うちゅうてきなとりで

The Cosmological Fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『陸軍中野学校』加藤正夫

 情報勤務、秘密戦勤務のための要員を養成していた学校についての概要。著者は中野学校出身者である。
 中野学校卒業生は主にアジア方面において独立運動の支援等に従事した。
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 昭和13年、諜報謀略のための人員養成の必要性から、田中新一大佐らにより「後方勤務要員養成所」が創設された。
 昭和15年に移転し陸軍中野学校となった。ここで情報勤務に必須の資質、精神及び術科教育が行われた。体系としては、秘密戦を諜報、宣伝、防諜、謀略と定義するものである。
 学生選考に際しては知力、体力に秀でた一般大学出身者(東大、拓殖大、外語大等)の他、下士官からも集められた。
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 一期生18人は集団生活をし、また教官らとともに討議を行った。
 秘匿のため、後方勤務要員養成所は陸軍省分室、陸軍中野学校は東部第三十三部隊と称された。入校者は長髪、背広とされ、軍人であることがわからないように振る舞った。軍人に対しても自らの所属は絶対に明かさなかった。
 カリキュラムは学科(国体学、宣伝、諜報、謀略等)と術科(通信、写真、実技、武道)からなる。
 候察とは対象物件の状態を詳細に把握することであり、宿営能力、食糧自給の可否、橋の過重重量等を判断するためには地誌、交通学、兵器学、地質学等の知識が必要となる。
 潜行、開錠、連絡(あぶりだしインク)等。
 秘密戦士教育の根幹をなすのは愛国教育であり、神道や歴史の教育、史跡研修等が行われた。
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 日中戦争の停滞を打開するため、昭和18年前後から対米開戦論が唱えられ始めた。それまでに東南アジアへの進出が試みられ、アジア解放の目的のもと中野学校出身者が活動に従事した。
 中野学校出身者によるアジア独立工作は、南進論を基盤に行われた。
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 太平洋戦争開戦前夜、各国において行われた独立支援、宣伝、諜報等の活動について。
 藤原率いるF機関は、バンコクにおけるインド独立運動との接触を試み、協力体制を築いた。
 マレー戦線においては現地人を説得し治安維持にあたらせるとともに、亡命していたインド独立運動家を支援、また複数の団体を統合させ、後のインド独立の契機をつくった。
 インドネシアではバレンバン降下作戦の際、敵による石油基地破壊を防ぐため偽放送による工作を行った。またインドネシア防衛のために現地人を防衛隊として組織し、幹部や下士官の急速練成を実施、後のインドネシア独立運動の基盤を築いた。
 インド、ビルマにおいても、植民地解放の大義のもと、対英、対中戦争を有利にするため、独立支援工作を行った。ビルマでは失敗し、日本軍もまた独立運動の敵となった。インパール作戦にはF機関の藤原少佐も関わっている。
 敗戦後、ソ連に連行された中野学校出身者は、情報関係者として厳しい処罰を受けた。ソ連とは対日参戦まで直接の敵対状態にはなかったが、裏では激しい秘密戦が行われていた。関東軍の行動はほぼ筒抜けであり、日本は不利な立場にあった。
 シベリア抑留時、中野学校出身者が中心となり、収容所に対し待遇改善のストライキを行った。
 著者は朝鮮に送り込まれ到着したその日に終戦を迎えた。そこで日本人保護のため、引き揚げまでの間、警察署に詰め警官となり治安維持にあたった。
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 中野学校は昭和13年に創設された。一般大や高等専門学校出身者が多く、出世コースではなかった。1期生の最高階級も少佐に過ぎず、日本軍はかれらの情報や活動を大戦略に生かすことができなかった。
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 著者ら工作員は、秘密戦に従事するときに大切なものが誠実さであると訴える。アジア解放の名目は欺瞞だったが、現場の情報要員たちは誠意を持って秘密活動に従事した。
 また、その根底をなすのが日本に対する誇りである。薄暗い印象のある情報活動だが、重要なのは忠誠心と誠意ではないかと感じた。

 

陸軍中野学校―秘密戦士の実態 (光人社NF文庫)

陸軍中野学校―秘密戦士の実態 (光人社NF文庫)