最近AIアートジェネレータについて調べています。
Craiyon(旧DALL-E mini)はブラウザ上で動く軽量のジェネレータです。Stable Diffusionもブラウザで動きます。
何か活用できないか考えています。
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幕府の鎖国政策によって海外貿易は長崎に限定されるようになったが、そこには多くの密貿易人たちが集まった。
当時の言葉で抜荷というが、唐人や紅毛人(オランダ人)はさかんに密貿易をもちかけ、また荷を検査し港湾や外国人を監視する役人も、密貿易に係わることが多かった。
品物を運びこむために、密貿易者は多くの役人を買収した。
抜荷ものの処罰は時をさかのぼるほど苛酷であり、遠島、死罪はざらであった。……こうした重罪人の処分は江戸幕府への伺いがすんだうえでなければ決定しなかったから、たとえ犯人が自害しても屍体を勝手に処分できなかった。江戸からの返答が長崎にとどくには、早くて3か月かかった。そのあいだ屍体は塩づめにして腐敗をふせぎ、返答到着後あらためて屍体を獄門やはりつけにした。
希少価値のある朝鮮人参のために大規模な密貿易団が活動していたが、その実行役は対馬人であることが多かった。
対馬藩と朝鮮は、互いに密貿易者を取り締まる協定を結んでいた。
一方、薩摩藩は藩主島津家自らが大々的に密貿易を展開していた。
国内に支那語と朝鮮語の練習所を設け、また口永良部島に秘密の洋館をつくりイギリス人とも交易した。藩は密貿易を独占しようとしていたが、港の住民たちもからくり屋敷や船の隠し倉庫をつくり密貿易に励んだ。
キリスト者の迫害は秀吉から始まった。宣教者の追放から徐々にエスカレートし、やがて虐殺が頻発するようになった。
島原の雲仙岳における虐殺について。
この刑罰を最初にうけたパウロ内堀作右衛門は、同囚16人とともに馬にのせられ、白煙たちこめる雲仙岳の火口につれられた。そして硫黄のガスが鼻孔をさす地獄谷の池に裸でたたせられ、背中を立ち割って、その傷口に熱湯をそそぎこんだり、煮える池のなかに身体を沈められたり、さまざまの責め苦を受けた。
悪人が死罪を逃れるチャンスを得るため、きりしたんと名乗り長崎に移送を乞う、また人間関係トラブルから相手をきりしたんだと告発するもの、自殺のため自らきりしたんと名乗るものもいた。
牛肉食は、秀吉の時代からきりしたんの兆候だとされていた。
宗門改や奉行には、背教者や元信者が登用された。かれらは過酷な尋問・取締をおこなった。
島原の乱で4万人以上が殺害されたあとも、天草の集落にはかくれきりしたんが多数潜伏していた。
かれらは19世紀はじめに宣教師が来ると、ふたたびカトリックに戻った。
1865年、開国にともないやってきたフランスの宣教師2名が長崎の大浦に天主堂を建てたところ、信徒たちがあらわれた。カトリックではこれを「キリシタンの復活」と呼ぶ。
その後、浦上のきりしたんたちが表立って仏寺に反抗したため、奉行、手付(被差別部落民)、町司、遊撃隊ら170名が浦上を襲撃した。
キリシタン襲撃にたくさんの部落民が利用されていることは注目される。このときの記憶が生々しくかたりつたえられ、浦上付近のキリシタンの一部には、いまも部落民をはげしく憎悪するものがある。
キリシタンと部落民。かれらはともにおなじ支配者から迫害を受け、世間の人びとから偏見でみられ、おなじように貧しさにあえぎながら、かえって迫害と貧しさの記憶によって相互の憎しみをきざみこまれたのである。
幕末から明治はじめにかけても、きりしたんの復活とそれに対する弾圧が続いた。
大村藩から五島に移住した多くのきりしたんは、僻地や不毛の地に住まわせられ、土地の人から見下され苦しんだ。
久賀島(ひさかじま)では数十名の信徒が拷問され、32名が死亡した。なお、大村藩では人口過剰のため藩による強制間引きがおこなわれており、これが信徒たちを苦しめた。
新政府は各国外交団の抗議を無視し浦上信徒3000名を流罪にした。
しかし、その後条約改正の為に国際社会と妥協し、明治6年には切支丹禁制が解かれた。
長崎県平戸市生月島に住んでいた数多くのカクレキリシタンは、カトリック解禁後も教会に戻らず、戦後まで「隠神」の信仰を続けた。
日蓮宗は足利幕府の時代から権力者に進言や折伏等を行ったため弾圧された。
秀吉が千僧会を開くとき、秀吉に服従するか否かで日蓮宗が分裂した。不受不施派は日蓮宗の本家から分裂した。かれらは一貫して権力から迫害され、拷問を受け続けてきた。
また、岩手ではかくれ念仏という風習が国中に普及しており、役人の取り締まりを受けた。
薩摩藩では、島津家が熱心な禅宗であったことから一向宗(浄土真宗)が禁制であり、信者は拷問された。
嵐により漂流することになった船乗りについて。
かつて日本の造船・公開技術は大航海時代の水準と引けを取らないレベルだったが、鎖国以降、日本の船は劣化し、江戸期の漂流民も外海に出ると、おみくじに運命をまかせるしかなかった。
江戸期に漂流し生還した舟のほとんどは、漁船ではなく豊富な物資を乗せた廻船である。
帰ってきた人びとは、幕府の取り調べを受けた後、幽閉されるか、あるいは外国の見聞を吹聴しないことを条件に、苗字帯刀を許され扶持をもらう者もいた。
幕府の役人や研究者たちは、漂流者の体験や記録を熱心に集めて外国の状況を知ることができた。
八丈島や長崎の五島、佐渡、隠岐、壱岐といった島は古来から流刑地として用いられた。流刑地では、流人と島民が協力して生活したが、しばしば飢饉に見舞われた。
脱走を試みた罪人は死刑になった。脱走事件が起こった場合、島民が討伐した。
流刑となった罪人のほとんどは二度と出られない島で平穏に暮らし、子孫を残した。
薩摩藩は江戸時代、部外者の侵入を厳しく取り締まっていた。関所では入国者がきりしたんや一向宗ではないか調べられ、国内を歩く際は監視員がついた。これは、幕府や隣国を遮断し、琉球や大陸との密貿易の秘密を守るためだった。
上士は下級武士(郷士……農耕を行う武士たち)を見下し、下級武士は百姓を酷使した。
幕末における武士と平民の割合は、全国では6%対94%だったのに対し、薩摩では26%対74%だった。
戊辰戦争が終わると再び城下士(城下町のエリート士族)と郷士との対立は深まり、特に地租改正によって郷士が土地持ちになったのに対し、城下士は没落した。
西南戦争は、私学校出身の城下士の不満が原因となって起こった。
その後も士族と平民の身分意識は残り、公職・警察官・教員などは士族が独占した。
こうした封建的な風習がようやく下火になったのは第2次世界大戦後である。
水戸藩の対立について……光圀以来の勤皇の伝統と、徳川家に近いことからくる佐幕派が国内で対立した。
佐幕派は攘夷派に対し過酷な弾圧を行ったが、維新後に権力を奪取した攘夷派もまた報復のために私刑や略奪を繰り返した。
天狗党の乱では、一族郎党・子供・女中までもが水戸藩において斬罪となった。
戊辰戦争時、会津藩の士族女性は多くが従軍し、敗北すると心中した。
南部藩で発生した三閉伊一揆について。南部藩は江戸に入ると金・銀・銅の算出が落ち込んだ。
藩政は腐敗し、農民には重税が課された。
一揆の発生は藩にとっても打撃であり、徳川幕府は、何か騒動があると度々外様大名を処分し、中央集権化を進めていた。
被差別部落民の歴史について語られる。
明治の身分解放令に伴い、かねてから新政府の政策(徴兵令や地租改正)に不満を持っていた農民は、部落民が平民となって増長しているとして襲撃した。
美作騒動では数万人の農民が穢多部落を襲撃し十数人(うち半数が女性)を殺害した。
解放令が出てからも、部落民は新平民、新民として公然と差別を受けた。
つまり四民平等になったというのは法制上の問題だけであって、社会的にはなんらあらたまることはなかった。
とある周防の農村の話。
このあたりの民家は夜戸はしめてもかぎをかけるようなことはない。かぎをかける家へは娘があっても若い衆が夜這いにいくことさえできぬ。夜這いに行けぬような娘は嫁入り時期になっても相手にするなといって、軽蔑されるので、どこの家でも戸締りはルーズであった。
1933年、および戦後の1954年の裁判では、部落出身の素性を隠して女性と交際した男が起訴され有罪となった。
このときの裁判官は、「特殊部落民でありながら自己の身分をことさらに秘し、甘言策謀を用いて彼女を誘惑したるもの」、「被告人方が……世人よりひそかに蔑称され、一般社会との交際疎遠である所謂特殊部落内の一家であるとの観念のもとに……」という事実を認めた。
法にもとづいて世人の偏見を正さねばならぬはずの裁判官が、あべこべに世人の差別を法律的に認めようとしている。これでは世人の偏見が容易になくならないのも当然といわねばならない。
教育界における差別や、部落出身者の貧困・低所得といった状況は戦後も残された。
また部落内の企業家で、こうした部落の人びとの失業状態を利用して低賃金で使用して利潤をあげているものもある。
……このような人物は官庁や外部に対しては部落を代表しているように振舞うのである。そしてこのような人びとからよく解放運動に対して「寝た子を起こすな」という反対の声が出る。本人は財力もあり、社会的地位も獲得しているから解放の必要もないであろうが、その足の下にはたくさんの声を出せない部落の人びとが苦しんでいるのに気がつかないのである。
部落にはこのようなボスがついてまわる。
差別は戦争末期の前線においても見られた。
人身売買は元和(1619年)に禁止令が出されたが、当時から蔓延しておりその後も根絶されなかった。
貧しい地方では人身売買は一般的であり、また伊勢神宮にお参りする子供たちを誘拐する勢力がいた。
地主に労働力を提供しなければならない名子という身分が東北にはあり、その地主は地頭と呼ばれた。
名子は地頭の者と会ったら額を地面につけてあいさつした。この関係は戦後の農地解放まで続き、また主人と下人の意識はその後も残った。
おわり
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イギリス海兵隊の特殊部隊であるSBS(Special Boat Service)にいた人物の回想録を読んでいます。
著者は、子供の頃に読んだ英国軍艦とUボートの小説『非情の海』(モンサラット)を読んで、戦闘員になることを決意したとのことです。
『非情の海』は、吉田健一の訳本が出ているので買いました。
吉田健一は、まだ高校生だったときによく読みました。英語や英文学、イギリス文化についての文章がとても面白かったですが、まだイギリスには行けていません。
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前述のSBS隊員は、ダイビングを始めて3カ月後にリブリーザーの訓練を始めたと書いています。
私の潜水ペースではそこまですぐはできませんが、引き続き洞窟レスキューを目指して勉強する必要があります。
戦争論の古典であるクラウゼヴィッツ『戦争論』を数年前に読んだ時のメモ。
定訳となっているというピーター・パレ(Peter Paret)版を読んだ。
このブログの作者が自〇隊で働いていたとき、海外派遣を待つ間、隊舎の空き部屋をもらって待機していたことがある。
自〇隊は役所なので、いろいろと手続きの時間がかかり、待機期間がよく発生する(通称:税金ニート)。
私がいた待機部屋は机と椅子しかない、追い出し部屋のようなつくりだった。
定期的に、定年退職を待つ幹部たちがこの部屋に割り当てられるので、よく雑談した。
その中に、自〇隊内の学校で戦史の教官をやっていた方がおり、この英訳を紹介された。
他にも、中東戦争の文献など様々な参考書を教えてもらったのでありがたかった。
クラウゼヴィッツの戦争論は、ナポレオン戦争後の時代に書かれた。今からおよそ200年前、日本であれば天保の大飢饉や老中水野忠邦の時代である。
戦争に対する見方は場所や時代によって変わる。戦争の様態そのものも、技術や社会の変化とともに変わると思われる。
しかし、今読んでも通じる点が多い。
自〇隊にいると、どうしても戦争に対する見方は偏ってくる。すなわち、戦争をあくまで業務の1つとして機械的に考えがちである。
あるいは、軍隊の道徳的側面(独立の維持、勤勉、学問の尊重、勇敢、団結、リーダーシップ)のみに目が行きがちである(特に米軍で働いていると)。
しかし、私個人がいま、戦争の本質をばらばらと思い浮かべると以下のようになる。
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クラウゼヴィッツの生涯に併せて、戦争論の概要や発展をたどる。
戦争論における重要な概念に「天才」(genius)がある。天才は、理論(theory)や規則(rule)を超越している。
クラウゼヴィッツは、戦争の安易な方法論化に反対する。理論は現実からは離れており、あくまで参考に過ぎない。理論は、判断、理解、分析の能力を向上させるためにある。
分析論としてかれが用いる概念が、摩擦(friction)、天才、機会(chance)などである。
かれは絶対戦争と限定戦争の概念を提唱した。
また、歴史は類型化・法則化が困難であり、歴史の学習は批判的判断力をはぐくむためにあると考えた。
時代ごとのクラウゼヴィッツ受容について考える。
クラウゼヴィッツはしばしば曲解された。
20世紀初頭には、かれの提唱した限定戦争の概念や、防御優位の思想は、現実にそぐわないとして否定された。
その結果、第1次大戦は凄惨な総力戦となり、また攻撃精神への偏重は各戦線で莫大な被害を生んだ。
第1大戦前後、クラウゼヴィッツはプロイセン軍国主義の根源として、英米から非難された。
クラウゼヴィッツ研究の主題は、かつては精神主義や精神の要素が多かったが、現在は政軍関係に関する考察が増えている。
戦争は敵に我らの意志を強制するための力の行使である。(War is thus an act of force to compel our enemy to do our will.)
その特徴は暴力性、敵意、極限性である。
戦争の目標は敵の無力化である。戦争では、相互作用、力の行使手段と意志力が問題となる。
実戦は机上と異なる。戦争は孤立した現象ではない。また、単一の現象でもない。
政治的目的や現実、相手の存在が、現実を理論から引き離す。
攻撃と防御は非対極であり、防御のほうが優位である。
戦争の停滞・膠着は不完全情報によっても発生する。停滞や、精神的要素(勇気や大胆さなど)によって、戦争は機会と運の要素を持つことになる。
戦争は政治から生まれる。また戦争は、他の手段による政治の延長である。政治は目的であり、戦争は手段である。
まとめ:敵意と憎悪は人びとに、機会と創造的精神・勇気は指揮官や将兵に、政治は政府に帰する。
敵の武装解除とは、武力、国家、敵の意志を破壊することである。現実の戦争で、こうした完全破壊が起こることはほとんどない。
政治目的もまた、事態によって変化していく。
政治的に優位な戦略とは……敵にコストを強いる、敵を疲弊させること。
最小の目的は自衛と抵抗である。弱者の持久戦は非常に有効である。
政治目的は幅広く、安易な公式化はできない。
戦争の本質は戦闘(combat)であり、軍隊の本分は交戦(engagement)である。しかし、敵の破壊は、必ずしも交戦目的ではなく、時には目的のための手段に過ぎないこともある。
交戦の本質は力の行使(trial of strength)であり、その結果が重要である。
戦闘は戦争の唯一の手段である。しかし戦闘の形式はその目的により様々である。とはいえ、敵の破壊は最良の手段であり、あらゆる作戦はこの結果を考慮して行われる。
敵の破壊を強く追求すればするほど、失敗したときの我へのリスクも大きくなる。
敵の破壊の反対は、我の戦力保持である。しかし、戦力保持すなわち抵抗は、流血を減らすという意味ではない。もし我の戦力を保持したいなら、流血を避けるべきではない。
機会が来たら、待機を終わらせて行動に出ることが重要である(攻勢のための防御と抵抗)。
あくまで敵の破壊が戦争の最大目標であり、危機の暴力的解決(violent resolution of the crisis)が戦争の本義である。
軍事的天才は、複数の要素が調和することで成り立つ。
戦士としてまず必要なのは勇気(courage)であり、これは天性のものと感情的なものとが混合している状態が最良である。
また知性(intelligence)も不可欠である。なぜなら戦争とは、不確実な霧のなかにあるからである。
意志の力(strength of will)について……一度戦況が厳しくなると、部隊は崩れ始める。そこで戦争機械は抵抗を生じ始めるが、指揮官はこの抵抗を克服しなければならない。
最も強力な感情は名誉と名声を求める心である。
精神力(will of mind)……平常心、持続力、精神の平衡を保つこと。変わらぬ信念を持っていること。なお、感情の結果である頑固さ(obstinacy)は、精神力とは似て非なるものである。
戦争にとって地形(terrain)は重要であるため、土地勘(sense of locality)が要求される。
最高司令官に必要な能力はそれだけ他よりも高水準である。
天才の一般的傾向:
危険は戦争の特性であり摩擦(friction)の一部である。
物理的努力も摩擦の一部である。
インテリジェンスは敵と敵国に関する情報であり、重要な要素である。
戦場においては、あらゆるマイナートラブルや条件が摩擦を引き起こし、理論と現実との間にギャップを生ぜしめる。
例:気象、兵士のミス、故障や不具合、その他あらゆる偶発的要素
摩擦は、単純・簡単なものを複雑難解に変化させていく。
戦争でもっとも必要とされるのは経験である。
経験を得るには、訓練演習や、外国将校の将兵、または観戦武官の派遣が必須である。
戦争行為(conduct of war)は、計画と戦闘からなる。
戦術(tactics)は、交戦における軍隊の運用に係わる。戦略(strategy)は、戦争目的のための交戦の運用に係わる。
戦争行為と戦争準備とに行動を分類する。
準備とは……野営、駐留、築城、補給など。
戦争理論の発展をたどる。
これまでの戦争理論……数字に偏重、相手を想定していない、天才・精神道徳要素の無視
要素:精神要素と効果……敵意、有機、危険、知性の質
積極反応とは:予測困難性と相互作用
情報の不確実性は、戦争を教義化することを困難にする。
才能と天才は、ルールの外で動き、理論は常に実践と対立する。
方法論……教義ではなく研究(study)を追求すること。
戦争に必要な知識は単純である。しかしその適用は難しい。
学者は軍事的天才になれないが、知識は必要である。特に、最高指揮官に求められる知識は別格である。
戦争は人間存在の一部である。戦争は、商業や政治に近いもの、人類の活動に生来備わっているものである。
原則と、原則を補う細かい規則は、戦争法の理論、特に戦術に不可欠である。
ルーチンは有効だが、やがて陳腐化する。
理論を実践に適応する最良の方法は、ドクトリン(教義)ではなく批判的分析である。
批判的アプローチとは:
批判的分析は、戦史研究と密接に結びついている。
理論を生きたものにするためには、このアプローチが不可欠である。
批評家は理論の結果を安易に適用するべきではない。あくまで判断の参考に留めることが望ましい。
批評家は軍事学の素養が要求される。
批評家は常に、指揮官が限られた情報の中で判断していることを考慮しなければならない
あまりに厳密な規則は役に立たない。
歴史的事例が、適切に使われる場合と不適切に使われる場合がある。
歴史的事例の用途:
歴史的事例を強引に持ち出す、牽強付会に注意すべきである。
精神力、物理的要素、数学的要素、地理的要素、統計的(兵站)要素は、お互いリンクしている。
精神力は、無視できない重要要素である。
精神力の内実:
団結心、軍隊精神(Esprit de corps)
軍隊精神は常備軍とくに末端で活かされる。
軍隊精神の根源は、軍事行動すなわち戦争と優れた指揮官と勝利である。訓練だけでは、この精神は獲得できない。
大胆さは戦争の美徳、創造的な力である。しかし精神、知性、洞察とは相反するため、高官になればなるほど稀な資質となる。大胆さのない名将は存在しない。
クラウゼヴィッツの戦争哲学……国民と国家は、その国民性と戦争指向が継続的な交流により互いに強化しあったときのみ、世界においてより強い地位を臨むことができる。
つまり、戦争のみが国家の勢力を増大させる。
戦争では無数の重圧や事象が発生するため、これに耐える精神力が不可欠である。
兵隊の数の優位は、あくまで勝利のための一要素でしかない。また、数の差には程度がある。
欧州戦争では、いかに優れた指揮官でも、2倍の兵力を持つ敵を破るのは困難であった。
実際のところ、軍隊の規模は政府が決定する。
時と場所に関する計算よりも、指揮官の大胆さ、情熱や行動力のほうが結局は重要だと主張する。
決定的な時点(dicisive point)での優勢が重要である。
相手の意表を突く作戦一般について。
原則として、戦術レベルの道具である。
彼我双方の条件が揃わなければ奇襲は成功しないため、難しい。
狡猾さは隠された目的を示唆するため、欺へんに関連する。
奇襲と同じく、限られた条件でしか効果を示さない。
戦力の分散はほぼすべてが失策である。
戦略レベルでは、保有戦力を同時投入することが望ましい。
予備軍を残すことも有効だが、この問題は次の項で論じる。
非常時のための戦力温存を指す。
戦力を有効活用しなければならない。遊兵をつくらないこと。
この要素は要塞化には不可欠であり、また戦術においても重要な要素を占める。
今日の包囲戦では幾何学要素は不可欠だが、それでも戦術を完全にコントロールすることはできない。
戦略においては幾何学は戦術レベルほどには重要でない。
戦略偏重の理論、戦争をより科学的にしようとする理論を、クラウゼヴィッツは否定する。
戦争を観察すると、片方は常に行動し、片方は常に待機しているように見える。しかし実際は断続的であるだけで、完全に停止していることはない。
なぜ戦争において行動停止が起こるのか……
通常は攻撃側が必ずあり、そちらが主導を取って行動する。
ナポレオン戦争の教訓……現代の総力戦は、かつての陸戦とは完全に異質である。
かつての陸戦は、一定の規模の常備軍を用いる海軍に似ていたが、もはやそうではない。
戦争には2つの状態があり、緊張における危機の状態こそ戦争の真の姿である。
[つづく]