うちゅうてきなとりで

The Cosmological Fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『チベット旅行記』河口慧海

 著者は寺の僧侶で、チベット語の原典を入手するためにチベットに入国しようとおもいたつ。当時のチベット鎖国体制を敷いていたので気軽に入れる場所ではなかった。日本の僧が国境で追い返されたり、インドの坊主がイギリスのスパイと疑われて水死刑になるという例もあった。

 このため著者は行く先々で身分をシナの僧、チベットの僧と偽り、また滞在先では自分の目的をうまくごまかしつつチベットに向かう。仏教という共通項があったため、インドやネパールではうまく滞在先を見つけることができ、半年や一年間をチベット語チベット俗語の勉強にあてている。言語の勉強には一日六時間から十時間以上あてている。

 チベット仏教に反してチベットの住民は汚いと著者は力説している。からだも不潔で、やることは乱交だけ、話も猥談ばかり、食う、寝る、交わるしかものを知らない動物のようだと評している。

 雪山も貧弱な装備で進み、草履が破ける、足を負傷する、落馬して腰を痛めるなど負傷はたえないが、休憩をとりつつ進む。高山地帯は雪豹や凶暴なネコ科生物が多いので、夜は火をたく必要がある。しかし夜通したいていると今度は強盗に狙われる。荷物もちのなかには人殺しもいるので油断できない。

 途中渇きにたえかねて水のまぼろしを見るようになり、さまよったあげくようやく水溜りを見つけるとこれが真っ赤な水である。慧海は、何百年もたまって腐ったのだろうかと書いているが、うじとおぼしき虫がうようよしていてとても飲めたものではない。それは汚いからもあるが仏法によって虫の入った水を飲むのを禁じられているからである。そこで布で虫をこして赤水を飲んだところ、「極楽世界の甘露」のごときうまみだったという。極限状態で感覚が異常になっていたのだろうが、彼の適応力にはおどろくばかりである。俗世の人間なら拷問されないかぎり飲めないような水だ。

 ――人殺さねば食を得ず、寺廻らねば罪消えず。人殺しつつ寺廻りつつ、人殺しつつ寺廻りつつ、進め進め

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 第二巻にも強盗三人組として登場するカムというのは、インターネットで調べたところチベット国境付近にすむ少数民族のことらしい。彼らはこれまでおかした殺人強盗の罪を仏にむかってざんげし、ついでに未来におかす犯罪についても許してもらっていたという。

 たびたび強盗や強盗殺人をたくらむ原住民に遭遇する。チベットの辺境にはそもそも道がないが、ようやくラサへ向かう公道に入る。公道といっても舗装路ではなくただ人馬が大勢通るので草やがれきが少ないというだけのことである。

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 無事ラサに到着し、辺境のチベット人と身分をいつわって仏教大学に入った頃、義和団事件につづく北支事変がおこる。チベットでは中国皇帝の無事をいのる式がおこなわれ、日本や八カ国連合軍、北京にかんするさまざまなうわさがながれてくる。

 医者としての評判がたち、法王から謁見に招かれ、政府高官も著者の上客となる。チベット法王は代々30まで生きたことがなく、たいてい臣下に毒殺されるという。聡明な法王がいると臣下の利益がおびやかされるためである。

 大学でまなぶ僧侶たちにはチベット人、モンゴリヤ人、カム人がいる。チベット人は怠惰な屑が多い。モンゴリヤはいくぶんましだが短気で辛抱ができない。カム人は強盗民族でも知られる人種だが、義侠心に富んでいる。

 離婚にたいする禁忌はなく、著者によれば離婚はたいへん多い。当時は多夫一妻も盛んだったようだ。

 チベット法王は子供のなかから転生仏をさがして決めるというのが有名だが、実際は神おろしと貴族とがむすびついた賄賂の巣窟だったという。チベットは仏教を中心に国家がなりたっている。この仏教のなかでの内紛が露見してはまずいということになり鎖国政策をとるようになった。

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 チベットは政治上鎖国しているのであって経済的な通商はおこなわれている。交易がなければチベットは立ち行かないからである。チベットの輸出産品の代表は羊毛で、おもな相手国は英領インドとネパール、それにモンゴルだという。ところが中国で北清事変がおこってからはモンゴルから金が入ってこなくなった。チベット人の大多数は遊牧民だが、彼らにとどまらず農民や町民も商売をおこなっている。

 法王政府と華族は、封建領主と諸侯との関係に近い。華族は領地に住む平民から人頭税や租税をとることができる。この人頭税から逃れるために多くのものが僧侶になるため、仏教がさかんとはいっても大半が華族支配から逃れてきたものである。

 二〇世紀初頭には中国の影響力はほとんど消えたので、チベットはロシアに接近した。イギリスはインド征服の悪名が知れ渡っていたので、政府はロシアに保護を求めるようになったという。

 著者が訪問する十六、十七年前に、シッキムをめぐってチベット軍(清)とイギリスが戦争をしたが、チベットは負けた。チベットは公式には清の属国ということになっており、納税を免除するかわりに中国皇帝の大祈祷をおこなっていた。

 日清戦争以後、清の威光は消え去り、チベットはイギリス、ネパール、ロシアという三国に狙われる構図となった。もとから「依頼的根性」が強いチベットは独立心に乏しく、著者のいた時点では、法王はロシアの傘に入って英国とはりあっていたという。

 当時のチベットの人口五百万にたいし兵士は五〇〇〇人しか配備されておらず、しかも貧しいので壮士坊主(破戒僧)よりも貧弱だったという。

 素性がばれはじめたので著者は出国を決意する。僧侶といっても、かれは浮世離れした夢想的な人間ではない。社会経済や国際情勢にかんする分析は的確であり、外国人のなかで素性を隠しながらうまく立ち回っている。健康管理も徹底しており、チベットで生き延びるための能力がそなわっている。

 雲南省出身であり、ラサで薬屋「天和堂」をいとなむ中国人李之葺も、著者の荷造りに協力してくれた。

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 チベット王国の巡査は無給である。どうやって生活するかというと各家庭をまわって金を徴収するのである。せびった金は巡査の頭取にわたされあらためて分配される。

 チベットを出国すると、チベットでは著者が英国か日本かどこかの国事探偵だったのではという疑いがおこり、彼とかかわったものがいっせいに投獄されるという「一大疑獄事件」がおこる。著者は自分にかかわったものたちを救うために、日本軍の奥中将や三井物産の間島氏や、ネパール国王などの助力を得てうたがいをはらそうとこころみる。

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 彼は仏教を精神的支柱とし、また周囲をたえず観察し人心を読み、狡猾にたちまわることで生き延びることができた。仏教を含めた思想、学問は人間の行動と生存能力を向上させるものでなければならない。

 

チベット旅行記(1) (講談社学術文庫)

チベット旅行記(1) (講談社学術文庫)