うちゅうてきなとりで

The Cosmological Fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『KGB衝撃の秘密工作』スドプラトフ その1 ――NKVD暗殺の歴史

 

ja.wikipedia.org

スターリン時代に暗殺作戦を担当した人物が亡命後に出版した回想録。

 

パーヴェル・スドプラトはちょうど大粛清の時代からNKVDの下級工作員として働き始めた。

ja.wikipedia.org

粛清で上の人間が一掃されると、モスクワに呼び戻され、スターリンから直接、トロツキー暗殺の指令を受けた。

以後、かれは特殊任務局長として、原爆開発におけるスパイ工作や、スターリンの様々な粛清事件を担当した。

スドプラトフのキャリアはベリヤの権勢とほぼ一致しており、ベリヤが失脚すると、かれの部下だったとして逮捕され、以後長い間牢獄の中にいた。

本書は、1992年にアメリカのジャーナリストが、息子アナトーリーの協力の下、スドプラトフ本人から聞き取った回想をまとめたものである。

ja.wikipedia.org

ja.wikipedia.org


  ***

 

◆所感とメモ

本書は、核のスパイに関する部分で特に論争が多いものの、ソ連内部の動きやスドプラトフ自身の体験した部分の多くは非常に確度が高いとされている。

スドプラトフはスターリン時代に秘密作戦(海外工作、破壊活動、暗殺)の中心にいた人物であり、かれの回想は自身の活動だけでなくソ連社会や歴史上の多くの事実を浮き彫りにした。

 

  • 秘密組織職員となる恩恵として、正式にその子弟への縁故入学等が約束されており、新しい身分制社会を思わせるものだった。
  • ソ連の核開発に関するスパイの話は、刊行当時議論を巻き起こした。スドプラトフによれば、原爆の開発情報をソ連に渡した科学者たちは、「2大国による勢力均衡が平和をもたらす」という信念を持っていた。

 

スドプラトフは科学者たちとつきあううちに、彼らが自らを新種のスーパー政治家であってその使命は国境を超えると考えていることを知った。スドプラトフのチームは、科学者たちのこの自惚れを利用したのだ。

 

 

  • スドプラトフ自身は、強烈なソ連体制の信奉者でありつつ、ソ連の体制に疑念を抱くこともあり、忠誠心は揺れ動いている。各所に見られる、西側諸国に対する挑戦的な言葉が面白い。
  • かれはNKVD時代に直接の暗殺や暗殺指揮に従事しているが、その働きはソ連体制への絶対的な信頼に基づくものだった。
  • ウクライナバルト三国ポーランド民族主義は強固であり、戦後も武装闘争が続き、スドプラトフら秘密警察はその破壊に従事した。ソ連崩壊後から現在にいたる民族紛争は、ただ共産主義によって抑圧されていたに過ぎない。
  • 一蓮托生となっていたベリヤに関する評価は高く、かれの性犯罪等についてはあまり言及されていない。そして、自身を失脚させたフルシチョフに対しては敵意をむき出しにしている。
  • スウェーデン人外交官ヴァレンベリ暗殺をめぐる書類の抹消・破棄について語られる。またポーランドカチンの森における将校団虐殺に関しても、ソ連はすべての証拠を抹消した(しかし完全には破棄できずソ連崩壊後に発見された)。
  • 権力闘争の細部まで書かれているが読んでみると政治的キャンペーンのほとんどは単なる手段で、目的は政敵を失脚させることだけである。
  • ソ連崩壊後に公文書を駆使し多くの伝記を書いたヴォルコゴノフに対する言及がある。ヴォルコゴノフは公文書を自由に閲覧できる立場にあり、スドプラトフの助けを借りてトロツキーの関連文書を見つけた。そして、『トロツキー』伝記の中で、ヴォルコゴノフはスドプラトフの功績を取り上げた。それは、かれの名前と業績が初めて表に出た瞬間だった。

 

the-cosmological-fort.hatenablog.com

 

the-cosmological-fort.hatenablog.com

 

ヴォルコゴノフの著作は完全ではないが、ソ連の歴史研究上重要であるとスドプラトフは考えている。

 

保安機関の変遷

ソ連の情報・保安機関は常に組織改編を行い名称や編制を変えた。スドプラトフの所属した特殊任務局はNKVD時代に、対外情報部INOとともに創設された。

 

 1917年 CHEKA
 1922年 GPU/NKVD
 1923年 OGPU
 1934年 GUGB/NKVD
 1941年 NKGB
 1941年 GUGB/NKVD
 1943年 NKGB
 1946年 MGB
 1953年 MVD
 1954年 KGB
 1991年 MB
 1991年 SVRが分離
 1993年 FSK

 

プロローグ

スドプラトフはソ連の正義をまったく疑ってこなかった。しかし第2次世界大戦が終わると、ソ連のやり方に疑問を持った多くの同胞が投獄された。このことはソ連に弱みを作り出した。

 

だが西側の皆さんのなかにも弱点はある。……アメリカの多様性……われわれはこれらのコミュニティのなかに、両国間で戦争が起きたときには、米国を破壊する用意のあるエージェントを数千人も用意していたのだ。

 

スターリンとベリヤは、政治家と犯罪者、両方の素質を持っている。かれらは数々の不正や非道を行うと同時にソ連超大国にした。この回想録はスドプラトフの経験をもとにその活動を明らかにすることが目的である。

 

1 発端

スドプラトフはウクライナで生まれた。ロシア革命が始まるとウクライナの内戦に巻き込まれた。

当時のかれはブハーリン共産主義入門を読み、理想のためにボリシェヴィキの軍隊に加わり、ウクライナ民族主義者や白衛軍と戦った。小学校を出ており、読み書きができたため、通信および暗号解読班で勤務した。そこでチェーカーの委員長ジェルジンスキーの命令を復号したが、これは後のキャリアの糧になった。

ja.wikipedia.org


その後かれはNKVDに採用され、ロシア内戦における海外浸透工作に従事することになった。

組織潜伏前に出会った妻は、スドプラトフよりキャリアの長い工作員だった。妻はブロンドに青い目のユダヤ人だったため、ドイツ人の中に潜伏し活動した。

 

国外活動のためアジトで週5日間ドイツ語を訓練し、また銃器の取り扱いや戦闘について学んだ。その後ウクライナ民族主義者の一員になりすまして、組織に潜伏し、指導者の信任を得て地下組織の動向を探った。

 

1930年代、ウクライナクロアチア民族主義団体に対しては、ドイツ国防軍の情報機関アプヴェーアが大規模な資金援助を行っていることがわかった。

ja.wikipedia.org

 

かれは帰国途中、フィンランド国境で捕らえられるが無事解放され、その成果はスターリン以下ウクライナ共産党首脳部にも報告された。かれは赤旗勲章を受けた。

その後も、ウクライナ民族主義者のリーダー、コノヴァレツの腹心として西側に渡り、情報を収集した。

en.wikipedia.org

 

1937年、かれはNKVD長官エジョフと面会した。

ja.wikipedia.org

 

……私は彼の凡庸な外見にショックを受けた。彼は諜報技術の初歩的事項についてばかげた質問をした。情報提供者の扱いについての基本も知らなかったのだ。……かれがどんな知的資質によってこんな高位についたのか、私は本当に理解ができなかった。

 

そのままエジョフに連れられスターリンと面会することになり、スターリンウクライナ民族主義者の情勢を報告した。組織は分裂状態だが、問題はコノヴァレツがドイツから資金を受けて対ソ戦を準備していることだった。

 

「で、君たちの提案は?」とスターリンが尋ねた。

 

エジョフは黙っていた。私も黙っていた。今、答えは用意しておりませんと答えた。

「じゃあ一週間以内に提案を用意してくれ」とスターリンは言った。

 

かれはスターリンの命令を受けて、コノヴァレツをチョコレート型爆弾で爆殺した。逃亡しそのままスペインに向かい、NKVD指揮下のゲリラ部隊に参入した。 

 

 

2 スペイン

スペイン内戦では、反乱軍と共和国軍が戦うと同時に、共和国軍内部ではスターリン派とトロツキー派が内部抗争を展開した。

スドプラトフは、特殊任務局の上官レオニード・アレクサンドロヴィチ・エイチンゴンと、後のトロツキー暗殺の下手人となるラモン・メルカデル・デル・リオと知り合った。

海外に正式の外交拠点を持たない当時のソ連にとって、非合法活動部門は非常に重要だった。

ja.wikipedia.org

ja.wikipedia.org

 

1938年7月に帰国後、かれはNKVD国家保安管理本部責任者ベリヤと面会した。ベリヤは、非合法活動に精通しており、著者の情報工作について詳しく知りたがった。海外での切符の買い方や駅の様子、アジトの出口・非常口確認等について質問された。

エジョフは無能で知られていたが、組織内の粛清のため特別捜査部を設置し強引な自白偏重捜査を行っていた。

 

ソ連は名目上、スペイン共和国政府を支援していたが、1937年には、共和国政府が保有する金塊5億ドルを秘密裡に没収しモスクワに移送した。このプロジェクトを担当したアレクサンダー・オルロフは優秀な工作員だったが、粛清の不安からアメリカに逃亡し、スターリンに対し直接暗殺をとどまるよう手紙を送った。オルロフはスターリン死後に暴露本を書き有名になったが、脚色が多いとされる。

ja.wikipedia.org

 

スドプラトフは対外情報部長官パゾフの特別補佐官として、亡命者やトロツキストの暗殺を指揮した。

1941年に不審死したクリヴィツキーも暗殺対象だったが、かれによればNKVDの仕業ではなく自殺である。

 

the-cosmological-fort.hatenablog.com

the-cosmological-fort.hatenablog.com

 

 

3 粛清時代

 

ソ連からの亡命者が死んだり政治活動家が暗殺されたときに、それを利用しない手はない。

 

1934年に殺害されたキーロフは、多数の愛人を作っていた。かれは、不倫相手の夫によって射殺された。これをスターリンはライバルの陰謀に仕立て上げ、フルシチョフゴルバチョフスターリンの陰謀に仕立て上げた。

キーロフは、悲劇の人物という一般的なストーリーとは異なり、スターリンの信奉者として熱心に政敵を粛清していた。

ja.wikipedia.org

 

私たちは、無実の人びとに対して申し訳なかったと思わざるをえない。

 

NKVDは皆事件の真相を知っていたが、「支配権力でありソヴィエト人民の道徳的手本であるはずの党にとって大変なダメージなるため」、これまで真相は隠されてきた。

 

上司のスルツキー、パゾフが逮捕されたため、スドプラトフはベリヤとその部下メルクーロフから対外情報部長に命じられた。NKDVは、海外において合法と非合法、2つのネットワークを持っていた。

もう1つの部署である特殊任務局は、純粋な非合法活動および暗殺を任務とする工作員を抱えていた。

 

エジョフ粛清については、ベリヤが陰謀をでっち上げたのが真相だった。スドプラトフは、そのときたまたま上級役職についていなかったおかげで処刑を免れた。

 

スドプラトフの知人(粛清された)が話していたジョークについて。

 

「五カ年計画も4年目になると、賄賂で培ったコネこそが計画達成のカギになる」

 

スドプラトフも嫌疑をかけられ、2か月間窓際族になり、逮捕が近づいているように思われた。しかし、ベリヤに呼び出されると、再びスターリンの前に連れていかれた。

 

 

4 トロツキー暗殺

 

スターリンの率直な反応は今でも私の心に残っている。そのような人間が人を欺くなど考えにくいことだ。彼の反応はそれほど率直で、みじんも気取りを感じさせなかったのである。

 

かれは対外情報部長代理となり、トロツキー暗殺作戦の指揮官にされた。

1929年に、政争に敗れてソ連を追放されて以降、トロツキー世界同時革命を掲げて国外で運動を広げ、ソ連の地位を低下させていた。トロツキースターリンの敵であり、国家の敵だった。

スドプラトフは、自分と同じように当局から監視されていたエイチンゴンを呼び出し、トロツキー暗殺用の工作員採用を始めた。

 

暗殺後、引き続き対日工作やアメリカ浸透工作を指揮した。当時ソ連は日本の参戦を恐れていた。

 

5 ヒトラースターリン

スドプラトフはトハチェフスキー失脚の原因を、かれの越権行為とヴォロシーロフ非難に帰し、ドイツ情報機関工作説を否定する。

 

the-cosmological-fort.hatenablog.com

 


スターリンは、二正面作戦を回避しソ連超大国にするため、イデオロギーを捨てた。しかし、独ソ不可侵条約はほぼスターリン単独の判断だった

その後ソ連は、バルト三国などを情報機関によって操作しようと積極策を取り始めた。それをスドプラトフは担当した。

 

先にも述べたように、クレムリンにとって共産主義の使命は第一に、ソ連の国力を強化することだった。軍事力を持ち周辺諸国を支配することのみが、われわれに超大国の役割を確保してくれるのだ。

共産主義革命を世界に宣伝するという考えは、わが国の世界制覇の野望を隠すイデオロギーの幕だった。

 

スドプラトフはベリヤに気に入られ、他の高官とともにサッカー観戦に招かれた。

 

その後、かれはガリツィア地方の民族主義者の監視を担当した。ここで浸透作戦をめぐってフルシチョフと険悪になった。フルシチョフは人を見る目がなく、部下のウスペンスキーが捕まるとしがらみを断つためその妻もろとも処刑せよと命じた。

 

一般にベリヤは、地位の高い者と話すときは、極端に無礼な言葉を使っていた。それでいて、名前も知らぬ平職員に対しては、つねにていねいで行き届いていた。その後、それがソ連の組織のルールだとわかった。

無礼はトップレベルの人間に対してのみ示されるのだ。普通の人の前では、党政治局のメンバーは、尊敬すべき同志らしく振舞った。

 

スターリンモロトフ独ソ戦を不可避と考えていたが、ドイツの電撃戦遂行能力を見誤っていた。情報機関も、必要な情報を提供していなかった。

 

1941年4月、NKVDが(諸説あり)ユーゴスラヴィアでクーデタを行うと、すぐにヒトラーはドイツ軍を送り政府を打倒した。ヒトラーは信用ならない動きを見せていたが、スターリンはまだ協定が可能であると考えていた。

en.wikipedia.org

開戦直前には、ドイツが侵攻するのか、平和的解決を求めるのか、矛盾する情報が錯綜していた。

開戦のとき、スドプラトフは自分の職場で当直につき居眠りしていた。

[つづく]

『The Three Trillion Dollar War』Joseph Stiglitz and Linda Bilmes その2 ――イラク戦争のコストは3兆ドル

 

5 戦争のマクロ経済への影響

イラク戦争後、原油価格が上昇し、アメリカの貿易赤字は悪化した。戦争が経済にとってプラスであるとする考え方を支持する専門家は、今日ほとんどいない。

戦争のために使われたコストは、その他の分野とは異なり、経済の発展には貢献しないのである。

スティグリッツの見積もりでは、マクロ経済全体での損失は1兆ドルを超える。

 

アメリカは石油のために侵略した、という説は多くみられるが、この目的に関してアメリカはみじめに失敗している。戦争の真の受益者はエクソンモービルのような一部の石油会社だけである。

戦争に伴う原油価格上昇の影響について分析がなされる。

アメリカの官民が産油国により多く支払うということは、その分アメリカの商品を買わなくなるということであり、アメリカの経済が縮小することを意味する。戦争に投入された公費のコストは、他の分野に投資した場合の影響をもって予測される。

大幅な財政赤字と軍の過剰な展開は、ローマ帝国の末期に似ていると米国首席会計監査人がコメントした。

www.augustachronicle.com

 

 

イラク戦争後の世界各地の治安の悪化、また合衆国に対する怒りや不信が、ビジネスや経済に影響を与えている。

 

6 世界への影響

イラクは侵略によって甚大な被害を受け、大量の難民を流出させた。このため近隣諸国……シリア、ヨルダン、エジプト、レバノンなども経済的な負担を被った。

医者の数は開戦前の半分以下に減った。国民の健康状態が悪化し、コレラが蔓延した。

コレラの蔓延は、水道などのインフラが壊滅したためである。コレライラクはおろかアジアでもめったに発生しなかったが、2007年には潜在的な感染者は3万人以上となった。

 

イラクの犠牲者を測定する……ジョンズ・ホプキンズ大学の研究者が行った予測によれば、2010年時点で死者100万人超、負傷者200万人超になるという。これに対し、イラクが侵略されなければ毎年1万人が経済制裁によって死んでいたと想定される。

 

占領初期の経済政策も、イラクの状況を悪化させた主因である。

ブレマーは占領後間もなく、関税の撤廃と国営企業の民営化を推進したが、占領国による国家資産の売却は国際法に反する行為である。予想通り多くのイラク企業は海外製品に勝てず閉鎖され、大量の失業者を出した。

合衆国の契約業者依存もイラクの失業率を増大させた。

イラクの現地業者であれば500万ドルでできる警察署の塗装を、アメリカ人業者は2500万ドルで行った。

軍隊が消滅し、武器を持ったまま失業したイラク人青年の多くは反乱勢力に勧誘されていった。

 

イラク戦争の最大の敗者はイラクと合衆国だが、損害は「有志連合」やグローバル経済にも及んだ。

 

アフガンはタリバン政権崩壊以後、ヘロインの世界最大輸出国となり、内戦による死者数は増大した。

退役海軍中将・民主党議員セスタックSestakによれば、米軍はアフガンを安定化させる前に、テロの脅威のないイラクに戦力を振り向けてしまった。

abcnews.go.com

 

実質的に、ただ1つの同盟国だったイギリスは大幅に戦力を削減した。兵士たちの劣悪な環境や、軍病院のずさんな運営が明らかになり、将校を中心に退職者が続出した。

 

イラク戦争アメリカが得た利益はほぼゼロだが、世界経済にもその損害は広がった。

ヨーロッパ諸国や日本など産業国が、原油高により被った被害額は100兆ドルと見積もられる。

一方受益者である産油国……イラン、ベネズエラサウジアラビアもその黒字を兵器に使ったため、世界レベルでのGDPは低下した。

結論として、イラク戦争は世界の生産高を減少させた。

 

イラク戦争によりアメリカへの信頼は大きく低下したが、これは国際規模の問題……温暖化やエイズ、貧困等を解決するためのリーダーシップの欠如につながるだろう。

 

7 イラク撤退

2008年時点の議会や世論では、いつ撤退するか、ということだけが話題になっているが、専門家の見方ではいつ撤退しようともその後は治安の悪化が待っているとのことだった。

撤退した暁には、アメリカ国民のほとんどは、イラクだけでなく世界中での厄介ごとから解放されたいと思うかもしれないが、さまざまな国際問題において合衆国は不可欠な要員である。

 

イラク駐留継続論の欠陥:

  • アメリカの威信が低下する……5年経ち目ぼしい成果はなく、既に威信は低下している。さらに2年間残ればますます低下するだろう。
  • 死んだ兵士たちが報われない……経済学におけるサンクコストの概念を適用する。死んだ者たちは帰ってこない。これ以上若者を死に追いやるべきではない。
  • イラクを破壊したのだから直すべきだ……5年間でまったく再建することができていない。

 

ブッシュ政権は、より小さな目標を設定し、この達成をもって名誉ある撤退をしようと考えている。しかし、イラクには米軍の駐留を望む勢力もあるため、うまくいかないだろう。

ブッシュは自分の代で撤退を指示することはないだろう。それは、自身の決断の失敗を意味するからである。

 

意思決定者は自分の決定に見合ったコストを支払わない。ブッシュは自身の軍事的冒険を続けて、運が良ければ歴史的な名声を得ることができるかもしれない。代償を支払うのは戦死者やイラク人であり、ブッシュが直接死ぬわけではない。

アメリカの誤算……敵を1人殺せば反政府勢力はその倍となった。フセイン時代にはまったく浸透していなかったアルカイダが大きな勢力となった。アメリカは占領軍となった。

どんな地域・国でも、自由のため占領軍と闘うことは崇高なものとされる。

 

既にイラク戦争は、勝利か敗北かという戦略的な次元にはない。いつ撤退すべきかという戦術的問題である。そして、早ければ早いほど被害は少なくてすむのである。米軍撤退の後に、イラクの状況が良くなるのか悪くなるのかという疑問はそのまま残るだろう。

 

8 失敗から学ぶ:未来のための改革

根本的な欠陥……合衆国議会と国連におけるチェックアンドバランス機能の不全をあげている。

 

建国の父たちは行政権力の暴走をよく認識しており、政府の基本を抑制と均衡(Check and balance)に置いた。

 

ブッシュ政権共和党は議会の多数を占めており、政権はフセインに関する脅威情報をコントロールすることができた。議会は、この情報に反論する術をもたなかった。

また国連は、自衛権の行使と安保理の承認時に限り武力行使を認めているが、合衆国は国連の承認を得ずにイラクを侵略した

イラク戦争の失敗に学ぶ改革案は2つのコンセプトに分けられる……戦争に関する情報を有権者と政治家がしっかりと入手できるようにすること、兵士と退役軍人家族のケアの改善である。

 

以下、箇条書きでの具体策が続く。

  1. 戦争は臨時予算で賄われるべきではない。
  2. 戦費調達は戦略的な検討を受けて行われるべきである……政権は、なぜ2年間も臨時予算を使う必要があるのかを議会に説明するべきである。
  3. 行政府は戦争の全体コストを提示すべきである。
  4. 国防総省は監査可能な会計を提示すべきである。
  5. 政府と議会はマクロ経済への影響を算出し示すべきである。
  6. 政府は議会に対し、情報取得手続きが変わった場合通知すべきである(情報公開の強化)
  7. 議会は戦時の契約業者をより厳正に監督すべきである。契約業者への依存は、コスト増大、戦争法規からの逸脱、国民の当事者意識の不足といった状況を生み出した。
  8. 予備役と州兵の長期派遣の規制
  9. 戦費は将来世代でなく現役世代が担うべきである。国民の負担は人的にも金銭的にも軽くなり、容易に戦争に踏み込める状態にある。
  10. 傷痍軍人の申請義務は兵士ではなく政府が負うべきである。
  11. 退役軍人福祉は正規の予算として扱われるべきである。
  12. 退役軍人手当の信託ファンド設置
  13. 海外派遣された予備役・州兵への手当強化
  14. 退役軍人の利益を代表する機関の設置
  15. 特にPTSD手当申請手続きの簡素化
  16. 優先度8(最も軽度の障害)退役軍人手当の復活
  17. 現役から退役軍人へのシームレスな移行
  18. 退役軍人の教育補助の増加

 

戦争は軽々しく行えるものではない。戦争は敵の戦闘員だけでなく、不運な民間人もまた殺害するものである。

イラク戦争では「コラテラル・ダメージ」と称される、非戦闘員への被害が、数万人の民間人の死、200万人の国外難民、さらに200万人の国内難民となった。

ひとたび始まれば戦争は無数の男女を殺し、障害者を生み、そのコストは後々まで続く。

 

その後

本書の印刷とほぼ同時期、バグダードの基地で、グリーンベレーの兵士がシャワー室で感電死した。工事を請け負った業者は責任を否定しており、この兵士の遺族が受け取った弔慰金はわずか5000万円である。

PTSDは著者らの予想を超えて広がっている。その最大の理由は、イラク戦争前線の概念がないことである。兵士たちは自分の内務班で自爆テロの被害に遭い、またシャワー室で感電する。

 

兵士の募集活動は困難になり、陸軍、海兵隊は入隊基準を下げた。犯罪歴を持つ者の採用は、以前と比べて2倍になった。2007年入隊の陸軍兵は18パーセントが前科者である。

 

KBR(ハリバートンの子会社)やブラックウォーターといった大規模軍事会社による契約スキャンダル、その他大量のずさんな調達が全米でスキャンダルとなった。

www.justice.gov

www.justice.gov

 

退役軍人向け医療プログラム担当者のメールが流出し、PTSD関連の申請をなるべく却下するよう指示が出ていることが明らかになった。

www.cbsnews.com

 

まとめ

国民には自分たちの払っている税金がどう使われているかを知る権利がある。また政府が何をしているか知る権利がある

 

 

 

『The Three Trillion Dollar War』Joseph Stiglitz and Linda Bilmes その1 ――イラク戦争のコストは3兆ドル

 

◆所感

スティグリッツ経済学』のスティグリッツが書いた本。

ja.wikipedia.org

 

イラク戦争のコストは冒頭で示されており、以後はその細部や、個々の問題点に関する指摘が続く。

911以降、ブッシュ政権がおこなったのは議会・国民への欺きであり、またずさんな調達業務と不正な契約行為である。契約業者への過度の依存も、戦場において多くの問題を引き起こした。

 

本書の目的は、イラク戦争の是非に関わらず、アメリカ国民に対し正確な戦争のコストを認識させることである。

イラク戦争湾岸戦争ともに、多くの人的損耗を生んだだけでなく、傷痍軍人や遺族のケアのための莫大なコストを生んだ。イラク戦争開始後、退役軍人省や軍病院はパンクし、傷痍軍人は非効率な役所手続きに苦しめられた。

当初見積もられていた戦争の利益……民主化されたイラクと中東、大量破壊兵器の処理などはいずれも実現しなかった。イラク戦争では、アメリカの石油産業と軍需産業を除いて勝者はいない。

もっとも残念なのは、ほぼすべての不安要素が、戦争前にすでに学者や専門家によって予測されていたということである。

 

著者は本書の出る前にイラク戦争コストを1兆から2兆ドルと見積もったが、さらに正確に推測すると3兆ドルを超える。さらに、諸外国のコストはこの数倍にも上るだろう。

 

戦争をするということは多数の死者、負傷者、遺族を出すということである。つまり、社会保障費や傷痍軍人に関わるコストが増大する。

イラク戦争のように自主的に始めるにしろ、他国から攻撃を受けるにせよ、社会経済全体にとっては災厄となる公算が大である。

 

現在イラク戦争に対し米国世論は冷たいようである。

私が米軍で働いていたときはそういうテーマはほとんど話題に出なかったが、身近な範囲で内々で話したところ、侵略の是非そのものは黒歴史的な扱いになっていた。

en.wikipedia.org

www.pbs.org

 

 

1 本当に3兆ドルなのか?

コストが膨れ上がった要因を検討する。

イラクGDPアメリカの1パーセント以下であり、緒戦を米軍が圧倒したのは当然のことだった。その分、その後の失敗が楽観主義者にとって驚きとなった。

戦争指導者たちは当初、イラク戦争のコストを15億円程度と見積もっていた。さらに、中東民主化と石油産出によってこのコストは取り戻され、さらに利益が得られると豪語していた。

間もなく、コストは大幅に増大した。大量の予備役や州兵を動員したためその手当が必要となった。

米国政府は10万人を超える契約業者を雇わなければならなかった。契約業者の多くは米軍と一体で動いており、2007年までに1000人以上が死亡している。さらに、米軍人の手当てが1日あたり150ドル弱であるのに対し、契約業者は1000ドルを超える。

このため米兵は除隊して契約業者に転職したがるようになり、優秀な兵をつなぎとめるため軍はさらに多くの再入隊ボーナス(Reenlistment bonus)を支給することになった。

 

こうした軍事の民営化にはいくつかの問題点があった:

  • 一部の業者による残虐行為・規律違反(契約業者の規律をどのように監督するのか)
  • 企業利益優先
  • 腐敗と癒着(チェイニー副大統領と関係の深いハリバートン社との高額契約など)

 

ブッシュ政権は戦争開始にあたり無数の随意契約を行い、さらに業者が費用をかければそれを政府が追加支払いする制度を採用した。賄賂や便宜供与は、企業献金という形で行われた。

チェイニー副大統領が2000年までCEOを務めていたハリバートン社の株価上昇率は、GDやレイセオンロッキード・マーティンノースロップ・グラマンなどを超えた。

 

次に、戦争にともなう石油価格増大が軍のコストを上昇させた。

最後に、最大要因として装備品の更新があげられる。その例は対地雷装甲車MRAPであり、2006年にゲーツ国防長官がMRAPを従来の軍用車ハンヴィー(Humvee)と入れ替えるまでに、1500人以上がIED(即席爆発装置、仕掛け爆弾)で殺害された。

ja.wikipedia.org

ja.wikipedia.org

ja.wikipedia.org

 


イラク・アフガン治安部隊の訓練教育も、当初は見積もられていなかったコストである。

戦争が失敗した根本原因は、パウエルの「圧倒的軍事力」路線を捨てたラムズフェルドの方針にある。

反乱分子は開戦前よりも増加し、中東全体にアメリカの敵が拡散した。

 

公式には含まれないコスト……戦死者1人あたりのコスト(弔慰金と遺族年金で1億円以上)、国防総省が公開しない戦死者(直接戦闘以外の死者)など。

現役の2割、予備役の4割が、帰還後数か月してからPTSDを発症している。

 

現金会計(Cash Accounting)を重視し、発生会計(Accrual Accounting)を無視する。つまりMRAP購入をせず出費を抑えているようにみえて、IEDによる負傷兵をケアするための将来的なコストは増えているのである。

国防総省の会計は非常にずさんであり、監査に耐えないものであると議会で問題になった。ブッシュ政権は議会の承認を必要としない緊急支出予算を連発しているため、議会・国民が、戦争にいくらかかっているのかを捕捉するのが困難になっている。

 

スティグリッツらは、政府や行政機関の公開資料を参考に、イラク戦争のコストが3兆ドルであると算出した。これは戦争に直接かかわる費用のほか、貨幣価値、返済利子、傷痍軍人医療保障、装備品更新やマクロ経済への影響などを考慮したものである。

 

2 国家予算の費用

2008年時点で米国は6450億ドル(645 billion)を消費しているが、本章では将来的な支出を予測し、また隠された戦争支出について指摘する。

 

医療費・福利厚生費の増大:

湾岸戦争の例では、数週間の作戦で70万人将兵のうち45パーセントが傷痍軍人手当を申請し、8割が認定された。このため、毎年43億ドルが福利厚生費として支出されることになった。

イラク・アフガンでは、さらに前線以外の支援部隊も直接攻撃の被害を受け、その大半が、扶養家族を持つ35歳程度の予備役や州兵だった。

今次の戦争における医療費・福利厚生費は湾岸戦争をはるかに超える規模になるだろう。

順当に見積もった場合、傷痍軍人とその家族への「退役軍人省」保障費は6830億ドルとなり、過去5年間の軍事支出に並ぶことになる。さらに社会保障(Social Security)手当が、傷痍軍人失業者に対し支給される。

 

装備・人員の再建:

戦争は軍のレベルや資産を著しく損耗させるため、装備・物資の更新や新しい人員のリクルートのために2500億から3700億ドルが必要になるだろう。ただし、戦争後にこうした復旧が行われた場合、それは戦争費用ではなく通常の軍事費として計上される。

 

隠された戦費:

国防総省はずさんな会計を用いて通常軍事費の多くを内部でイラク・アフガンに注入している。

開戦以降、人員不足・採用難が深刻化しリクルート費用は膨張した。本書執筆の時点で、陸軍の大尉は必要数の半分に満たないという。

戦争しなかった場合は、イラク近辺の飛行不可地域監視が続くことになっただろうが、そのコストは侵略に比べれば小さなものである。

 

他機関の支出:

労働省(契約業者への保険料と手当て)、住宅都市開発省(退役軍人向けローン補助)、農務省・小規模事業局(ローン補助等)、石油価格の上昇。

 

返済利子:

イラク戦争に伴う返済利子は、2017年までに1兆ドルに達する可能性が高い。タダ飯がないのと同様に、「タダ戦争」も存在しない。支払いを先延ばしにすれば子供の世代が重税を課されるだろう。

 

結論:

これまでの軍事費、将来の軍事費、退役軍人への支出、隠れた軍事支出、返済利子を総合すると、イラク・アフガン戦争全体で、少なくても2.3兆ドル、現実的に見積もって3.4兆ドルとなる。ここに経済への影響は含まれていない。

 

3 退役軍人手当の本当のコスト

医療保障と障害者給付金について。

イラク戦争に参加した兵士の半分以上が24歳以下で、3割以上が予備役または州兵である。

 

第1次世界大戦における戦傷と戦死の比率は1.8対1であり、ベトナムでは2.6対1である。一方、イラク戦争は7対1であり、非戦闘負傷を数にいれると15対1となる。

2007年までに戦地から搬送された兵士の3分の2は病気(感染症、ウイルス、病原菌)だった。

国防総省は戦死者統計を隠すことに腐心していたが、著者や退役軍人組織の努力により正しいデータを入手できた。

 

本土の人びとは、大量の傷病兵という現実に直面している。負傷の3分の2はIEDに由来する。代表的な症状はTBI(Traumatic Brain Injury、外傷性脳損傷であり、脳に深刻な後遺症を発生させる。これは一時的な負傷と違い死ぬまで残存し、一部の傷病兵は植物人間になる。

負傷し除隊した軍人は、国防総省と退役軍人省とのはざまに立たされる。2つの省庁は連携が取れておらず、現役兵から退役軍人への移行に長期間を要する。その間、傷病兵は無職・無収入の状態であり、無数の書類手続きに悩まされる。

 

榴弾砲で重度の障害者になったある兵隊は数年間1銭ももらえず、著者がニューズウィークにこの事案を話してから支給が始まった。

 

障害者手当や給付金手続きは非常に非効率的、冗長であり、また一部請求は不正確であることが、かつて政府調査で発覚した。また一部の負傷兵が存在しない罰金(装備紛失や無断欠勤等)を軍から科されていることがわかった。

 

2007年末までに160万人がイラク・アフガンに派遣され、うち22万人超が障害者申請を受理された。今後の申請者数を予測した場合、退役軍人省の担当職員が必ず不足し、業務がパンクするだろう。また退役軍人省は、負傷のない退役軍人に対する医療サービスを中止した。

イラク・アフガンでの過酷な環境は多くの兵士に傷を与えた。その大半はPTSD、TBI、四肢の切断、脊髄損傷である。

 

退役軍人の障害者福祉と医療補助は戦争コストの最も大きな部分を占めるだろう。人びとは戦争が終わると、戦傷者のケアに関心を失いがちだが、この費用は政府が負担し続けなければならないものである。さらに、傷痍軍人たちとその家族が経済活動に従事できずに発生する損失もまた大きいものである。

 

4 政府の支払わない戦費

連邦予算によって捕捉されない、社会が負担するコストが本章のテーマである。著者はその額を約3000~4000億ドルと見積る。

例えば従軍によって障害者となった場合、給付金や手当はそのケアのために使われ、24時間体制の介護をするのは家族か地域のボランティアである。かれらは経済活動に従事できず、介護に専念する必要がある。

戦死者に対しては50万ドル(弔慰金10万と遺族保険40万)が支払われる。しかし、一般社会において労災により死亡・後遺症となった場合ははるかに高額が支払われる。

 

保険業界や政府統計で一般的に使われている「統計的生命評価Value of Statistical Life(VSL)」によれば、アメリカ人1名のコストは720万ドルである。イラク・アフガンで失われた4300人超の命をドルに換算すると300億ドルにのぼる。さらに1000名超の契約業者が死んだ。

人命を値段に変換するのは過酷におもえるが、それだけの社会的損失があることを認識する必要がある。

 

戦傷者の損失について……それまでの戦争と違い、イラク・アフガンに着陸した時点でそこは戦闘地帯である。このため後方職種の負傷者数が増えた。PTSD発症者の多くは肉体的にも健康を害していき、失業や暴力といった生活が付きまとう。

戦傷者の家族は、介護のために離職しなければならないことが多い。この経済的損失も、政府には捕捉されない。

 

州兵や予備役は、拠点となる州や地域での緊急対応部隊の機能を果たしている。

イラク戦争に伴う州兵・予備役の出動は、米本土での災害対応に深刻な悪影響をもたらした。またかれらの福利厚生は現役軍人と比べて貧弱であり、給付金申請の却下が多く、経済的に困窮・破産するものが多かった。

 

戦力をイラクに集中させたことで、イランや北朝鮮は有利な状況を手に入れることができた。

大方の見方では、イラク戦争の結果最も勢力を拡大したのはイランである。

日本語訳↓

 

 

[つづく]

『日本残酷物語5』 ――残酷フルネス

最終巻は明治以降の貧困がテーマとなっている。

都会のスラム、北海道のタコ部屋、遠洋漁業、炭坑、農業などの現場について紹介される。

北海道に住んでいたときに通った道路やトンネルの多くがタコ部屋労働によってつくられたとおもうと歴史はまだ生きていると感じる。

 

日清・日露戦争後、傷痍軍人は世の中で差別を受けた。この現象は、ちょうど最近読んだソ連に関する本『Secondhand Time』にも登場する。

 

ソ連は)ドイツという豊かな国に勝利したが、ソ連兵たちは帰国すると貧しい配給品のために
数時間も列に並んだ。 
傷痍軍人は母国では特に忌み嫌われた。戦争を思い起こさせるものは何でも嫌われた。

 

 

1章 根こそぎ

1 都会の島々

国家から見捨てられた底辺労働者とその地域について。

  • スラム街の生活……日払い宿で生活する人間は、日雇いの給料を毎日宿に吸い取られるため、抜け出すことができない。宿を経営するのは地元のボスである。
  • 日払いアパートでは3畳、4畳の部屋に一家が生活し、寝場所がないため子供、母親、父親が交代で寝る。生活を失った独身男性は、バクダンといわれるメチルアルコール製密造酒を飲んで、道端で気絶してはまた飲む。
  • 大阪のスラム街釜ヶ崎は明治時代以降に成立した。大正以降、近辺にあった被差別部落と一体化し、また朝鮮人流入していった。
  • 明治20年頃の記録によれば、露店では残飯が売られており、コレラの温床となっていた。コレラで死んだ場合は葬式をしなくてよく、さらに死体を運ぶことで日当が得られた。

 

 ……名護町での変わった職業の1つにガタロというのがある。ガタロは河太郎すなわち河童のことをさしているらしく、市街のなかの川や溝に身体ごとつかって、底の泥をすくい、そのなかから金物をひろいあげる職業で、まれには金の指輪を掘りだすこともあるという。

 

神戸の新川部落に住む日雇い労働者の多くは、港湾労働に従事する。

いやな荷物……牛の生皮、硫黄、小麦、黒鉛などの化学肥料、セメント。

 

セメントは顔がコンクリートになる。……化学肥料の荷役は……作業を終えたころには指紋がなくなっている。

 

新川部落が、大規模な貧民の流入で成立したのに対し、もう1つの神戸の長田地区は古い歴史を持つ。

ja.wikipedia.org

2 東京の奈落

関東大震災以後、日暮里、板橋、南千住、西新井などが貧民窟として発展した。

貧民窟では、乞食はまっとうな商売であり、特に収入の多いハンセン病者がもっとも幅を利かせている。屑拾い、もく拾いはみじめな仕事され、中にはこっそり家や店に入ってごみくずを拾ってきて転売する者もいる。

酒と賭博は貧民にとっての生きがいである。

貧民の子はシマの子と呼ばれ差別され、正規の小学校にも行けないことが多かった。

 

第2次世界大戦直後、上野寛永寺の徳川家墓石を柱として貧民がテント小屋を建てたため「葵部落」と呼ばれた。かれらは一度追い出されたが、持ち物整理のために侵入し一夜で仮小屋を復旧させた。

ndlsearch.ndl.go.jp

「役人というものは午前9時前には出勤しないので、その前に片づけて、もとのとおりに建てておきました」

 

3 女工

明治20年代頃から盛んになった紡績工場は、地方に募集人を派遣し、良い環境で働けるとだまして人さらいのように女工を調達した。女工らは2交代、徹夜、最長36時間の過酷な労働に従事させられ、寄宿舎に軟禁された。

とある工場では、脱走を試みた女工は裸で縛られて殴られ、食事を抜かれた。年に2、3人が死に、屍体は樽に詰めて庭に埋めた。

コレラが蔓延したときは、感染した女工に無理やり毒薬を飲ませ殺した。まだ絶命していない者もまとめて焼却炉に持っていき焼いた。

工場監督官が巡視にくると、違法の幼年工を隠した。

 

よくボイラー室にとじこめておき、そのまま忘れて多数の幼年工を焼き殺してしまったということが、昭和のはじめごろにもあったという。

 

女工が風邪をひいても、冷水を浴びせて働かせる世話係がいた。あるとき女工が復讐のために包丁で世話係の眼を突いた。

太平洋戦争後、朝鮮特需の時代にも、工場の合理化は続けられ女工の労働環境は向上しなかった。自殺や発狂するものが頻出したが、工場側はこれを本人の原因であるとした。

女工たちは劣悪な環境に苦しめられる一方で、争議や労働運動によって抵抗した。労働環境の整備や規制はこうした抵抗によって徐々に実現されていった。

 

鹿児島は女工の生産地だったが、女工以上に厳しい仕事が農家の女中(めろ)だった。牛馬と同じ衣食住環境で、家の奴隷として働いた。

 

3章 地の果て

1 監獄部屋

ja.wikipedia.org

明治20年代後半以降、人手不足に苦しんでいた北海道の土木工事において、労働者の監視や軟禁・逃走防止が図られるようになった。

これがタコ部屋の起源である。

北海道の道路、鉄道、築港、治水、灌漑工事、鉱山開発やその他の社会インフラは、タコ部屋、監獄部屋と呼ばれる強制労働によってつくられた。

募集屋が都会で人をだまし、刃物を持った監視人によって北海道まで護送され、地元警察とつながった監獄部屋のボスの下で監禁され、土木作業に従事させられた。

見張り人は無宿無頼の徒や前科者があてられることが多く、しばしば虐待や殺人が発生した。

 

監獄部屋の組織:

  • 管理人
  • 世話役
  • 帳場
  • 棒頭(見張り人)
  • 飯台取締。

 

明治のフランス刑法導入により北海道に集治監(刑務所)がつくられると、囚人たちが開拓工事に使われた。

明治22年から空知監獄囚徒1200人あまりを借り出した道路開削工事では、900人が疾病し、82人が病死した。

 

集治監には津田三蔵などの国事犯や、明治の名だたる凶悪犯罪者のほとんどが収容されていた。凶悪犯や大泥棒たちは監獄には慣れており、ささいな理由で脱獄を繰り返した。看守も自衛のために必要であれば脱獄犯を一刀両断した。

あるとき集団脱獄した一団が村の金貸しの家に押し入り、一家を皆殺しにして山に逃げ込んだ。村の猟師を含む討伐隊が派遣され、脱獄囚たちを狙撃し最終的に残った者を捕まえた。

ja.wikipedia.org

 

2 海の流刑囚

明治初期、北海道開拓使が北海道の行政を担うようになったのと同時期、千島列島にラッコが生息していることを各国の密猟者がかぎつけ、ロシア、アメリカ、イギリスなど様々な国のハンターたちが出現した。

密猟者たちは根室や函館など北海道各地に停泊し、日本の役人を相手にのらりくらりと答弁し立ち退きせず、また密漁したラッコの毛皮も引き渡さなかった。

こうした密漁船には日本人乗組員も多く含まれ、またアイヌも乗組員兼射撃手として採用されていた。

蟹工船などの北洋漁業は戦前から厳しい労働だった。船上での虐待や虐殺が頻発したため、やがて共産主義者や活動家に目を付けられ、赤化活動の場となった。

 

3 炭鉱労働

炭鉱労働者のなかには、罪科を見逃してもらうかわりに穴に入っていくものもあり、かれらは「川筋下罪人」と呼ばれた。

 

  • 納屋での集団生活
  • 金券支給
  • 二交代、後に三交代制



炭鉱労働者の地区は周囲から差別された。また、明治初年から朝鮮人の労働者もおり、戦時中には徴用されてきた。かれらもまた差別の対象となった。

夜逃げは頻繁に起こった。炭鉱労働者の子供たちは、父、母の違うたくさんの兄弟と一緒に、炭坑から炭坑へ連れまわされた。無籍の子供も多く、正規の学校にいけないため炭坑の寺子屋に通い読み書きを覚えた。

 

 

4 地下の戦闘

炭鉱でもっとも危険なのはガス・炭塵爆発で、最大の事故では600人以上の死者が発生している。

 

3章 大地のうめき

1 農村

貧しい農村では女児の身売りが常態となった。

2 米騒動

1918年7月に発生した富山県魚津町における米騒動の背景には、漁民たちの極貧生活があった。

騒動は、米の値上げに苦しんでいた京都柳原の被差別部落民に飛び火した。差別やそれに由来する濃い血縁によって連帯する京都市各地の被差別部落がこれに呼応し、米屋を襲撃した。さらに騒動は農村の被差別部落に伝播した。部落民は多くが貧しい小作農であり、副業をしつつ米屋から米を買って生活していた。

騒動全体では、被差別部落民の蜂起は4分の1(残りは平民の蜂起)だが、直後から政治家・警察・世間の間で被差別部落の暴力性や凶暴性を喧伝するデマが発された。

 

山口県宇部村の宇部炭鉱では、鉱山労働者による賃上げ騒動が発生した。労働者3000人規模の暴動に軍隊が出動し、13名が死亡した。

 

4章 狩りたてられた者

1 半島

日本兵たちが目撃した朝鮮人慰安婦の姿や、労働者として、周旋屋に騙され内地に連れてこられた朝鮮人について。

朝鮮人に対する人種差別は苛烈であり、さらに炭坑などを脱走した場合は会社が雇っている暴力団にリンチされた。

 

2 戦勝のかげ

日清・日露戦争以後、廃兵(傷痍軍人)が増加し問題になったが、政府や国民はかれらに冷たい仕打ちを行った。廃兵は恩給だけで生活できず、家族に捨てられることが多かった。廃兵の子供はいじめられ、また徴兵忌避する例がよくあった。

戦傷で手がカニのようになったある兵士は、手続きができずに恩典を受けていなかった。

戦前には廃兵団が議事堂前などで抗議を行い、恩給を増額させたこともあった。