うちゅうてきなとりで

The Cosmological Fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『消費社会の神話と構造』ボードリヤール

 おぞましいもののように描かれる大型ショッピング・センターの風景。未開民族が白人の援助物資を当然のもの、神からの贈り物として受け入れるのと同じく、消費社会の人間は豊かな日常生活を自明の、当然のものと考える。

 この幸福で退屈な日常は犠牲者を欲する。マスメディアの発信するあらゆるニュースは三面記事の性質をもっており、好奇心の対象である。自動車事故、ベトナム戦争、すべて日常を彩るための暴力である。

 資本主義・民主主義社会においては、幸福への欲求・福祉への欲求がひとつのイデオロギーとなる。われわれはみな豊かな生活と幸福を求めており、民主社会はこれを追求することができる、というわけだ。GNP(国民総生産)はまやかしによって、われわれが常に豊かになり続けていることを示す。ここでは、ほかの生産によっては補えない公害、教育施設・プールの不足は覆い隠されてしまう。

 資本主義・民主主義をふくむ社会の構造を著者は「システム」とよぶ。システムにおいては、貧困や格差は織り込み済みのものであり、当然あるべきものである。生産と消費は、不均衡を拡大させ、階級をつくりだす。人間にとって、消費は必然的に浪費にむかう。

 消費はシステムのなかで差異化をおこなうための行動である。消費者は消費行動によって救霊する。消費、浪費、商品の選択によって、われわれは差異化をおこない、社会的地位を手に入れる。

 この社会は、第一に、ピラミッドをつくりだす社会である。

 ――どんな社会においても貧困を伴わない特権は存在しない。

 「欲求のシステムは生産のシステムの産物」である。生産秩序は、欲求と欲求のシステムを作り出す。生産力と生産過程の全面的コントロールのプロセスにおいて、需要が生み出される。

 そもそも個人に選択の自由は存在しない。人間は疎外されているのではなく(疎外論)、欲求はシステムの要素として生まれる。ここに人間は介入しない。欲求、つまり個人の消費・享受も生産力拡大の一要素である。

 ――消費の原則と目的が享受でないことの最良の証明のひとつは、享受が今日では権利や楽しみとしてではなく、市民の義務として強制され制度化されているという事実である。

 消費による個性の演出は、われわれの無個性を前提に成り立つ。男性らしさ、女性らしさにもとづく消費も、システムの要請である。倹約、節約、奢侈の拒否も、差異化のひとつである。ようするに、著者の考えでは、われわれが生産消費システムから逃れるすべはない。

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 第三部、「マス・メディア、セックス、余暇」では、マスメディア文化、大量生産によって文化が変質する過程を論じる。芸術もまた大量生産され、いわゆる「高尚な、偉大な」芸術と大衆文化との相違は消えてしまう。

 ガジェット……つまり、機能的無用性をもつもの、役に立たないが遊びとしてもつことのできるものの氾濫は、脱工業化の象徴である。

 芸術はシステムのなかに組み込まれる。ポップアートはシステムのなかに組み込まれ、芸術は超越的なものでなくなる。本質なるものは消滅する。

 肉体の開発、スポーツ、肉体美の追求、性的快楽の追求は、霊魂・精神主義的な前近代イデオロギーにかわる信仰であり、消費社会によって利用される。余暇もシステムの一部にとりこまれ、なかば強制されたものである。消費社会を拒否するヒッピーや、禁欲生活も、システムを裏づけする行動にすぎない。

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 消費社会の細かい論理展開、とくに記号についてはよく理解できなかったが、著者は、「われわれはまったく自律性をもたず、われわれ自身の自然さや欲望も持つことができず、システム・消費社会によって操られている」という主張を一貫して唱えている。

 欲望、無意識、肉体の開発、芸術をもとめる心、余暇を楽しむ精神、これらすべては、システムのなせるわざであり、強制的にやらされていることだというのだ。

 消費の神聖化、生産の一部としての消費、広告の欺瞞など、うなづける点も確かにある。

 しかし、われわれの物的・精神生活の双方ががシステムによって完全に牛耳られている、という嘆きには賛同できない。消費社会が成立する以前も、消費社会以降も、われわれはなんらかのシステムに則って生活するはずだ。著者のシステムの定義は知らないが、たとえば封建社会には封建社会の、遊牧社会には遊牧社会のシステムがあったはずである。

 本書で言及される健康と肉体への信仰は、近代社会以外においても多く見られる。

 仏教は霊魂よりも肉体を根源的なものとみなす。勃興期から戦国時代にかけての武士は訓練を重視した。農民たちの生活にも労働と休息の区別があったはずだ。

 システムがほんとうにあるのかどうか、またあったとして、非難したり、諦めとともに眺めるような種類のものなのかは、考える余地がある。著者は明白に現代社会を嫌悪している。

 一方、わたし個人は現代の産物で偽物に親しんでいる偽物人間なので客観的に寸評することができない。

 

消費社会の神話と構造 普及版

消費社会の神話と構造 普及版