うちゅうてきなとりで

The Cosmological Fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『仏教入門』高崎直道

 まず仏教の教義、「法」を重点的に述べ、その後大乗仏教と、わが国はじめとする仏教受容の歴史を概説する。

 教義の中核たる法のややこしさは大部分が用語の煩雑さに由来しているようだ。この一冊だけで教義体系を頭に入れるのは不可能だ。ひきつづき入門書や、個別の概説書に触れる必要がある。

  ***

 仏教は仏道、仏法ともいう。仏教の三宝とは仏法僧のことであり、仏は創始者ブッダを、法とはその教えを、僧とは仏教の実践者をさす。教祖、教義、教会の三つは創唱宗教に不可欠の三要素でもある。

 キリスト教イスラム教、仏教はそれぞれ自然宗教民族宗教から生まれたが、三つの要素を得て普遍宗教となったため、世界宗教ともよばれる。

 仏教は仏に至ることを目指すので、神人合一宗教ともいわれる。

 原始仏教が改革研究されて大乗仏教をなのり、大乗仏教はそれまでの仏教を小乗として批判した。よって大乗は仏説ではない(大乗非仏説)。大乗経典には般若真経など日本や中国のおもな経典がすべて含まれる。小乗には具舎論がある。この具舎論を発展させた大乗経典に唯識がある。小乗仏教はブッダの直接の文献、阿含(あごん、アーガマ)を研究する。アーガマとは伝来のという意味である。

 法を経といい、その注釈を律、アビダルマ(小乗における研究)を論という。この経律論の三つを三蔵という。経は如是我聞というくだりからはじまる。

  ***

 つづいて法、具体的な教えが説明される。仏=ブッダの性質について論じるのが仏身論である。法には教法、因、徳、無我なるもの、の四つの意味がある。教法が仏教全体、聖なるものをさす。因は真理を意味する。徳は価値あるもの、役立つもの、善なるものを意味し、また性質、属性をも意味する。これは同時に「無我なるもの」の意味するところである。

 「ブッダは縁起の理を観じて法を悟り、四諦・八正道の教えを説いた」。

 四諦とは苦・集・滅・道である。十四無期あるいは十難無記とは、ブッダが回答を拒否した諸問題のことである。世界が常住か常住でないかなどは悟りに直接関係ないので無視した。彼は実際に役に立つかどうかを重視したので、大医王ともよばれる。

  ***

 法印とは教えの旗じるし、スローガンである。これには「諸行無常」「諸法無我」「一切皆苦」「涅槃寂静」があげられる。

 諸法無我とはなにか。色(形あるものすなわち肉体)や六入(感覚器官)、五蘊などはすべて自由にならないので我ではない。我がないのにあると考えるのが苦しみのひとつでこれを我執という。我執が所有欲を生み、これが満たされない苦しみを求不得苦(ぐふとくく)という。我は常住永遠だが、無我ということは無常を意味する。われわれは生老病死するから無常である、よって無我である。

 とはいえ無常を観じつつも自灯明、法灯明といって、怠けたりしてはならない。

 仏教においては、一切を苦とみなす。苦の原因は「渇愛とよばれる欲望あるいは執着」であり、その大元は我執であり、我執の大元は無明である。無明とは「無知、真実にたいする無知」であり、無常無我を知らないことをいう。

 諸行無常諸法無我は法性(本質)だが、一切皆苦における苦は滅すべきものである。苦を滅し楽を理想とすることが「涅槃寂静」につながる。

 これら四法印の命題と、縁起とは、どうかかわるのか。諸行、諸法、一切はすべて同義である。「行」は仏教用語で一番わかりにくいものだが、形成力、ものをうみだす力、はたらき、という意味である。そして「因」は、はたらきをもつもの、結果を生み出すもの、因となるものである。

 仏教ではあらゆる現象の因を「縁起」または「縁生」という。

 苦を生み出す因が行であり、そのはたらきが行である。四諦でいえば、苦集=苦を集めるものにおいて集は行と同義語である。

 「因たるものは同時に果たるものであり、その関係は無限に存在する」。結論……諸行、諸法、一切=無常無我、苦である。

 法性とは縁起の理および無常無我をあらわすが、大乗仏教ではこれを空性ともいう。この法性を法界、真如、実際、真実などともいう。

 大乗仏教においては真理を二段階に分ける。真如、真理、悟りは言語化できないがこれを第一義諦とし、一方教説など言語で語られるものを世俗諦とする。

  ***

 一切法――法の分類

 「諸行、諸法、一切とは有為法であり、縁起するものである」。

 輪廻、業、煩悩にもそれぞれ細かい分類がある。輪廻は三界・六道などであらわされる。煩悩の分類は非常にややこしい。

 悟りへの道

 八正道は聖者へといたる実践であり、これが三学である。三学とは戒と定と慧である。戒は戒律である。

  ***

 身口意や、五蘊の色受想行識の配列でわかるように、仏教においては意識よりも肉体、感覚器官が第一にくる。仏教は我、自我を迷妄として否定する。大乗仏教の理論的側面を補うためにつくられた唯識では、潜在的にあるアーラヤ識というものがあり、これを自分の我と考えるのがすなわち我執であるという。

 大乗仏教は在家者のためのものであり、仏の慈悲による救いに焦点をあてた。やがて理論追究のために龍樹の空思想、中観派が生まれ、唯識にいたった。

  ***

 ブッダ入滅後百年すると教団内の上層部「上座部」と下層部「大衆部」のあいだで内紛がおこり、以後教団の分裂、部派仏教の歴史がおこる。

  ***

 法、縁起の概念、具舎と唯識、これら教義の各論を理解するにはさらにほかの文献にあたるべきである。

 

仏教入門

仏教入門