色彩をやたらとつかうのはヘボ詩人のやること、とゴットフリート・ベンが批判した際、その例外としてあげられたのがトラークルである。ベンの賞賛の通り、どの詩にも大抵「なに色の」ということばが含まれていて、鮮烈な印象をあたえる。
ひなびた農村、田舎の風景、木、草、家の壁、墓地といった身近なものが主題だが、ところどころに異常な色使いや形容詞が混じり、また幽霊、不可解な「妹」などの非現実的な要素があらわれるため、不気味な雰囲気を感じさせる。
いくつかの身近な風景、場所、草木、それに幽霊や奇妙なうごきをするものなど、すこしの付け加えだけで、幻想的な文をつくりだせることがわかる。
***
たとえば「生の塊」では、森の風景から幻想的な場面へと移り変わる。
――やわらかにほの暗く 木の葉をつつんでいる没落
森にはその沈黙のひろがりがやどっている
ふと、ひとつの村が幽霊じみて傾いていくように見える。
妹の口が黒い木の枝のなかでなにかをささやく。
かすかに違和感のある色の形容詞は「小協奏曲」では「黄色い畑」、「単純に、金色の森や林が沈黙する」など。「霊歌」では「神の青い息吹き」、「響きと金色の光」など。
「夜へのロマンツェ」のなかの一連はあきらかに不吉である……
――人殺しは葡萄酒のなかに青ざめた微笑をうかべ、
病人たちには死の恐怖がとりつく。
傷ついた尼僧がはだしのままで祈っている、
救世主の苦悩にみちた十字架像の前で。
「森の片隅」では木の描写のあと幽霊があらわれ、教会、幽霊とたわむれる妹のいる庭、と風景が変化する。
気違いの登場もまた、詩の異様さに貢献している。「人間の悲しみ」には「黒ずんだ姿の気違いがひとり、よろめくようにそこを通りすぎる」とある。
『夢のなかのゼバスチアン』の「没落」は、死んだ人間が語り手となっている。
――白い池の向こうへ、野生の
鳥たちが飛び去っていった。
夕暮れ、ぼくたちの星星からは、ひとすじの氷のような風が吹いてくる。
ぼくたちの墓場のうえに
うち砕かれた夜の額がかがみこむ。
槲(かしわ)の大木のしたで、ぼくたちは銀色の小舟にのってゆらめいている。
死体、墓場、夕暮れから夜への変化と、幽霊の出現という題材が多い。破滅した、荒涼たる世界をひたすら表現しているようだ。気違いや幽霊、死体をのぞいて、ほとんど人の気配を感じない。
後期の詩になるほど直接的な奈落・地獄の表現が多くなる。
***
ドイツ文学の授業で『グローデク』を読んで以来だが、この著者の詩はおもしろいので今後も調べていく。ドイツ語の原典にも触れてみなければならん。