米ソの宇宙開発競争を担ったヴェルナー・フォン・ブラウンとセルゲイ・コロリョフの経歴と、両国の開発過程について説明する。
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1
セルゲイ・コロリョフはウクライナのキエフ近郊で生まれ、1926年モスクワ高等技術大学に入学した。フォン・ブラウンはポーゼン地方で生まれ、ロケットに興味を持ち制作に熱中した。
1933年、トハチェフスキーの発案によりRNII(反動推進研究所)がつくられ、コロリョフは副主任技術者となった。
2
フォン・ブラウンはVfR(ドイツ宇宙旅行協会)において実験を続けていたが、陸軍に雇われ、1937年からバルト海沿岸ペーネミュンデの秘密実験場でロケット開発に従事した。
コロリョフは1938年、NKVDに逮捕され、1945年まで強制労働をさせられた。
ドイツにおいて、A―4ロケットは1941年に実用段階となった。空軍はロケット推進の飛行機、JATO、地対空ミサイルの研究を進めた。
戦争中、SSはペーネミュンデを支配下に置こうとフォン・ブラウンを脅迫した。
終戦に伴いフォン・ブラウンらはアメリカ軍に投降した。代わってペーネミュンデには、名誉回復されたコロリョフと、ソ連軍らが乗り込んだ。
3
ソ連はドイツのV―2ロケット開発に興味を持ち、コロリョフらを派遣した。スターリンはコロリョフに、V―2のコピーであるR1の製造を命じた。
1940年代末、かれらはR1からR3までのロケット開発を行った。
フォン・ブラウンらのチームは1953年、レッドストーンロケットの打ち上げに成功した。米国では陸軍と海軍がそれぞれ別の開発を進めた。陸軍はロケットを、海軍は巡航ミサイルを対象とした。このことが、ロケット開発においてソ連にリードを許す原因となった。
4
人工衛星をめぐる開発……50年代に入り米ソは人工衛星の計画を検討した。人工衛星の価値が政府や軍に認められるまでには、米ソ共に長い時間がかかった。
1959年、バイコヌールにおいて打ち上げロケットR―7とスプートニクが発射され、衛星軌道に乗った。続いてフルシチョフはコロリョフらに命じて犬のライカを打ち上げた。
米陸軍もジュノー1ロケットの発射に成功し、衛星を打ち上げた。同年アイゼンハワー大統領はNASA(アメリカ航空宇宙局)を設立した。
フォン・ブラウンはその後、サターンVロケット完成に集中する。コロリョフは探査機、スパイ衛星、気象衛星、通信衛星、有人飛行等、あらゆるプロジェクトを管理した。
5
有人飛行計画は50年代から計画されていた。
「マーキュリー計画」は、1961年までに1人の宇宙飛行士を地球周回軌道を回らせて帰還させるというものである。1959年、宇宙飛行士候補であるライト・スタッフが選ばれた。
1961年、ガガーリンが世界初の有人飛行に成功した(宇宙船ヴォストークによって)。
6
コロリョフはN―1ロケット開発と並行して1人乗り月宇宙船「ソユーズ」の開発を行った。
アメリカでは、サターンVロケットを利用した「月軌道ランデヴー方式(LOR)」による月飛行が計画された。これが「アポロ計画」である。
「アポロ計画」に先立ち、2人乗りドッキング作業確立のため「ジェミニ計画」が立ち上げられた。
1965年、ジェミニ宇宙船の実験が成功した。コロリョフはN―1ロケットの完成を急いだが、1966年死亡した。それまで存在を秘匿されていたコロリョフはソ連の英雄として称えられた。
1967年、アポロ1号の発射にて火災が発生し3人の宇宙飛行士が死亡した。
――火事がおきてわずか数秒間で、ヘルメットにつながるホースから大量の炎が、3人の鼻、喉、肺に入りこんでいった。3人の肺から空気が急激に吸い出され、命が消え去るまでには、わずか8秒半で十分だった。
アポロ7、8号は成功し、ソ連側は焦った。しかしN―1ロケット打ち上げは失敗し、ソ連は宇宙開発競争に敗れた。
8
1969年7月、アポロ11号の船長二―ル・アームストロングが月面に着陸した。その後アポロ計画は次々に成功する。
フォン・ブラウンは1977年に死んだ。
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「幼い頃から心の中に大きな夢を育て、人生のどんな荒波にも屈することのない強い意志をもって生き抜けば、一生のうちにどれほど偉大な事業が達成できるかという見事なお手本を、コロリョフとフォン・ブラウンは示してくれている」。
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