WordPressの勉強も兼ねて、サイバー戦争に関するブログを作成開始しました。
有料テーマを使うと非常に使いやすいです。
まだ記事がありませんが、今後、サイバー戦やサイバー部隊、ニュースに関する記事を投稿していく予定です。
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最近、北朝鮮に関する本を読んだのがきっかけで、比較的最近出た新書をひととおり読みました。
なかなか古い本には乗っていなかったこともあるので参考になりました。
新書はメモをとりつつ1、2日で読み終わるので手軽でよいなとおもいます。
Amazonで検索すると、このキーワードは強烈なビジネス本や政治パンフレット本、オカルト本が出てくるのでうっとうしいです。
最近話題になっている中国の不良文化規制ですが、BBCの記事を見ると、KPOPファンの組織力が政治活動化するのを警戒しているようです。
◆韓国
◆北朝鮮
◆中国
◆おまけ
◆過去の本メモ(の一部)
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NATOによる空爆は効果をあげたが、その再開をめぐって、NATOと合衆国交渉チームは対立した。NATO司令官スミス提督と、交渉チームのクラーク中将は意見対立したが、著者は、この対立が後のクラークのキャリアにマイナスにならないよう慮った。将官にとって、上位者(提督)に逆らうのは非常にリスクが高いからである。
この間、チームの一部はマケドニアとギリシアを訪問した。両国は、国名・国旗をめぐって対立しており、交渉チームは両国間の交渉を取り持とうとしていた。
マケドニアは国旗を「ヴェルギナの太陽」(アレクサンダー大王家の象徴)から新しいデザインに変更することを了承し、ギリシアは経済制裁を解除した。
トルコ・アンカラでのイゼトベゴビッチとの会談の結果、大統領は、ミロシェビッチとの妥協案――ボスニアの存続、領土の継続、「スルプスカ共和国」名の使用――に同意した。
ボスニア・セルビア軍は、見せかけの譲歩を一方的に提示しNATO空爆を回避しようとしていたが、著者らは空爆再開がなければNATOは説得力を失うだろうと強く主張した。
セルビア人勢力爆撃に対し、ロシアは、同じスラブ人に対する同情という観点から懸念を表明した。このため交渉チームはモスクワにメンバーを派遣し、ロシア首脳を説得した。
ジュネーヴにおいて、当事者たち……セルビア、ボスニア、クロアチアの各外相は、米国が提示した和平原則に同意した。
交渉チームは空爆の継続を望んだが、一方NATO首脳部は、自分たちの作戦が外交目的に引きずられることを嫌がっていた。NATOが主要標的を破壊し空爆をやめる前に、交渉を前に進める必要があった。
ベオグラードにおける交渉について。
カラジッチ……背は高いが、眼は優しく、威圧的な雰囲気はない。
ムラディッチ……ハリウッドにもいないだろう、完璧な戦争悪党であり、カリスマ的な殺人者に見えた。
この二人をミロシェビッチがなだめつつ、当事者たちはサラエボ包囲解除の草稿に合意した。
著者は、ボスニア・セルビア指導者たちが、話の通じる相手ではなく、軍事力しか信じない存在であると確信するにいたった。
モスタル……かつて他民族社会の象徴とされた町は、ムスリムとクロアチアが対立する戦場となっていた。
ミロシェビッチの指示により、サラエボのユーゴ人民軍、セルビア民兵は撤退を開始した。
クロアチアとクロアチア・ムスリム連合の攻勢が、セルビアの全面介入を引き起こすのではという懸念があった。しかし著者は、ミロシェビッチがクライナとボスニア・セルビア人を切り捨てたことを確信していた。
一方、トゥジマンは、西ボスニアのクロアチア人居住地域を併合し、セルビアとともにボスニアを二分割するという「ヒトラー・スターリン」式シナリオを夢見ており、交渉チームはこれを強く否定した。
トゥジマンとイゼトベゴビッチの会談は険悪なムードで始まった。バルカン人たちは、いったん激怒すると、外部(米国)からの監督・介入を強く要求した。
バニャ・ルカへの進軍について……セルビア人居住域のこの町をクロアチア・ムスリム連合軍が占拠した場合、虐殺や難民が発生し、和平交渉を阻害する可能性が高かった。
また、クロアチア領内において、セルビアとボスニアをつなぐ東スラヴォニアが奪われた場合にも、セルビア側が強硬な態度に出る可能性が高かった。
クロアチア・ムスリム連合軍の攻勢で、短期間のうちに領土比率は7:3から5:5に変化していたが、著者はこの時点でうまく情勢をストップできるよう首脳らと調整した。
ニューヨークでの交渉と、国務省、議会との調整について。
領土分割交渉を円滑に進めるために、交渉チームが一定地点までの連合軍進出を許容している、という事実を知られるのは都合が悪かった。
交渉は、ボスニア側が合意案に文句を言いだし収拾がつかなくなったため、失敗した。
停戦交渉は、攻勢を強めていたボスニア側が渋ったことで難航したが、サラエボへの電気・ガス供給再開などの条件が通り、イゼトベゴビッチ大統領は署名した。
停戦の開始日まで数日間の猶予があったので、著者らは、トゥジマン大統領に対し、ボスニア・セルビア勢力の領地(サンスキ・モストとプリイェドル)を奪回するよう促した。
戦争で手に入れられなかったものを和平交渉で手に入れるのは困難だからである。
・交渉地の選定:ワシントンにある程度近く、またマスコミを遮断できる場としてライト=パターソン空軍基地が選ばれた。
・IFOR:国連の停戦実施部隊には、米軍とともにロシア軍も派遣するよう著者らはモスクワと調整した。これはロシアの協力や米ロ友好を示すためだった。
イゼトベゴビッチとトゥジマンのモスクワ訪問は、エリツィンの急病のためキャンセルされた。ボスニアとクロアチアの2人の大統領は非常に仲が悪く、デイトンでの交渉の前途多難を予感させるものだった。
IFORへの米軍派遣をめぐる調整。
デイトン会議の準備。
***
会議のかぎは、ボスニア内部の意見の一致(イゼトベゴビッチとシライジッチ)と、ボスニア・クロアチアの不和解消(特にモスタル)だった。
各勢力の優先項目
・トゥジマン:東スラヴォニア確保
・イゼトベゴビッチ:独立国、連邦形式
基地での和平会談の模様を日ごとに追って説明する。
・イゼトベゴビッチとミロシェビッチはどちらとも、戦争がこれほど深刻化するとは思わなかった、と感想を漏らした。
・ボスニア・クロアチア人連合の維持という点で、トゥジマンの協力を得ることが和平には不可欠だった。
・ミロシェビッチは連れてきたボスニア・セルビア代表らを非常に邪険に扱い、軽蔑していた。
軍備管理について……旧ユーゴ全体での軍縮を進める一方、均衡を保つため、ボスニア=ヘルツェゴビナ連邦(スルプスカ共和国を含まない政体)の軍備は強化した。
ホルブルックは、領土分割の話題(地図)に取り組ませたが、三国の合意をまとめるのは困難を極めた。
空軍基地における和平交渉の終結。
***
歴史上多くの和平合意は失敗に終わってきたが、その成否は実行フェイズにかかっていた。
・IFORを構成するNATOは前からボスニアに駐留していた欧州軍であるため、かれらは車体の色を白からオリーブに塗り替え、武器・武装も強化した。
・サラエボが連合に明け渡されるとき、パレのセルビア人指導者はギャングや悪党を派遣し、退去するセルビア人たちの住宅に火をつけて回った。かれらは住民に対し、放火しなければ後で処罰・死が待っていると脅迫した。この焦土作戦の過程でセルビア人同士のレイプや強盗が発生した。
しかしIFORに警察業務が含まれないため、NATO軍は傍観するしかなかった。
「セルビア人たちは自分たちの家を燃やす権利がある」という見解が発表された。
・カラジッチは秘密警察を使い、ボスニア・セルビア人を脅迫し合意を無効化するよう操作していた。これを問題視した合衆国はセルビア人幹部と会談し、カラジッチを公職から追放させた。
・クロアチア人戦犯容疑者コルディッチも、ザグレブからの圧力により自主的に投降した。
・1999年、ブルチコは特別行政府としてボスニア中央政府が直接統治することになった。
・選挙によって過激派が選ばれることが懸案事項だった。セルビア人の過激政党に属していたスルプスカ共和国大統領Nikola Poplasenは、デイトン合意を軽視していたためNATOによって更迭された。
・ボスニア和平履行が完了する前に、コソヴォで新しい紛争が発生していた。
略
著者はキッシンジャーの外交モデル――現実主義と理想主義の対立――を否定し、両者は共存できると考える。
よって、合衆国は人道主義に基づく介入を否定すべきではないと考える立場である。
著者リチャード・ホルブルックは民主党系の外交官で、ボスニア和平交渉等を主導した。
アメリカの介入経緯や紛争に対する見方、ボスニア和平交渉の細部、紛争当事者たちの人間性、関係を知ることができる。
ボスニア紛争は、ヨーロッパの役割や、アメリカの外交方針に大きく影響を与えた出来事でもあった。ヨーロッパ(英仏独など)は、紛争解決にリーダーシップを発揮することができず、アメリカ=NATOの支援を必要とした。
合衆国は、ベトナムの失敗や、直近のソマリア米兵殺害事件を受けて介入に消極的だったが、最終的には紛争終結を主導することになった。
***
著者ホルブルック、フレイジャー、ウェズリー・クラーク中将、ジョー・クルツェルらは、ミロシェビッチとの交渉を続けていた。
著者は国務長官ウォレン・クリストファーの下で働く国務次官補であり、ボスニア戦争の和平交渉を担当した。
・ミロシェビッチは英語とジョークがうまく、いかに欧米の政治家を丸め込み、経済制裁を解除するかしか考えていなかった。
・ボスニア・セルビア政治家たちは人種主義に凝り固まっており、米国は交渉相手とみなしていなかった。
・ミロシェビッチとスルプスカ共和国軍のムラディッチとの間には直接的な指揮関係があった。
険しい山道を通ってサラエボに向かう途中、チームの乗ったフランス軍装甲車が崖から転落し、著者の同僚3名が死亡した。
しかし、和平交渉を停滞させることはせず、いったん帰国後、イゼトベゴビッチとの会談を目指した。
***
ユーゴスラヴィア紛争の要因を5つ挙げる。
1 バルカン半島史の誤読
2 冷戦の終結
3 ユーゴスラヴィア指導者たちの行動
4 アメリカの不適切な対応
5 ヨーロッパ単独で処理できるとの誤算
民族紛争と民族浄化が必然である、という偏見を生んだのは、レベッカ・ウェストとロバート・カプランの著作によるところが大きい。
実際は、各民族は数世紀の間共存してきたのであり、紛争は劣悪な政治家たちの振る舞いによるところが大きい。
ミロシェビッチやトゥジマンら指導者たちはテレビを通じて民族間の憎悪を煽りたてた。
社会主義崩壊後の社会不安やインフレ・失業に対し、ユーゴスラヴィアの政治家は極端なナショナリズムに活路を見出した。
アメリカはクウェート戦争後の疲弊でユーゴ情勢不介入を表明した。その直後、スロヴェニアが独立を宣言し、続いてクロアチア独立紛争が勃発した。
ヨーロッパは独力で事態を解決できると考えていたがそれは失敗した。ヨーロッパ共同体と米国の消極性が内戦を本格化させた。
ECによるスロベニア独立合意、ドイツのクロアチア独立承認が、ボスニア分離の動きを助長した可能性はある。
しかし、最大の要因は超大国の不介入であると著者は考える。
ミロシェビッチはセルビア人部隊と化したJNA(ユーゴスラビア人民解放軍)や民兵、ギャングたちを利用し戦争を有利に進めた。
一方、ボスニアのイゼトベゴビッチ大統領も、クロアチア独立承認前に、「平和よりもボスニアの主権を選ぶ」と宣言しセルビア人を刺激していた。
クロアチア紛争に関しては、著者のかつての上司であるサイラス・ヴァンスと、イギリスのキャリントンにより、国連平和維持軍が派遣されいったん停止した。しかしクライナ地区では、平和維持軍の監視下でセルビア人によるクロアチア人排除が行われた。
ユーゴスラヴィア紛争は以上の考察から、冷戦後最大の安全保障における失敗である。
1992年のボスニア独立宣言直後から戦闘が始まり、国際社会はセルビア人による非人道行為に直面した。
著者はこの年、知り合いの依頼によりセルビア・クライナ共和国のバニャ・ルカ収容所視察に向かった。強制収容所の映像は国際世論に衝撃を与えていた。
かれはセルビア人が支配する地区で、ボスニア人が家を追い出される光景を目撃した。また国境の難民キャンプには、男性たちを失った女性や子供、老人が詰め込まれていた。
著者が雑誌上で提案した選択肢は、大国の介入、セルビア人勢力に対する直接空爆、武器禁輸の解除等である。武器禁輸は、セルビアがJNAや軍需産業を牛耳っているため、ボスニア人から自衛の手段を奪う行為でしかなかった。
著者は国務長官ウォレン・クリストファーの推薦により大統領補佐官となり、再びボスニア問題に取り組むことになった。
1994年から1995年にかけて、著者は紛争当事者たちを訪問した。
冬の間、サラエボの戦争指導者たちは停戦に同意していたが、雪解けとともに再び戦闘が始まると予想された。
トゥジマン(クロアチア)はセルビア側に占領されていたクライナ地区を取り戻すために攻撃を開始し、英米情報機関の予測に反して、セルビア人の排除に成功した。
国連平和維持軍は無力だった。NATOはクライナのセルビア軍航空基地やボスニアのセルビア軍を空爆したが、あまり効果がなく、逆にセルビア人は平和維持軍を捕虜にし、人間の盾にした。
英仏・カナダではボスニア撤退論が起こった。シラクは、アメリカの介入がなければフランスは撤退するだろうと示唆した。
米軍が秘密裡に作成したNATOの撤退作戦計画は、2万人の米兵即時投入を伴う、ほぼ不可能な内容(夜間空挺活動など)だった。
NATOの計画をアメリカが拒否すれば、NATO(アメリカとヨーロッパの共同安全保障枠組)という安全保障制度そのものが崩壊することになる。
よって、アメリカは撤退するにせよボスニア・セルビア人を無力化するにせよ、関与を深めるしかない状態だった。
国連の消極方針を受けて、セルビア人勢力はより大胆になった。1995年7月、ムラディッチ将軍はスレブレニツァにおいて捕虜や民間人の虐殺を行った。
直後に始まったクロアチアの攻勢が和平交渉の流れを変えた。ミロシェビッチがクロアチアのセルビア人勢力を見捨てたため、クライナ・セルビア勢力は後退した。こうして、セルビア人勢力が和平に応じる契機が生まれた。
著者は、外交交渉の成否は、外交官のテーブルではなく、常に地上の情勢(戦力)によって決まると述べている。
***
著者らのチームは交渉のためサラエボに向かった。
ミロシェビッチは欧米による経済制裁に苦しんでいたが、「セルビアのハマス」といわれるボスニア・セルビア人勢力は、いまだに強硬姿勢を保持していた。
カラジッチとムラディッチは、既にスレブレニツァの虐殺で国際司法裁判所から訴追されていた。
8月28日の、サラエボ市場への砲撃は、アメリカの態度を決定した。約40名の市民が殺害されたため、これに対しNATOが動かなければ、米国は威信を失墜させることになるだろう。
砲撃の直後、著者らはパリでイゼトベゴビッチ大統領と会談を行った。ムスリム側はしきりにNATOによる爆撃を訴えたが、一方、戦後ボスニアの明確なヴィジョンは持っていなかった。大統領は連邦制国家を容認していたが、シライジッチ首相は、強力な首相を擁する多民族中央政府を欲していた。イゼトベゴビッチはティトー時代の投獄と4年間の内戦を経て、不屈の闘士となっていた。しかし、中国共産党の建設者たちと同じく、平和の下で何をすべきかをまったく考えていなかったように思われる。
NATOのクラーク将軍が爆撃のための地図を広げたとき、イゼトベゴビッチ大統領は、「地図」すなわち領土問題のほうが、国家統治問題(Constitutional Issue)より解決困難だとコメントした。
8月30日、Deliberate Force作戦が始まった。サラエボ近郊のセルビア人戦力(要塞や地対空システム)を狙った爆撃は国際世論から評価された。「ヨーロッパは自らリーダーシップをとることができず、アメリカが再びヨーロッパのリーダーとなった」、とある記者は評した。
ベオグラードのミロシェビッチに会うと、かれはセルビア総主教のサインした文書を取り出した。
パレ(スルプスカ共和国の首都)のセルビア人たち……カラジッチ、ムラディッチ、クライシュニクらは、和平交渉の全権をミロシェビッチに委任することを決めたという。
ミロシェビッチは、パレのセルビア人たちを「糞」呼ばわりし、同じ部屋にいたくもないと吐き捨てた。
カラジッチとムラディッチは国際司法裁判所から訴追されており、いかなる国際会談にも参加できなかった。著者はミロシェビッチに対し、あなたが責任をもって2人を和平交渉から排除すべきだと迫った。
ミロシェビッチはボスニア空爆に対し無感動だった。かれはセルビアの経済制裁解除にしか関心がないようだった。
ベオグラードのホテルでは、クラーク将軍が持ち込んだ盗聴防止卓上テントおよびマイクロフォンで会話した。その姿がこっけいなので皆笑い出し、ホテル中の客が目を覚ました。
[つづく]