うちゅうてきなとりで

The Cosmological Fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『冒険の文学』P・ツヴァイク

 古今東西の神話のほとんどは冒険譚、英雄譚であり、また古代の叙事詩の題材も多くが冒険であった。冒険とはかつて文化の本質そのものだった。人間と危機との格闘、死とのたたかいこそが、人間の本質をもっともよくひきだすと考えられていた。ところが、社会の変化によって、冒険はやがてその地位からひきずりおろされることになる。

 昔の、階級的な話について。

 われわれは社会のなかで生きており、この中で働くことをよしとする「家庭主義」の影響下のなかにある。よって、この世界(労働と家庭の世界)の外を描く冒険小説は逃避的であるとされ、通俗的だとの汚名をかぶせられてしまう。

 そもそも小説自体、中産階級の生んだ形式である。彼らは、自分たちの有閑生活を肯定し、自分の内面を掘り下げることをよしとした。外界から遮断された自己の内面にこそ個性があると考えたのである。こうした心理小説、日常小説の世界にとって、アクションや冒険は邪魔なものでしかなかった。

 一方、下層階級や労働階級のあいだで支持されてきた通俗小説、大衆小説というものがある。近代になって生まれたゴシック小説や悪漢小説は、どれも牢獄のような世界から逃げ出す主人公を描いている。これは彼ら貧しい労働者の世界観の反映といえるだろう。地下牢での監禁からの逃亡こそ、冒険小説の目指すところであり、真の意味で逃避的な文学だった。

 やがて、アクション、冒険のもつ力が再評価される。一時は通俗作家と貶められたポーや、メルヴィルコンラッド、マルロー、アラビアのロレンス、ジュネなどは、われわれの生きる「世界」の外に、冒険の題材、古来からつづくアクションのエネルギーを見出したのだった。

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 『オデュッセウス』は、オデュッセウスの冒険譚である。かつて批評家たちは、この古代の作品の価値を上げるために、その冒険から寓意を読み取ろうとした。しかし、アウエルバッハやC.S.ルイス、そして著者は、この叙事詩の表面こそがすべて、つまり純然たる冒険物語であると考える。

 「なんでもない男」と自ら名乗ったように、冒険行為こそがオデュッセウスの存在意義であり、そうでなければなんでもないのだ。そのためか、空白の期間はまったく語られない。冒険をしないオデュッセウスは語るに値しないからだ。

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 古代ギリシアの英雄の型には二つある。宇宙飛行士のような模範的な英雄と、悪漢picaro、ギャング、海賊のような英雄である。ホメロスの主人公やギリシア悲劇の主人公は、明らかに後者に属する。古代ギリシアから離れても、ギルガメシュ、クーチューリンなどはどれも、平和のなかにいれば鼻をつままれる奸雄である。

 古代人たちは、自分たちは世界にやってきた客人(ゲスト)であると考えた。ゲストは、警察や政府や君主や教会にたいしてそうであるように、禁則を犯さないよう物静かにすごさなければならない。こうした世界の枠を超えるものが英雄であり、人間たちはそこに逃避を見出したのだった。当然、こうした英雄は神に罰せられることになるか、もしくは枠の中に戻って、自分の限界を感じなければならない。

 トロイア戦争を観戦していた神とアキレウスの関係が示す通り、英雄とは現世と神とのあいだをさまようものなのだ。

 この議論は確かオクタビオ・パスの本でも見かけた気がするが、どうか。

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 冒険者の物語は常にエピソードの羅列となる。なぜなら彼らは行動のみで自分を表現するからである。冒険者はただ物語だけをもってかえってくる。

 冒険者の物語を聞くとき、人間はすべてを忘れて物語に没入する。この没入はあらゆる文化に見られる。

 冒険者の類型は、合理的人間であるロビンソン・クルーソー、都会を舞台とするモル・フランダース、空想世界の旅を通して英国を批判するガリバー、または放蕩児カサノヴァなど、多岐に渡る。

 ロビンソン・クルーソーの特殊な点は、彼が無人島に漂着した冒険者でありながら、冒険と相反する「道徳的な世界秩序」を体現している点にある。彼は冒険者としてではなく、社会のなかにいきる人間として無人島を生き延びたのである。

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 作品全体としてまとまったプロット、サスペンスで挿話をつないでいく手法、これらはゴシック小説が生みだし、やがて影響を与えた要素である。ホレス・ウォルポールや、アン・ラドクリフの作品が、十九世紀のリアリズム作品や、コンラッドメルヴィル、マルローらの冒険文学に及ぼした力は大きい。

 ゴシックにあらわれる重苦しい牢獄や古城は、われわれを圧迫する道徳的、家庭的な世界秩序の寓意である。ゴシック小説の主人公たちはみなこの牢獄を脱出しようとするが、敗れる。また、『闇の奥』では、冒険者たるマーロウやクルツだけが名前をもっている。マーロウの聴き手や、ほかの人物たちには、語るに値する名前などないのだ。彼らに必要なのは肩書き、国籍、収入といった家庭的要素だけである。

 ポーにつづいて、冒険の哲学者としてニーチェが挙げられる。ニーチェの世界観はまさに、閉じ込められた牢獄を打ち破らんとする冒険者像そのものである。彼は闘争に異常な関心を示した。

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 第一次世界大戦における塹壕戦は、チャーチルのことばが示す通り、英雄の生まれる余地のない殺人戦争でしかなかった。そこで新たに生まれたのがゲリラ戦を得意とするアラビアのロレンスであり、飛行士リンドバーグであった。

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 ロレンスにつづくマルローやサルトルを経て、冒険は消滅したと著者は述べる。この本が書かれた当時、主流になっているたのは、麻薬を用いた内面冒険といった類のものである。冒険もまた制度化され、牢獄の別棟でしかなくなった。

 メイラーは自ら暴力沙汰のスキャンダルをおこすことで、無目的の冒険者になろうとしている。

 

冒険の文学―西洋世界における冒険の変遷 (教養選書)

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