うちゅうてきなとりで

The Cosmological Fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『雑兵たちの戦場』藤木久志

 戦国時代の戦争とは「食うための戦争」「生きるための戦争」であり、農民たちは武士に奉公する侍、中間、下人、あらしこ、夫として積極的に参加した。本書では乱暴狼藉といわれる戦場の現場、雑兵たちや、村の様子を論じる。

 戦国武将などの英雄からだけでなく、こうした雑兵、農民から戦国を考えることも重要である、と著者は考える。

  ***

 フロイスの「日本史」や武将、僧の日記から、戦場における生け捕り、掠奪が全国でおこなわれていたことがわかる。本来の目的である城攻めそっちのけで、人や軍馬、装備品など戦利品をかかえて引き上げる集団、少数のゲリラや忍びが村を襲い人馬を掠奪する「夜討」、打ち取るよりは生け捕りを好むものたちなどが観察されている。濫妨狼藉、刈田狼藉が過ぎて軍規が乱れることから、これを禁止・制限することもあった。このような狼藉は敵国を攻める際に重要な役割を果たしたが、担い手が雑兵だったので、公の記録ではほとんど重視されてこなかった。

 城が落ちると城下町は盛大な奴隷市場となった。人の乱取りには海賊も参加し、また人身売買には国境の商人が活躍した。

 九州に居を構えていたフロイスは島津氏の九州統一および秀吉の九州遠征時における惨状をくまなく記録している。島津氏、秀吉軍ともに積極的に乱取りをおこない、人身売買をおこなった。またポルトガル船も九州の港において、商人から大量の日本人奴隷を買い、東南アジア、マカオなどに輸出していた。同様の人狩りは小田原攻め、奥羽仕置においても見られる。

 秀吉は戦争がおわると人返しの法や人身売買の禁令を発行した。戦争と人身売買は不可分であり、泰平をつくるには双方を禁ずる必要があった。

 天下一統ののち、朝鮮侵略がはじまるとここでも人狩りは盛んにおこなわれた。朝鮮人の耳、首、鼻は戦利品として日本に持ち帰られ、娘や技術者は生け捕りにされた。江戸初期の元和年間、関ヶ原合戦大坂の陣でも乱取りはおこなわれた。家康は秀吉と同じく、平定した直後に禁令を発している。

 乱暴狼藉は新皇平将門のときから見られる。鎌倉武士のあいだでは、戦争における狼藉、乱取り、盗賊・海賊・夜討は当然のこととされていた。南北朝応仁の乱でも同様である。また、追捕、検断は警察の役割を果たしていたが、彼らはしばしば直接的な暴力と結びついていた。罪人の懲罰は検断使がおこない、罪人の資産や縁者の資産を接収することができた。検断使たちは数百人で罪人の家に押し入り、物をぶんどって火をつけるという光景が記録されている。平時には検断使として働き、戦争中には盗賊・足軽として活躍したものもある。

  ***

 謙信の国外戦争は秋冬に集中している。飢饉の農村では秋冬の口減らしのために傭兵となるものが多く、また飢饉は作物のない春にもっとも深刻で、死者も春季に集中していた。秋冬の遠征は作物分捕りの役割も果たしていた。戦国期は従来のような兵農未分離の社会ではなく、武士と農民、農民のなかの傭兵が原則として区別されていた時代だったと著者は主張する。

 街や街道にあふれた傭兵は異様な風貌と粗暴さからおそれられ、また髪型、大脇差の禁令なども出された。雑兵は簡単に主君を替え、寝返り、また海賊行為、夜討朝駆けが公然とおこなわれた。

 これら悪党とともに、商人もまた戦場を跋扈した。悪党が商人を兼ねることも多かったという。商人たちは敵・味方を超えて武器や茶・物を売り、人身売買をおこない、また商人として敵陣に入り火を放つこともあった。

  ***

 封建社会とは軍事社会であり、つねに戦時体制におかれていた社会である。よって封建社会の基礎単位とは城なのだ。

 戦国時代の城は領域民の避難所だった。敵が攻めてきた場合、普段から城普請などで貢献している農民たちは食糧をもちこんで城に非難し、草木で小屋をたてた。城から遠い村々は山や山頂の小屋に避難したが、これは「山上がり」、「城上がり」とよばれる。

 秀吉は九州攻めや関東攻めの際、城を落としたとき武士は処分したが避難民たちはそのまま解放した。これは平和を維持するために必要だったのだろう。また国境地帯や紛争地帯の村は「半手・半納」とよばれる中立の立場をとることで、双方の攻撃を回避しようと試みていた。

 農民の大原則は「誰でもいいから強いものにつく」であり、形勢不利の場合は敵方に寝返ることがあった。農村は領域のなかで強い自治をもっており、武力も保持していた。落人狩りや、武将の食糧輸送隊に襲いかかる百姓などは、この村の自主独立の一環である。

  ***

 北条氏の降伏と同時に日本の戦場は閉鎖され、もてあました牢人やさむらい・中間・小者、あらしこたちは挑戦にそのはけ口をもとめた。彼ら雑兵・ごろつきにとって戦国は生命維持装置だったのだ。平和の訪れとともに秀吉は浪人追放令を出す。下人の徘徊は禁じられ、悪党が兼ねることの多かった香具師・薬師(やし)も禁じられた。薬売りとは毒薬を売るもののことで、人殺しや漁に使われた。

 百姓が仕事をもとめて都に殺到したので、秀吉以下各大名は人返しの法を出し、田畑を捨てて都会に来ることを禁じた。また仕事のなくなった下人たちにたいしては、鉱山開発や城普請などの大工事があてがわれた。ここにも農民が殺到したので、大名は禁令を出し、百姓が日用(ひよう)に就くことを曲事(くせごと)、越度(えっと)とした。公共工事によってあぶれものをまとめる一方、農民たちには耕作をさせる必要があった。

 また、武家に召抱えられた侍や下人たちがたびたび辻斬り、強盗、スリを働いたので、取り締まりがおこなわれた。都の治安は悪化し、スリ集団や商人兼強盗など悪党が大手をふるって歩いた。彼らは戦時中、スッパ・ラッパとして働いたものが多かった。

 大名は各都市において五人組、十人組などの連帯制度をつくり、治安維持につとめた。「海のさむらい」たる海賊も同様に取締りをうけた。

 戦国時代の残した戦争エネルギーはおさまらず、多くの日本人が海賊や傭兵として海外に流出した。スペイン領フィリピンやオランダでは、日本人はもっとも好戦的で野蛮だとおそれられていた。マニラでは日本町が形成され、また治安悪化の原因となっていた。オランダはとくに日本人傭兵をよく用いて、家康がいっさいの人身取引を禁止するまでつづいた。

 

【新版】 雑兵たちの戦場 中世の傭兵と奴隷狩り (朝日選書(777))

【新版】 雑兵たちの戦場 中世の傭兵と奴隷狩り (朝日選書(777))