うちゅうてきなとりで

The Cosmological Fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『南北朝の動乱』佐藤進一

 南北朝正閏問題は、現在からは考えられないほど神経質に扱われていた。斎藤実内閣のとき、中島商相が足利尊氏を評価した論文を発表したために、貴族院菊池武夫らから叱責され辞職する事件がおこった。戦前においては南朝(吉野朝)が正統であり、北朝およびそれに与した尊氏は逆賊とされていた。実質的には南北両朝が並立していたのだが、この時代の歴史家は南朝を正統とする名分論に傾いた。

 本書では、こうした名分を排し、実証主義の立場から南北朝時代を記述する。

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 1 公武水火の世

 後醍醐天皇の倒幕計画は二度失敗し、隠岐に流される。しかし後醍醐の皇子護良親王の号令で河内の土豪楠木正成、播磨の赤松則村が決起し、隠岐から脱出した後醍醐は伯耆国土豪名和長年を頼る。さらに、後醍醐討伐の命をうけた足利高氏が寝返り、形成は逆転する。京都の六波羅軍は敗走し、南探題北条時益は落命、北探題北条仲時も番場峠で敗死する。

 関東では新田義貞が挙兵し鎌倉を包囲、北条高時らは死亡し鎌倉幕府が滅亡する。
後醍醐天皇は京都に戻ると護良親王征夷大将軍に、高氏を鎮守府将軍にする。天皇は自らの親政を徹底しようとしたが、高氏や護良の反乱をおそれて、彼らをポストにつけたのである。

 天皇は綸旨を発することで各地の訴訟・申請を直接掌握しようとこころみた(綸旨万能)が、旧慣無視が武士や領主の反感を買った。さらに、高氏・義貞勢力と護良勢力が対立し、その上後醍醐天皇が加わるという複雑な構図ができてしまった。

 後醍醐は記録書・恩賞方という機関を設置するが、「高氏なし」の風刺がしめすように、実力者であるはずの高氏は冷遇された。一方、一介の土豪にすぎなかった楠木正成名和長年は恩賞方にとりたてられた。

 抵抗勢力が高氏のもとに終結し軍団をつくると、後醍醐は妥協のために諸国平均安堵法、雑訴決断所などをつくり高氏やその家人、上杉憲房(道勲)と高師泰(こうのもろやす)を抜擢する。それでも守護国司制度での貴族優遇策、御家人制廃止などに武士たちは不満をもった。

 

 2 建武の新政

 一三三四年、後醍醐は恒良親王を皇太子とし(立太子の儀)、年号を建武とする。後醍醐は内裏の修築や貨幣鋳造などに乗り出すが、伝統と先例を省みない、恣意的な政策、登用に、尊氏ら旧幕府系武士の不満はつのる。後醍醐天皇は、護良親王と尊氏の両者に潰しあいをさせようと企んでいたが、尊氏が護良親王蜂起を天皇に密告したため、親王は捕らえられる。当時の刑罰によくあることだが、護良親王は敵方、すなわち尊氏側に身柄を引き渡され、処刑される。

 

 3 親政の挫折

 後醍醐天皇は、宋の専制独裁君主制を模倣しようと、大がかりな改革に取り組んだ。しかし、宋とこの当時の日本とでは社会構造がまったく異なっていた。宋においては、唐末の乱によって貴族階級が滅びたために、皇帝に忠実な官僚を育てることが可能になった。また、兵権と財政権を分離し、兵は政府の給料でまかなう軍隊に組織し、地主領主と分離させた。日本には貴族たちがおり、天皇の専制をおさえるために合議制によって政務をとっていた。また、兵力をもつのは領主だった。このため、中央集権的な後醍醐の改革は貴族、地方武士らを怒らせた。

 後醍醐に取り立てられた武士……楠木正成名和長年は商業を基盤にした実力者であり、結城親光(ちかみつ)は名家のなかから天皇によって惣領にとりたてられた人間である。こうした「なりでもの」が中央に居座ったことも、武士貴族の反抗の原因となった。

 

 4 足利尊氏

 一三三五年、北条高時の遺児時行が信濃で反乱をおこし、足利軍を撃破して鎌倉に迫る。これが中先代の乱である。中先代とは時行のことをいう。足利直義と尊氏は後醍醐に討伐を命じられる。尊氏は天皇に、征夷大将軍職と総追捕使職を要求し、容れられる。尊氏が関東に向かい、三河に逗留する直義と合流し、乱を鎮圧したあと、彼らは帰京を拒否する。以降、足利軍と、後醍醐天皇新田義貞軍との戦争がはじまり、全国規模に拡大する。

 尊氏は後醍醐天皇とは常々交流があり、弟の直義とは違って天皇にたいして寛容すぎる面もあったという。また、尊氏は異常性格者であり、意味不明の激昂をみせることがあった。いっぽう、弟の直義は後醍醐天皇にたいする敵対心をはっきりと示していた。

 尊氏は京都から丹羽、播磨、兵庫と逃げ、九州で体勢を立て直すことにする。京都が尊氏方に奪われると、後醍醐は叡山に逃れる。尊氏は持明院統光明天皇を擁立する。

 

 5 南北両朝の分裂と相克

 一時の講和もすぐに破られ、後醍醐は大和の吉野に陣を構える。伊勢神宮北畠親房、河内に中院定平(なかのいんさだひら)、紀伊に四条隆資(たかすけ)、越前に義貞を配し、畿南を拠点に再挙する。

 南北朝対立のこの様相は、「一天両帝、南北京」と評された。一三三六年、尊氏は建武式目を制定、新政の否定、初期鎌倉幕府への回帰などを唱え、室町幕府をひらいた。尊氏は各国に守護職をおき、これに国を支配させた。

 尊氏は武家の棟梁となり、直義は政務総轄者となった。尊氏は人的支配権を、直義は領域支配権を握ったともいえる。鎌倉幕府において将軍と執権とで別れていた二つの権限を、兄弟で占有したといえる。直義は副将軍とよばれた。

 新田義貞が足利軍に敗れて戦死、つづいて奥州の北畠顕家幕府軍に敗れて死ぬ。一三三九年、後醍醐は死に、つづいて後村上天皇が立てられた。

 

 6 動乱期の社会

 当時の武士の忠誠心は、江戸期に創作されたような絶対的なものではない。代々主君に仕える譜代には、忠誠心が要求されたが、新参者はすぐに寝返り、降参した。また歩兵の増加とともに一騎打ちや「馬を攻撃しない」などの伝統的な作法は廃れ、奇襲やゲリラ戦法が主流となった。槍が発明され、刀も接近戦用に太くなり、また従来の武芸職能階級=武士のみならず、貧民出身の兵士もあらわれた。

 従来の間延びした戦闘においては、一戦終わるたびに軍忠状なる戦果報告書を書いて上官に提出し、恩賞をもとめた。しかし新しい戦闘形態に移ると、敵の首級もすぐに捨てるようになり、味方の証言など状況証拠をもとに論功行賞する方式へと変化した。

 

 7 直義と師直

 直義は論理的ではっきりした性格だった。冷たい性格ととられがちなため、親しいものの信任は得られるが、大勢に支持されるのはむずかしい。鷹揚な尊氏とは対照的な性格だったといわれる。

 高師直・師泰兄弟は、直義とは対照的な成り上がりの人物で、尊氏のもとで軍団を編成した。やがて、直義のもとには官僚、足利一門、惣領(一族の嫡子)、東国・西国の武士が、高兄弟と尊氏のもとには新興武士、庶子、畿内豪族が集結し、対立した。高兄弟、直義、そして南朝と、天下三分の状況となる。

 南朝の実質指導者、『神皇正統記』を著した北畠親房は、旧来の皇帝専制にもどれ、と高圧的に武士に説くばかりでなかなか支持を増やすことができなかった。

 

 8 天下三分の形勢

 以降、三つ巴のたたかいがつづく。推移が複雑で理解しがたい。一三四八年、四条畷の戦いで南軍は総帥楠木正行(まさつら)はじめ多くの武将が死亡する。高師直の声望はふたたび高まった。

 尊氏と直義の講和はすぐに破られる。また、南朝も両勢力との講和を模索するが、トップ同士の争いを口実に抗争している土豪や武士たちには意味をなさなかった。直義が死ぬと、尊氏の妾腹の子で、直義の養子、直冬がかわって指導者となる。直冬党は中国・北九州で強い勢力をもった。

 

 9 京都争奪戦

 三者は京都をめぐって争う。直冬は不利になると南軍にくだるが、直冬勢力と南朝勢力のあいだに不和が生じ、連携がとれない事態に陥る。戦争の荒廃のため、幕府、南軍、双方において、農民が反乱をおこす。

 

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 九州での騒乱、尊氏の死、佐々木道誉と山名清氏の台頭、管領斯波の登場と失脚、管領細川頼之の登用。

 義満は外様の実力者を要職につけたのちに失脚させるという方法で公武の統一をはかった。この過程で、土岐や山名が制圧され、応永の乱で大内義弘が敗死する。九州探題今川了俊は、応永の乱前に失脚している。

 南北朝の統一、義満による公武統一を経て、国人の実力が増し、積極的に政治参加するようになった。

 

日本の歴史〈9〉南北朝の動乱 (中公文庫)

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