目置かれているというが、内戦後の大戦を回避し、また冷戦のなかでうまく立ち回った功績が評価されたのだろう。

 著者は最後に独裁の語義についても触れている。シュミットの本で書かれていた委任独裁、個人的独裁の定義が示すように、独裁とは本来ネガティヴな意味のない単語だった。戦時中ならばどんな国でも独裁を適用する必要がある。

 巻末の参考文献はほとんどスペイン語だが、いずれ読まねばならない。

 

フランコ スペイン現代史の迷路 (中公叢書)

フランコ スペイン現代史の迷路 (中公叢書)