うちゅうてきなとりで

The Cosmological Fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『警察官ネコババ事件』 ――今でもありそうな事件

 大阪府警堺署による冤罪でっちあげ事件を追った読売新聞の記事を書籍化したものである。

 

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 ◆所感

 本書から読み取れる警察及び報道機関の問題点は以下のとおりである。

・監察の機能不全

 警察内部の不正を取り締まる部署の長が、署長よりも弱い立場にあった。

法令遵守欠如

 幹部から末端にいたるまで、法律に則って仕事をするという概念、倫理観が欠如している。

・報道の必要性

 警察が屈したのは、マスコミが騒ぎ立て問題が世間の耳に入ったからである。

・報道と警察の癒着

 本事件では読売新聞が警察の不正行為を暴いたが、一般にマスメディアは警察から情報をもらっている立場であり、警察組織を悪く書くことができない。

 

  ***

 とある女性が落とし物の札束を交番に届けたところ、その場にいた警察官がこれを取得物にせずネコババした。

 女性と落とし物の主が警察署に尋ねにいったところ、札束は警察内で届け出されておらず、警官によるネコババの疑いが生じた。

 実際に、落とし物の現金を受け取った警官がこれをネコババしていたことが判明した。

 警察署長・副署長・警ら課長はこの不祥事をもみ消すため、落とし物を届けた女性を犯人扱いし捜査を進め、自白を強要した。

 女性やその家族、支援者たちが抵抗し、また読売新聞がこれを記事にしたため、警察は態度を翻した。

 

……みち子さんの指紋がついている封筒はなく、目撃者がいたというのもウソでした。訴状の内容は認めます。大阪府警として争うつもりはありません。

 

 マスコミがかぎつけたため、警察は手を引き、損賠に対しても抗弁しなかった。

 しかし、警官ネコババの記者会見は、マスコミの注意をそらすため、上海列車事故にあわせて行われた。また警察は、具足氏(女性)を意図的に犯人にでっちあげたことを認めようとしなかったので、具足氏は訴訟を起こした。

 警察はでっちあげを否定し調査要求に応じなかった。

 

  ***

 マスコミに寄せられや内部告発によれば、捜査は署長、副署長、刑事部長の主導で行われ、一部の者しか捜査内容を知らされなかった。

 

「副署長、警ら課長は階級でいうと警視という雲の上の人。副署長や警ら課長の人間性を過信していた。自分は幹部の指示に流されてしまった弱い人間です。大阪府警がきちんと対応しないと、また自分みたいな者を出してしまうことになる」

 

 大半の警官、また直接ネコババ事件を担当しなかった刑事たちはこの事件に憤っており、マスコミ取材に積極的に応じた。

 

 

『Beasts, Men and Gods』Ferdinand Ossendowski ――ロシア辺境、モンゴルをさまよう自然科学者

 ◆メモ

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 著者Ossendowski(オッセンドウスキ、オッセンドフスキー)ポーランド出身の自然科学者であり、ロシア革命期に白軍に加わり、中央アジアからモンゴルにかけて遠征した。

 本書は革命軍の逮捕を逃れた著者の旅行記である。ロシアの辺境や国境地帯、モンゴルをさまよう話であり、非常に面白い。

 展開はめまぐるしく、物語を読んでいる気分になる。

 

 ウルガ滞在中のウンゲルン将軍の様子について詳しく書かれている。

 オッセンドウスキの旅は北京に到着したところで終結し、残りはボグド・ハーンの概要と、かれが見聞きした地下世界「アガルタ」の伝説や伝承が紹介される。

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  ***

 1 森のなかへ

 1920年、クラスノヤルスクに住んでいた著者は、ある日自宅をボリシェヴィキに包囲されていると聞き、狩猟服や銃を手に入れて森の中に逃げた。

 しかし、狩猟小屋にボリシェヴィキたちが踏み込んできたため、かれは猟師になりきってボリシェヴィキたちにお茶をふるまった。

 

 2 同行者の秘密

 2人のボリシェヴィキを殺した探鉱者(prospector)とともに、オッセンドウスキは安全な場所に向かった。

 夜はモミとマツの枝で作った簡易テント("Naida"と呼ばれる)で暖を取った。

 イヴァンと名乗るその探鉱者は、かつて自分を裏切った仲間を襲撃し、眼をえぐる、指を折る、火で焼くなどの拷問を加えたが隠した金のありかを言わなかった。

 著者とイヴァンは、そうした拷問殺人のあった空き家に泊まった。

 その後イヴァンは去り、著者は二度とかれを見なかった。

 

 3 生への闘争

 著者はエニセイ川のほとりで、小動物や鹿などを狩りつつ生活した。

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 4 釣り人

 

 5 危険な隣人

 野営をしていた著者の前にアリクイが現れたので仕留めた話。かれは50マイルほど進みSifkovaと呼ばれる集落にたどりついた。

 

 6 川

 雪解けのエニセイ川において、ボリシェヴィキに大量殺害された反革命分子たちの屍体を何度も目撃した。氷が融けた後の泥貯まりには無数の屍体があった。

 金山のふもとに滞在中、農学者(かれは公共事業の監督をしていた)と知り合い、2人で相談してモンゴルに向かい、極東・太平洋に脱出することを決めた。

 コルチャーク提督政府がまだ存在していたとき、かれはモンゴル北部Urianhaiの地理調査を指示されており、当該地域についての知識があった。

 

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 7 ソヴィエト・シベリアをとおって

 著者らは集落を避けたが、このあたりの住民は皆反ボリシェヴィキだった。

 ふたたびエニセイ川のほとりに無数の屍体を発見した。

 白軍将校たちは顔と体を切り裂かれ、木に吊るされていた。別の場所ではコルチャーク軍将校の屍体と、凌辱され殺された女の屍体があった。

 

 8 崖っぷち

 ボリシェヴィキの支配する村では、ウクライナからの移民たちが笑顔で著者らを迎えた。著者のオッセンドウスキと農学者は、村の本部にいるチェーカー(秘密警察)たちに対し、モンゴル地方開発の魅力を語った。チェーカーはこれに納得し成功を祈った。

 ソヴィエトの本部はミヌシンスクMinusinskにあった。

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 9 Sayansと安全を求めて

 かれらはロシアを出てサヤンSayan山脈地域に入った。

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 そこにはSoyots(現在のトゥバ人)という民族、モンゴル人、中国人が住んでいた。再びかれらは、住民の家で赤軍兵士たちと鉢合わせした。兵士たちはコサックを追撃しているとのことだった。著者を歓迎してくれたSoyotsたちはボリシェヴィキの略奪に怒っていた。Sotyotsの長は著者らを道案内することになった。

 兵士たちは、険しい沼地にてこずっているときに、Soyotsの仲間であるタタール人に射殺された。

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 10 Seybiの戦い

 集落において、追撃してきた赤軍と、現地住民との間に戦闘が発生した。かれらは、実は姿を変えて潜伏していた白軍将校だった。

 著者は冷たいエニセイ川を渡り、モンゴル領に向かうことになった。

 

 11 赤軍パルチザンの障壁

 内戦が始まって以来、農民や少数民族たちはロシア領を出ようと絶えず移動していた。

 著者の進路であるモンゴル国境の山に、赤軍パルチザンたちが歩哨所を設置していることがわかった。

 著者と農学者、Soyotsたちは、2つの小さなポストを襲撃し、パルチザンを射殺した。

 その後一行は二手に分かれたが、白軍大佐Jukoff率いるグループは行先で赤軍部隊と遭遇し壊滅した。

 

 

 12 悠久の平和の地で

 かれらはSoldjak地方の王子を訪問した。著者は、結膜炎にかかっていた王妃の治療を行い、信頼を得た。その後、モンゴル方面に出発した。

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 13 謎、奇跡と新しい戦い

・Soyotsたちの迷信

赤軍兵士との銃撃戦

・モンゴル側にも赤軍が勢力を伸ばしているのだろうか。

 

 

 14 悪魔の川

 オヴォー(Obo, Ovoo)は、モンゴル民族の間で伝わる積石の風習である。

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 ウルガ(現ウランバートル)の近郊では、モンゴル独立を目指す白軍将軍ウンゲルン・シュテルンベルクとカザグランディ大佐が、中国軍と抗争状態にあるということだった。

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 ウルガはこのとき、中国軍の勢力下にあった。

 

 15 亡霊の行進

 進路をチベット方面へ変更した一行は、途中でラマ寺院に寄った。勤行では、「Om Mani Padme Hung」という文句が繰り返し唱えられていた。

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 著者は馬上でうたたねしたため、転げ落ちて頭を負傷した。

 

 16 謎のチベット

 一行はHungHuTze(「赤髭」、中ロ国境に生息する中国人の武装強盗)の襲撃を受け、仲間の数人が殺された。かれは盗賊の首領を治療し(盗賊たちは、一行を襲撃しておきながら治療を頼んできた)、ふたたび寺院に戻った。

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 第2部 悪魔の地

 17 謎のモンゴル

 チベットを経由してインド洋に出る計画は中止となり、再びモンゴルに向かうことになった。

 中国は、ロシア革命に乗じてモンゴルを再占領し、君主ボグド・ハンを幽閉して以来、ボリシェヴィキと協力してモンゴルを統治しようとしており、これに対しモンゴル人と、ウンゲルン率いる白軍が反抗していた。

 1921年には、ウンゲルンの軍がウルガを占領した。

 

 著者と友人の農学者、そして白軍将校たちは、中国側の手に落ちていない都市を目指した。

 道の途中でユルタの寝床を提供してくれた羊飼いたちによれば、KobdoとUlankomには、赤軍こそいないが、中国軍が駐屯しモンゴル人を弾圧しているということだった。

 

 

 18 不思議なラマの復讐者

 中国軍に対する反乱を指導するラマについて。

 著者はこのラマに幻術をかけられ、幻を見た。またラマは、伝説の地であるアガルタ(Agarti)に行ったことがあると証言した。かれはダライ・ラマとも親交があった。

 

 19 野蛮なチャハル

 中国軍の下で働くチャハル人指揮官について。

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 20 ジャギスタイJagisstaiの幽霊

 オヴォーにまつわる話と、野営のエピソード。羊とアンテロープの群れを追い、獲物をしとめた。夜、テントのすぐ近くまで狼がやってきて、駱駝を狙ったので、著者はモーゼル銃で殴った。

 

 狼と鷲は霊的存在の使いである。

 

 21 死の巣

 天然痘癩病にかかったモンゴル人が寺院の近くに集まり、野営していた。かれらはラマの神通力によって病気を治療師てもらおうとやってきた一族たちだった。

 モンゴルでは信仰や迷信が大きな影響力をもっており、著者自身も幻術にかかった体験を記録している。

 

 22 殺人者たちのあいだで

 かれらが宿泊した電信所の主Kanineともう1人の客はチェーカーだった。隣人から、かれらが前年に50人ほどの拘束されたコルチャーク軍将校を射殺した話を聞かされた。

 

 23 溶岩の上で

 コソゴル湖の生態系について。鮭に似た魚が生息しているが、寄生虫に汚染視されているため、犬や猫でさえ食べないという

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 湖のほとりにあるKhathylの町では、カザグランディ大佐の白軍が崩壊しており、赤軍がやってくるということでパニック状態となっていた。

 一行は町を出て、Muren Kureに向かった。Muren Kureは中国軍の勢力下にあり、すべてのロシア難民を地域から排除しようとしていた。

 

 24 血まみれの懲罰chastisement

 電信所の近くで一行をもてなした一家は、チェーカーたちによって殺害されていた。白軍がチェーカーを捕え、連行した。

 

 25 苦痛の日々

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 ウリヤスタイUliassutaiはモンゴル中西部の都市で、中国軍が多数の中国人苦力や浮浪者、ギャングをけしかけて、モンゴル人・ロシア人に対する虐殺を行おうとしていた。

 これはコブドで起こった虐殺の再来と思われた。

 ところが、首都ウルガをウンゲルン男爵が奪回したという知らせが入ると、中国人はとたんに姿を消した。

 その後、ウリヤスタイと、ナラバンチ(Narabanchi、白軍大佐の制圧下)、ウルガ(ウンゲルンの制圧下)との間で、著者は中国軍との協定に関する調整を担当した。

 

 26 白いHungHuTzeの集団

 27 小さな寺の謎

 28 死の息

 各都市を占拠した白軍司令官は互いに意思疎通がとれておらず、また掠奪を行いモンゴル人から反感を買うものもいた。

 

 3部 アジアの中心をさまよう

 29 征服者の道

 チンギス・ハーンは伝承によれば、西方には火と破壊を、東方には繁栄をもたらすといったという。歴代の征服者たちは皆モンゴルの地を聖なるものと考えた。ロシア内戦時代にも、モンゴルはラマ伝承、仏寺、超能力といった信仰で満ちていた。

 

 30 逮捕

 ウンゲルン配下の将校による逮捕と、釈放について。

 将校は誤認逮捕を謝罪し、おわびにモーゼル銃を著者にプレゼントした。

 

 31 ウルガ(なげなわ)の旅

 馬に蹴られた右足が痛み、眠れない夜を過ごし、高熱を出した。

 

 32 予言者の老人

 滞在していた馬宿に予言者の老人がおり、かれから不吉なことばを聞かされた。

 間もなく著者らはカザグランディ大佐の司令部に到着したが、そこにレズーキン将軍という冷酷な男がいた。

 将軍は、著者の知人であるゲイ博士とその一家をスパイ容疑で刺し殺していた。間もなく将軍の上官であるウンゲルンもまた司令部にやってきた。

 

 33

 著者はウンゲルン将軍に謁見した。将軍は猜疑心が強く、躁状態に近い人物であり、部下は皆おびえていた。自分たちの境遇を説明した結果、将軍の取り計らいでウルガまで護衛をつけてくれることになった。

 その後、車で移動するウンゲルンは度々著者に声をかけるようになった。

 

 34 戦争の恐怖

 ウルガに行く道の途中には無数の屍体が転がっていた。これはウンゲルン軍団の捕虜になった中国人4000人が脱走を試み、チベット兵やモンゴル兵に殺害されたのだという。

 

 35 生きる神の町、三万人の仏と六万人の僧侶

 ウルガの司令官パイロフ大佐Col Sepailoffは狂人のサディストだった。かれはボリシェヴィキに拷問を受け、牢獄を出た後はボリシェヴィキに家族を殺害された。

 町のバザールは活気があり、無数のラマ僧たちがスパイ活動を行っていた。ラマ僧スパイのネットワークは、内モンゴルからきた裕福な中国人を見定めて、予言によって金をせしめようとしていた。

 

 36 聖戦士Crusaderと私掠船privateer(政府から許可を得て敵国の船を略奪する船)の子

 ウンゲルン将軍は著者をドライブに連れていき、その間談話を行った。

 かれは十字軍と私掠船海賊の子孫であり、その一家は戦争のために生きるかたわら、神秘や哲学について研究してきた。

 ウンゲルンの目標は、崩壊したロシアにかわって新しいアジアをおこすことだった。その手立てのひとつがモンゴルの解放である。

 ボリシェヴィキは殺人者集団なので、犯罪者と同じように死をもって報いなければならない。

 

 かれは仏僧騎士団の設立を目指している。現在はまだ少数精鋭だが、かれらはあらゆる欲望から離れ、ただアヘンの摂取だけは許容される

 

 将軍はモンゴル人のために、泥棒を働いたコサックたちを店先に吊るし、また悪徳金貸しのロシア人を絞首刑にした。また、著者の目の前でボリシェヴィキの斥候を処分したが、徴発された農民は自軍に引き入れ、コミッサールは棒で撲殺させた。

 ウンゲルンはイルクーツクや北京、ハルピンなど各地に、ユダヤ人のスパイがおり電報で報告を受けていた。

 

 37 殉教者のキャンプ

 著者と農学者はセパイロフ大佐に命を狙われたが、ウンゲルンに通報し一難をとりとめた。

 

 38

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 ウンゲルンの案内を受けて活仏ボグド・ハーンの宮殿を訪問した。著者オッセンドウスキは、来日経験があり、東京帝国博物館の仏像を思い出したと記載している。

 ボグド・ハーンへの謁見後、ウンゲルンと著者はブリヤート人武将のユルタに向かった。ウンゲルンは占い師に自分の運命を占わせた。その結果、130日後に死ぬと再び宣告された。

 

 40 鞍のような頭の男

 セパイロフ大佐につきまとわれる。

 著者らはウルガを出発し、セパイロフの追跡をかわし、北京に到着した。

 

 4部 活仏

 以降は、ボグド・ハーンを訪問した時のことや、かれの活動、生活、過去等について語られる。

 40 千喜の庭園で

 ボグド・ハーンの宮殿を訪問したときの、貢納品倉庫の様子や、ラマ僧の3階級について。

 41

 42

 チベット仏教化身ラマの概念について。

 43

 44

 ボグド・ハーンの生い立ちと、モンゴル独立運動、中国軍による刺客、また軟禁について。

 

 

 5部 世界の王――謎のなかの謎

 旅の途中、モンゴル人たちがふと馬をとめて祈祷を始めたことがあった。かれらによれば、地下世界に世界の王が住んでおり地上の生き物が皆これを恐れるのだという。

 この世界はアガルタAghartiと呼ばれ、かつてジンギス・ハンの命令から逃れた一部の部族たちがそこに逃げ込んだ。

 地下世界の洞窟には光があり、その下で野菜が育ち、人びとは病気から免れる。また舌がふたつある人間がいて、かれらは違う言語を同時にしゃべることができる。

 16フィートの単眼のカメが発見された。アガルタの都はポタラ宮殿に似ており、そこには高僧と科学者たちが住んでいる。

 ゴーロー(Goro)という高僧が住んでいる。

 

 世界の王は、地上の王たちを観察し、ふさわしいものを支援する。

 世界の王はこれまでにインドやチベット、モンゴルの寺院など、地上に現れたことがあり、白い象のひく車に乗っていた。またアガルタに行ったことのある者はたくさんいるがかれらはその秘密を口にしなかった。

 ウンゲルン将軍は、若い王子を派遣しアガルタを探させたが、二度目の派遣のあと王子は帰ってこなかった。

 

 

 

セキュリティ関連の本を買った

 仕事の関係で本を買いました。

 仕事とはいえ1日8時間労働であれば人生の三分の一を消費するので、なるべく自分にとって楽しい仕事にしたいと思いました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『ナポレオン帝国』ジェフリー・エリス ――ナポレオン研究の紹介

 ◆メモ

 ナポレオンはフランス、ヨーロッパ史に大きな影響を残しており、政治的にも、正確な評価を行うのに苦労する対象のようである。

 

 本書はナポレオンが作り上げた制度や社会システムに関して、刊行当時最新の研究成果をまとめたものである。

 ナポレオン研究の本場はヨーロッパであり、フランス語・ドイツ語による研究をアメリカが追いかけつつ、アメリカでも独自の成果が出ているようだ。

 

 まとめとしては、これまで普及してきたナポレオン伝説――ナポレオンが社会・政治システムの根本的な変革者であり、ナポレオン帝国がヨーロッパの国家システムを変えた――を否定し、その実態を明らかにするものとなっている。

 ナポレオンには当初からヨーロッパ帝国を築くという大計画があったわけではなく、その場その場で征服戦争を進めていった感が強い。また、かれの征服はフランス革命が生んだ平等や中央集権といったシステムの普及が目的ではなく、優先されたのは軍事・財政上の収奪だった。

 

 ナポレオン評価はその立場によって様々である。著者が言うように、報道の自由や平等、人命尊重といった価値観からナポレオンを完全否定するのは不公平だが、同時にナポレオンが近代的価値観のために戦ったと単純化するのも不自然である。

 

  ***

 1章 序論

 欧州で20世紀後半以来進んできたナポレオン研究と、英語圏における普及について述べる。

 様々な観点からの研究によって、ナポレオンの実像は常に更新されている。

 ナポレオンはこれまで言われていたほど抜本的な改革者ではなく、その社会システムは、既存の制度に多くを負っていた。ナポレオンはヨーロッパの支配者となったが、同時にヨーロッパにとらわれていた。ナポレオンの野心は世界帝国などではなく、カロリング朝の模倣だった。

 ナポレオン自身は、軍人君主というよりは啓蒙専制君主だった。

 

 

 2章 受け継いだ遺産

 1 軍隊の出世システム

 コルシカの下級貴族の家に生まれたナポレオンは、陸軍幼年学校、陸軍士官大学校を出て砲術将校となった。フランス革命が起こり、1793年までに貴族階級の将校70%が亡命した。このためナポレオンら下級士官、下士官の出世が可能になった。売官制の蔓延する旧体制下では想像できないことだった。
 1793年12月には24歳で准将となった。イタリア戦役やオーストリア戦争、エジプト遠征、また王党派蜂起の鎮圧等を経て、ナポレオンの名声が高まり、軍が政治・外交でも主導をとるようになった。

 1799年ブリュメールのクーデタにより、かれは政権を設立した。

 

 ナポレオンと同様、身分や階級の低い有能な兵士たちが急激に出世していき、やがてナポレオンの将軍たちとなった……オージュロー、ベルナドット、ベルティエ、ベシエール、ブリュン、ダヴー、グーヴィオン、サン=シール、ランヌ、ルフェーヴル、マクドナル、マルモン、マッセナ、モルティエ、ミュラ、ネイ、ウディノ、スルト、スーシェ、ヴィクトルなど。

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 2 革命国家の変革

 革命を通じて確立された制度……財政新規則、標準直接税、新司法制度、行政枠組改変などを、ブルジョワ革命と呼ぶのは不適切である。革命前に封建制はほとんど崩壊しており、平民も特権身分を買うことができていた。また革命は、商工業・金融分野を停滞させた。

 最大の事象は、教会と亡命貴族から没収した土地を売却することで生じた「不動産所有個人主義」とでもいうものである。

 また、フランスの領土拡大はブリュメール以前、共和国時代から始まっていた。特に、フランスが手に入れたベルギーとラインラントは先進工業地域だった。一方、ナポレオンが受けついだフランス軍はドイツ、イタリアで略奪を続け、またイギリスによって海上貿易を封じられた。

 

 

 3章 文官組織

 ブリュメールのクーデタでナポレオンは統領政府を確立し、共和歴8年憲法を設置した。

 

 1 政治機構

 憲法は「人間と市民の権利」を反映したものではなかった。ナポレオンの終身統領や帝政開始をめぐっておこなわれた人民投票は、既成事実の追認か反対かの意味しか持たなかった。

 立法・行政の各機関が設置されたが、概ねナポレオン支持者と富裕層が牛耳るように設計されていた。

 内政を掌握したのは内務省と警察省(フーシェが2度大臣を務めた)で、組織は肥大していった。またパリ警視庁はナポレオンのための秘密警察として機能した。その長たる警視総監にはルイ=ニコラ・デュボワとエティエンヌ=ドニ・パスキエがついた。

 他にも分割統治の観点から憲兵隊など複数の警察組織が存在した。

 

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ナポレオンのフランスは警察国家であった。……しかしナポレオンが統治の道具として恐怖心を利用することは、けっしてなかった。

 

 県知事は中央政府が任命し、中央政府に従属した。県の下の郡を統括したのは、県の副知事だった。

 ナポレオンによる行政システムの特徴は、画一化、中央集権化、地位・指揮権・報酬の階層化である。役人については、年功序列の傾向が強かった。

 

 2 参集者(rallies)と反対勢力

 ナポレオンは追放されていた王党派やジャコバン派にも恩赦を与え、政治抗争を収束させ基盤を固めた。ナポレオン体制を支えたのは、法曹・行政官僚・軍人であり、かれらは共和国時代からその職に就いていた。

 

 ナポレオン統領政府の初期は非常に不安定で、各地での山賊行為や暗殺事件に悩まされた。

 最大の敵であったリベラル・共和派知識人は追放された。また新聞の検閲も厳しくなり、政府広報がナポレオンの軍功を称揚した。国家公認の芸術が大手を振るい、反主流は反抗しなければならなかった。

 

 3 財政・金融

 フランス革命直後、アッシニア通貨はハイパーインフレに陥った。貨幣改革は不人気な総裁政府によって行われた。その後、ナポレオンの統領政府がシステムを継承し、中央銀行を整備した。

 

 4 コンコルダート

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 ナポレオンはまた、革命期に追放・投獄されていた聖職者を呼び戻した。ローマ教皇とは、フランス国内の司教らを国家が任命することを条件にキリスト教復権の協定を結んだ。

 ナポレオンは教会を国家のコントロール下に置き、聖職者を公務員の一部門のように取り扱おうと試みたが、皮肉なことに再び復職した司教らは教皇に対し服従するようになった。

 

ナポレオンはガリカン教会を望んだが、手に入れたのは教皇権至上主義の教会であった。

 

 ナポレオンの離婚を認めないなどトラブルの後、ナポレオンは教皇領を占領・併合し、さらにピウス7世がナポレオンを破門すると、かれを幽閉した。

 結局、ナポレオンがロシア遠征によって失脚するとローマカトリックは勝利した。

 とはいえコンコルダートは、教会と王党派勢力を切り離し、またプロテスタント諸派ユダヤ教を合法化し、統治の役に立った。

 

 5 司法・法典・教育

 これらの分野でも中央集権化、画一化が進められた。これは秩序を好むナポレオンの兵隊精神を反映したものである。

 ナポレオン民法典は、地方ごとにばらばらだった法律を整備したもので、刑法とともに他国の模範となった。

 

 教育制度では、国家エリートを養成するために理工科学校(エコール・ポリテクニークを再建した。ナポレオンは国家運営のための教育を重視し、女性教育や小学校には無関心だった。各学校は、国家の統制下におかれた。

 

 6 まとめ

 ナポレオンの行政システムは、中央集権的近代官僚制度を確立させた。王政時代の世襲や官職購入を一掃したものの、人事システムは必ずしも能力主義とはいえない。

 文官組織の背後にあるのは、やはり軍隊的な志向――階級制度、皇帝への忠誠、厳格な服務規程――だった。

 

 

 4章 大帝国と大陸軍(グラン・ダルメ)

 1 拡大

 領土拡大を支えたのは大陸軍だった。

 

 2 軍

 ナポレオン軍と過去の軍との最大の違いは、皇帝が軍と文官組織双方の最高指揮官となった点にある。こうして文官組織と軍隊との対立は解消された。

 

 陸軍省は、従来任務を担う陸軍省と、兵站を専門とする陸軍経営省に分離された。

 軍の構成においても画一化が進み、将官の大半はブルジョワ出身で、貴族、労働者階級も多かった。こうして軍人名士という階級が誕生した。。

 ナポレオンは軍人の昇進や指揮官職の指名にあたり、部隊歴や功績、勇敢さを重視した。

 軍は徴兵制度によって主に貧困層から兵隊を充足させた。徴兵免除対象は妻帯者、扶養家族を持つ者だった。

 また金銭で「当選くじ」を売買できたため、富裕なブルジョワ層は徴兵逃れが可能だった。

 

 統領政府時代と帝政時代を合わせた総徴兵数は260万人程である。

 兵力確保のソースは「古いフランス」、非フランスの県、衛星国・併合国の外人部隊、そして外国人脱走兵・志願兵だった。

 

 徴兵忌避と脱走は常に大きな問題だった。徴兵は、ナポレオンの標榜する管理国家と地域社会が直接対決する場所だった。また脱走はフランス各地での山賊行為とも結びついた。

 国家憲兵隊は徴兵忌避や山賊対策、広い範囲での治安維持に導入され、後のフランスや他国にも影響を与えた。

 

 3 ナポレオン戦争

 ナポレオンは旧来の軍事技術と戦術を整理し統合した。最大の革新は軍隊編制であり、兵站機能を持つ師団を中心としたシステムが確立した。騎兵、散兵が重用され、従来の密集横隊に対し縦隊が活用された。

 師団の上には、機動性を持つ軍団があり元帥がそれを指揮した。

 帝国衛兵は古参兵や外国人からなる精鋭部隊であり、実体よりも大きな伝説を残した。

 

 ナポレオンの最大の敵は常にイギリスだった。また最大の失敗は、スペインとロシアに攻め入ったことだった。

 フランス大帝国は、ロシアを攻めるのに十分な資源がなく、また従属国の忠誠心も低く、ロシアでの敗戦から1年経たずに帝国は瓦解した。

 

 

 5章 帝国エリートの編成と贈与

 1 貴族と名士

 帝政時代、亡命貴族のほとんどは表舞台には立たなかった。また旧貴族の7、8割は、表立った反抗こそしなかったもののナポレオン体制の参集者ではなかった。軍人や官僚として活躍した旧貴族はごく一部に過ぎない。

 

 2 併合地と従属国

 ナポレオン帝国は併合地(ピエモンテライン川西岸)、従属国、同盟国と様々なレベルでの拡大を行ったが、共通点は、侵略前のエリートが引き続き登用されたということである。

 ナポレオン帝国の制度……民法典や行政システムがどの程度、征服した国々に浸透したかは程度の違いがあり、一概に論じるのは難しい。教皇に忠実な地方では、コンコルダートに対する激しい反発が起きた。

 

 従属国では、近代化や脱封建化よりも、軍事・財政上の収奪が優先された。こうした国では、ナポレオンは封建勢力と妥協し、資源を吸い上げた。征服した土地は、自分の一族や新貴族に対し与える地代の糧となった。

 

したがってナポレオンは、介入先がどこであろうと、抜本的な社会改革を目指した人間だとみなされるべきではない。

 

 フランス本国における封建制廃止の多くはブリュメール以前に既に行われていた。

 結論としては、ナポレオンがヨーロッパを統合したという命題は疑わしい。

 

 

 6章 帝国の経済

 1 農業

 19世紀初頭のフランスは農業国であり、それはナポレオン以後も続いた。

 

 2 大陸封鎖

 1806年、イギリスの海上封鎖に対抗し、フランスはベルリン勅令によって大陸封鎖を開始した。その目的は、イギリス海軍力に対抗することと、フランス商工業による支配を大陸全体に広げることだった。端的にいえば、イギリス商品ボイコットの強制だった。

 あくまでフランス産業をイタリア、ドイツ等に押し付けることが目的であり、従属国、衛星国の産業を考慮したものではなかった。

 

 3 影響

 1810年から1811年にかけて大陸は不況に見舞われたが、それは生産過剰、仕入れ過剰によるものだった。

 1813年に大陸封鎖が崩壊したが、フランスの海上貿易部門は退行し、「フランスは、約40年間分の商業成長を犠牲にした」。

 海軍、商業、金融、工業いずれの分野でも、イギリスがフランスに勝っていた。

 

 

 7章 遺産

 ワーテルローでナポレオンが敗北したとき、フランスには多額の賠償金が残され、領土は削られた。1792年から1815年までのフランス軍の死者は140万人にのぼった。

 適齢期男性が多数死亡したことで男女比バランスが崩れ、出生率の減少につながった。

 

 帝国貴族(帝政期に貴族にされた者)は、旧貴族から相当下に見られたが、土地収入は保持した。

 

 帝政崩壊後にフランスに残った遺産は、法制度、県制度、金融・通貨改革、コンコルダート、リセである。

 

 ナポレオン自身に対する評価は、人びとの価値観や思想によって二分される。

 

すくなくとも民衆にとって、帝国の遺産は好ましいものだったのであり、フランス愛国主義パンテオンのなかでナポレオンの右に出る者はいなかった。

 

 

 

 ◆参考

 

the-cosmological-fort.hatenablog.com

 

the-cosmological-fort.hatenablog.com