うちゅうてきなとりで

The Cosmological Fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『海の帝国』白石隆

 アジア地域秩序の担い手は、中国から英国、英国から日本へとかわってきた。帝国主義の時代から現在にいたるまでのアジアを、地域秩序という枠組みから論ずる。
この地域とイギリスの交流史については、ほとんど事前知識をもっていないのでていねいに読むべきだろう。

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 イギリス人ラッフルズは、ナポレオン戦争のさなかオランダにかわってジャワを占領するため帝国から派遣されてきたマレー専門家である。彼はシンガポールインドネシア、ニュー・ホランド(オーストラリア)をむすぶ非公式の帝国、自由貿易ネットワークをつくろうとこころみた。オランダは強欲的な占領と原住民の隷従化のために十分な利益をあげていない。そこでイギリスは、現地王国との同盟と、治安維持委託に基づいた、自由貿易による地域秩序の確立を目指すべきである。彼の頭の中では、協力すべきはブギス・マカッサル人であり、敵は信用のおけぬ欲深い中国人・オランダ人、そして利益競合するアメリカ人だった。

 ナポレオン戦争終結後にあらわれたイギリスの帝国は、ラッフルズの構想とはことなったかたちになった。ラッフルズの建設したシンガポールから、ペナン、香港、上海にかけて交易ルートがつくられた。また、イギリスのパートナーは信頼できる中国人(respectable Chinese)となった。

 この帝国の構造は以下のとおりである。表向きは、「海峡植民地政府、イギリス人地方商人、そしてかれらの「信頼できる」中国人」が形成する自由貿易主義ネットワークである。そして裏の実態が、華僑のネットワークである。シンガポールを独占する信頼できる中国人はみな三合会や義興会といった秘密結社(会党)に所属しており、仕事のあっせんや故郷への送金など、すべて秘密結社のコネと独占によってなりたっていた。

 イギリスの非公式帝国は、華僑ネットワークの利益をうまく吸い上げることで機能していた。ところが十九世紀末になると、華僑とイギリスの軋轢が大きくなり、また「白人の責務」としての帝国主義という説がさかんにとなえられることになる。

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 イギリスによる非公式帝国秩序は、いかなる既成秩序のうえにつくられたのだろうか。中華による朝貢貿易ネットワークの上につくられたという説もあるが、白石氏はそうではないとする。イギリスの進出時、シンガポールを中心にインドネシア諸島を支配していたのはブギス人らの王国である。

 王国といっても、われわれの考える近代国家とはかけはなれた国家形態である。インドネシア研究の泰斗ウォルタースはこれを「海のまんだら」「陸のまんだら」と定義しているが、すなわち国境・領域ではなく点(港)を中心とした同心円的な影響圏のかたちをした国家である。

 そもそも東南アジアは森と水に囲まれた地域であり、東アジアや南アジアにくらべれば人口希薄な地域である。国家形態は港湾と居住地をつなぐネットワークのようなかたちをとる。

 この海のまんだらと陸のまんだらは、中国王朝のリズムと一致していた。中国は王朝が成立すると朝貢がさかんになり、衰退すると私貿易がさかんになる。私貿易がさかえると海のまんだら諸国は貿易を独占できず衰退する。朝貢貿易がさかんなときには海のまんだらはさかえる。この三つ巴が東南アジア秩序の特徴だった。

 イギリスが進出したのは、ポルトガルのマラッカ占領(1511)、バタヴィアを拠点にしたオランダの支配拡大など、まさに既成秩序が崩れ混沌たるありさまとなったさなかだった。ラッフルズはブギス人が傭兵、商人、国王、海賊となってあばれまわるのを目の当たりにしていた。

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 十九世紀初頭にかけて、イギリスのみならずほかの帝国もリヴァイアサン的近代国家建設にむかう。

 オランダはベルギーに独立されて以来、帝国の根拠たるジャワ島をどうにか再建させようと試みていた。その結果、オランダ東インド政府は強制栽培制度、貿易独占、徴税請負によってジャワ農民を支配した。

 スペインもメキシコ独立のためにラテンアメリカ支配を失ってしまったので、フィリピンの復興に熱心だった。カトリックが行政において大きな位置を占めているため、オランダのやった方法は不可能で、すでに失敗していた。そのためイギリスと中国人たちを対象とする自由貿易を公式に許可した。フィリピンにおいて特徴的なのはメスティーソである。メスティーソは法的範疇としてラテンアメリカよりもちこまれ、十九世紀になると一大資本階級を形成した。彼らがやがてフィリピンエリートとなり、スペイン本国に抵抗することになる。

 同時代の日本が欧米列強を参考に近代国家建設をおこなったのにたいし、これら東南アジア諸国は植民地国家たるために、リヴァイアサン国家へと改革されたのだった。

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 このころまでの中国人、マレー人、インド人といったカテゴリーはあいまいなもので、たいした重要性をもたなかった。国民国家と人口調査によって、民族のカテゴリーが切実な意味を帯びたのだ。民族がアイデンティティとなる時代のはじまりである。

 ――ひとつのリヴァイアサンの下、言語、文化、宗教、思想、習慣などにおいてそれぞれに異なるさまざまのコミュニティが、並存すれども交わらず、市場で出会うほか、いかなる共通の社会意志ももたない社会、そういう社会をイギリスの政治経済学者J.S.ファーニヴァルは「複合社会」と呼んだ。そういう社会がシンガポールに成長しはじめた。

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 二十世紀初頭、一九一〇年代から一九二〇年代にかけてインドネシアでは共産党が勢力をもち、暴動などが発生した。そこでオランダ東インド会社は警察機構を整備した。これが警察国家であり、白人にとって理解不能になってしまった植民地の「文明化」の帰結だった。

 「文明化」は歴史的に失敗となったが、これと並置されている「アメリカ化」(産業資本主義主導の統治)もまた崩れはじめている。

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 戦後の東アジア秩序はアメリカによってつくられた。アメリカの東アジアヘゲモニーを握る鍵が日本であり、日本もまたアジアの盟主となることで利を得ようとこころみた。

 タイはチャクリ王朝にたいする軍人と官僚のクーデターによって立憲君主国家となった。経済危機はおきたものの、インドネシアのような深刻な国内対立・紛争はおこっていない。これはタイが比較的同質な社会であり、また政党政治が重視されたためである。

 インドネシアスハルトによる軍事政権からスハルトの個人独裁へ移行した。独立時に国民の基盤のひとつであった共産党は徹底的に弾圧され、スハルトの率いる特殊部隊「ニンジャ」が各地の独立運動を阻止した。暴力と汚職にまみれた官僚のための官僚国家は、スハルトの死とともに崩壊した。権力集中から権力分散のうごきが近年ではふたたびみられる。

 フィリピンはマルコスの個人独裁とともにはじまったが、スハルトとは趣が異なる。スハルトが軍を基盤にした国民国家を建設したのにたいし、フィリピンのマルコスは自分の家族を筆頭に地方のボスたちを糾合した親分ネットワークによって国家を運営した。このため国民国家というよりは「マルコス王朝」のほうがふさわしい。一九八二年の革命によりマルコスの時代はおわった。

 東南アジア諸国の歴史については各々調べる必要がある。

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 アジアの地域秩序はラッフルズ自由貿易帝国プロジェクト、帝国による文明化プロジェクト、アメリカによる自由アジアプロジェクトによってかたちづくられてきた。そこでは国民国家建設がカギだったのでありであり、資本主義主導による秩序編成は日本を筆頭に、あくまで最近のことにすぎない。

 著者は、ドイツがEUのなかに吸収されるようなかたちでのアジア主義、アジア共同体構想を支持しない。

 ――……自分たちはアジア人である、とは考えないし、たとえいかなるアジア主義者であっても、日本の軍事力に対する指揮権を放棄し、円を放棄してまで、日本の未来を地域主義としてのアジア主義に託そうとは考えない。日本にとって望ましいのは、現にいまある地域秩序の安定とその下で日本の行動の自由を拡大するような地域の進展であって、日本の行動の自由を縛るような地域主義ではない。

 東南アジア、「海のアジア」がこのように外部からの影響を受けて均衡を崩したのと対照的に、日本、中国をはじめとする「陸のアジア」は鎖国海禁政策によってリズムを維持することができた。

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 そもそも東南アジアというのが戦時中にできたことばであり、かつては「中国とその周辺China and its vicinities」とよばれていた。東南アジア研究ということばは東南アジアが存在しなければ意味がないが、はたして東南アジアは存在するのだろうか。

 著者は、戦後の歴史によって「東南アジア」という概念は実体化したと考える。そして、いつか消滅するかもしれないとも考えている。

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 本野英一の専門分野である中国近代経済史や、英国と中国の条約港体制とのつながりを考えてもおもしろい。しかし、この分野の本は日本語では限界があるようだ。

 

海の帝国―アジアをどう考えるか (中公新書)

海の帝国―アジアをどう考えるか (中公新書)