うちゅうてきなとりで

The Cosmological Fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

テレビがなくなった

 ◆テレビがなくなった

 先日、テレビを捨てて、代わりに大型PCディスプレイを導入した。

 

 このモニターに、余っていたノートPCと安いスピーカーを付けた。

 

 見たい番組はNetflixYouTubeで見るようになった。

 

 いまはニュース番組も見ることができる。YouTubeではANNが24時間ニュース放送を流している。

 またBBC、CNNなどもネット上でニュースやラジオを流している。

 必要な新聞記事はGoogle AlertTwitterで収集可能である。

 

 テレビを捨てた最大の理由は、NHKに金を払いたくないからである。 

 NHKは、Voice of AmericaやRT、朝鮮中央テレビCCTVと同じ(実質)国営宣伝放送であり、ウォッチ対象の1つである。

 

 

 

 

 

 ◆体制の下にあるフィクション

 ルーマニアの小説家であるヘルタ・ミュラーをまとめ買いしたので近々読む。

 

The Land Of Green Plums

The Land Of Green Plums

  • 作者:Muller, Herta
  • 発売日: 1999/09/03
  • メディア: ペーパーバック
 
The Appointment

The Appointment

  • 作者:Muller, Herta
  • 発売日: 2011/07/07
  • メディア: ペーパーバック
 

 

 おそらく10年以上放置していた、アルバニアのイスマイル・カダレという小説家の本も、今月中に読む予定である。

夢宮殿 (創元ライブラリ)

夢宮殿 (創元ライブラリ)

 

 

 

 

 ◆人の心はどこにあるのか

 人間の心についてどのような研究がされているのか知りたいので本を買った。

 

心はどこにあるのか (ちくま学芸文庫)
 

 

 

 

 

『不実な美女か貞淑な醜女か』米原万里 ――翻訳、通訳、外国語学習について

 有名な翻訳者、著述家による本。


 通訳としての経験を交えて、異なる言語間、文化間のコミュニケーションについて考える。

 母国語について深く知ることが通訳のみならず外国語学習にとって重要だという。英語や外国語を使えるというのは、母国語を使いこなせてはじめてメリットになる。

 また外国語学習は母語を見つめ直す上でも有意義である。

 言語は民族性やイデオロギー、価値観を持っている。

 

 

  ***

 

 ――異なる言語間のメッセージや情報の伝達、意思疎通の必要性が生じたときに初めて、その存在価値が認められるという、思えばはかない、はかない商売なのだ。

 

 

 1

 通訳・翻訳業は多様性を持つ営みである。

・様々な顧客・分野に触れることができる。

・言語間の組み合わせは多様である。

・訳の仕方や形式は多様である。

・受け手と送り手に依存する。

・通訳・翻訳はコンバータ(変換)作業だが、そのプロセスは未解明であり、まだ機械やコンピュータが人間に取って替わっていない。

 

 ――結局通訳というのは、基本的には言い換えだと思います。まず、日本語的な日本語を、ロシア語的な日本語へ一度言い換え、ロシア語的日本語から日本語的ロシア語へ、それからロシア語的ロシア語へと四つの段階がある。(森俊一)

 

 訳者の機能は、異なる二言語間でのコード変換であり、概念の伝達である。

 通訳業はほとんどが文系出身だが、仕事の対象は科学技術分野のほうが多い。

 動詞は変化するためもっとも身に着けにくい語である。一方、通訳が日々蓄積していく語彙のほとんどは名詞である。

 

 

 2

・発音間違いから起こる悲喜劇

放送禁止用語、差別語は、その根底にある差別意識に対処しない限り決してなくならない。禁止用語はそれだけ魅力を持つもので、いくら禁止してもより婉曲な言い回しで差別が続くだろう。

・メモをとることは通訳に不可欠である。

・同時通訳は時間との勝負である

・記憶のかぎは意味付け……脈絡のないものを覚えるのは非常に困難なので、語呂合わせでもいいから意味を持たせて記憶することがよい。

・通訳と翻訳の差……時間的制約、完成度、見直しの有無

 

 

 3

 本書のタイトルは、美しいが忠実でない翻訳、文として雑だが精確な翻訳を例えたものである。

 日本語は例えばヨーロッパの語からかけ離れているため、精確性を重視する。この場合、外国語を母国語とする通訳が日本語に訳すため、意味は精確に把握しているが日本語としてはおそらく流麗ではない。

 これは外交交渉も同じで、必ず自国の通訳が相手に向けて外国語を話す。

 言語はそれぞれ語彙や概念が異なるため、ぴったりと対応する語がない場合がある……中国語は親類すべてに個別の単語があり、逆に「いとこ」という広い概念はない。姉妹の区別が英語などにはない。

 各国語の定型あいさつは中身がなく、そのまま訳そうとしてもうまくいかないことが多い。「お疲れ様」を音楽家にロシア語で直訳したところ、「疲れていたから不出来だったんだろう」という意味にとられた通訳者がいた。

 

・ダジャレの通訳の難しさ

・固有名詞の連続

・ことわざ

 

 気づかぬうちに相手の気分を害している、発信者のイメージを悪くしていることもある。

 罵り言葉をすべて訳すのは非常に難しい。

 

 

 4

 通訳にとって文脈は非常に重要なので常に事前知識や前提となるテーマについて調べておく必要がある。

 日本語は、特に文脈に依存する、同音異義語の多い言語である。

 お互いが異なる文脈で話している場合、通訳が相互認識のサポートをできることがある。

 

 ――結局、言葉ができる方のそれが特権でもあり、義務でもあるんじゃないでしょうか。

 

 ――異なるさまざまな文化が雑居している多民族国家アメリカでは、相手が自分と同じ文脈を持っていないほうが当たり前、そういう心構えが、とりわけ不特定多数の読者を相手にする編集者にはしみついているようだ。

 

 日本人が、コミュニケーションにおいてうまくいかない理由の分析

・閉じた日本語共同体で生きてきた結果、あまりにも省略しすぎる

・あいまいにする、ぼかす、論理性を隠す

・身内のコミュニケーションに慣れすぎて、枝葉末節に分け入り、全体が見えない話し方をする

 

 くどくどと冗長なしゃべりをする日本人が多いがこれをそのまま直訳した場合外国人は混乱する。

 日本語は子音と母音がセットで使われるため外国語をそのまま訳すと非常に長くなる。

 ある通訳者は長々した前置きや前口上を「まあ」と訳した。

 

 シャドーイングについて……

 

 ――……正確で美しい発音やイントネーション、自然で無理のない文型や表現を身に着けるためには、やはりシャドーイングは捨てがたいトレーニング方法である。

 

 外交交渉や官僚答弁等で、あえて要領を得ない回答をする、また回りくどく答えることがある。こうした意図を通訳者は尊重しなければならない。

 

 

 5

 文体にまで手を出さず、基本的に標準語を使うというのが通訳術の鉄則という。

 通訳者は日本語能力もまた重視される。

 

 ――日本語が下手な人は、外交語を身に着けられるけれども、その日本語の下手さ加減よりもさらに下手にしか身につかない。コトバを駆使する能力というのは、何語であれ、根本のところで同じなのだろう。

 

 ――そもそも日本語ができるからこそ英語は付加価値に成り得るのであって、英語だけしかできない人なら、アメリカにもイギリスにもオーストラリアにも、ちょうど日本に日本語しかできない人がウヨウヨいるように、掃いて捨てるほどいる。

 

 ――……ある程度基礎を固めた母国語を豊かにし、磨きをかける最良の手段は、外国語学習なのではないだろうか。

 

 国際会議の場において母国語を使うのは民族自決の証である。著者の首長では、総理大臣は日本語でしゃべり英語は通訳に任せるべきである。

 

 ――言語と同時に人間は、その言語の背負っている文化を否応もなく吸収してしまうようなのだ。……言葉は、民族性と文化の担い手なのである。

 

 単語が思い浮かばない場合は類似語か、その語の定義(トンボ→ヘリコプターに似た昆虫)で間に合わせる。

 異なる文化をつなぐのが通訳の醍醐味である。

 

 ――他の民族に対して自国の言語を押し付けたり、あるいは逆に強国に迎合して自国語をないがしろにしている人びとには、この感動は永遠に訪れまい。

 

不実な美女か貞淑な醜女か(新潮文庫)

不実な美女か貞淑な醜女か(新潮文庫)

 

 

捨てられた人、駆り出された人のメモ

 最近読んでいた本のメモ:

 

 

 ◆シベリア抑留

 当時(シベリア抑留者帰国時)、ソ連は自国の政策や抑留政策を対外的に公開しておらず、また日本には理想的な社会主義観が広まっていた。

 知識人たちは、抑留者たちの手記や証言を否定し、かれらを批判した。

 

 ――「八年間、少しも進歩なしに、旧軍人意識と態度とを持ち続けたまま帰国したということは、恐るべきことである。かれらはほとんど異口同音に何らの政治教育をも受けなかったといっている。しかも8年間、ただ帰りたい一心だったという。これでは目にも耳にも何も入らないし、入ったとしても、それは文字と音響として入るだけで、思想や判断を形成する材料としては働かない。……おそらくその人たちは社会の問題を正しくつかむセンスをはじめから持ち合わせていない人びとではないかと疑う。……だから全然歴史的性格のちがった社会へつれていかれても、目を見張って、何か新しいものを見つけようとする努力をする精神の力を持っていないのである」(岡本清一)

 

 ――「……これはまたわれわれの岡目八目的ソヴェート観にも合致する。その躍進は実にすばらしいこと」(同上)

 

――「(同胞五人の手記は)失礼ながらはなはだつまらない」(桑原武夫

 

 ――「人には眼があるから、目の前にあるものは、みなみえるはずだという素朴な論理が、いわゆる手記の根底にあるわけだが、そんなことはない。……まして、今回帰ってきた人びとは、その理由の正当、不正当はともかくとして、ともかく何らかの犯罪によってとらわれていた人びとである」

 

 

シベリア抑留―未完の悲劇 (岩波新書)

シベリア抑留―未完の悲劇 (岩波新書)

  • 作者:栗原 俊雄
  • 発売日: 2009/09/18
  • メディア: 新書
 

 

 

 ◆朝鮮労務動員および徴用

 1942年以降の朝鮮における動員は、希望者がいたことも確かであるが、充足を満たすために強制的・暴力的に動員されるものも増加していった。

 この様子は朝鮮総督府厚生局労務課の発言や、強制供出による労働能率低下を戒める総督府訓示にも記録されている。

 徴用は国家命令であり敷居が高かったが、朝鮮半島においては、官あっせんでの動員が実質的な徴用と変わらない状態になっていた。徴用の場合は被徴用者について正式な書類を作らねばならず、また原則として炭坑・土建業は対象外だった。

 日本政府は、「炭坑・土建現場での労務管理が十分になるまで、民族不和を生まないようにする観点から、徴用はするべきではない」と考えていた。

 つまり、この時点で半強制的に連れてこられた事業所は、劣悪な状態を労働者に強いていた。

 

 ――……寝こみを襲いあるいは田畑に稼働中の者を有無を言わせず連行する等相当無理なる方法を講しようやく……

 

 強制的な動員には、面邑職員(朝鮮の自治体職員)の一部も消極的だった。強制連行の恨みを買って危害を加えられる事件が発生していたからである。

 募集難を受けて、1944年1月に徴用発動のための方針が発表された。

 1944年8月から朝鮮半島における徴用がはじまったが、元々官あっせんも反強制・強制でおこなわれていたために、それほどの衝撃を与えることはなかった。

 徴用は本来、国家命令によって国民を徴用するものであり、その補償として家族には援護政策が行われることになっていた。しかし、朝鮮半島の行政機構が整備されておらず、朝鮮に残された徴用労働者の家族が補償を受けるのは非常に困難だった。

 

朝鮮人強制連行 (岩波新書)

朝鮮人強制連行 (岩波新書)

  • 作者:外村 大
  • 発売日: 2012/03/23
  • メディア: 新書
 

 

 

 

『The Nemesis of Power』Sir John Wheeler-bennett その4(4/4) ――ヒトラーに制圧されたドイツ軍

 

 3 フリッチュ危機から戦争勃発まで

・1938年9月:チェコスロヴァキア進軍と併合

 ヒトラーチェコスロヴァキア進出計画を聞いた参謀総長ベックは、軍事的に不可能だとして恐慌に反対し、辞職した。司令官ブラウヒッチュに対し、クーデタを呼びかけるが、かれは「自分は軍人であり仕える存在である」として拒否した。

 

 軍人の誓約はドイツでは非常に強力で、軍高官の一部は、ヒトラーの無謀さに気づいていたものの、諫言したり、抗議したりする者はほぼいなかった

 

 ベックは、若手将校や、後任参謀総長フランツ・ハルダー(Franz Halder)、ハンマーシュタイン、ヴィッツレーベン大将(von Witzleben)、ヘプナー(Erich Hoepner)、ヴィルヘルム・カナリス(Wilhelm Franz Canaris)、ハンス・オスター(Hans Paul Oster)、神学者ボンヘッファー(Dietrich Bonhoeffer)、ベルリン警察長官へルドルフ(Wolf Heinrich Graf von Helldorf)、元ライプツィヒ市長ゲルデラー(Carl Friedrich Goerdeler)、法学者ドホナーニ(Hans von Dohnanyi)、政治家ポーピッツ(Johannes Popitz)ら反ヒトラー勢力と連携し、チェコスロヴァキア進軍に合わせたクーデタを計画した(黒いオーケストラ)。

 ゲーデラーは英仏の支援を得るために、盛んに訪問しヒトラー打倒を唱えていた。かれは、ヒトラーはすなわち戦争を意味すると主張し、チャーチルらの支持を得ていたが、最終的に英仏の協力を得るには至らなかった。イギリスにとっては、クーデタ勢力はせいぜい第一次大戦を起こした君主制の再興に過ぎなかった。

 

 1938年9月、チェンバレンミュンヘン訪問によってクーデタ計画は腰砕けになった。著者は計画失敗の要因が将校たちにあると考える。

 当時ドイツ国民の多くは厭戦気分に満ちていたものの、ハルダーらは計画性と決断力に欠けていたため、例えチェンバレンが譲歩しなくても、一揆を躊躇しただろう。

 

 OKW(国防軍総司令部)とOKH(陸軍総司令部)は対立状態にあった。

 OKWを占めていたカイテル、ヨードル(Alfred Jodl)、ヴァルリモント(Walter Warlimont)らはいずれも非プロイセン人で、プロイセン将校団らの特権的地位を敵視していたという。

 

 1939年の春から夏にかけて、ヒトラーポーランド侵攻を表明するのに合わせて、反ヒトラー派や国内の厭戦派、そして英仏は和平交渉を求めた。しかし独ソ不可侵条約が締結されたことで望みは絶たれた。

 8月末、ヒトラーは「緑作戦」の発動を命じた。ポーランドは、英仏からの圧力により、ダンツィヒ割譲交渉に参加しようと特使を出したが、ドイツは交渉を打ち切り9月1日から戦争が始まった。

 ヒトラー、リッベントロップらナチス首脳は戦争を望んでいた。ブラウヒッチュを筆頭に、陸軍は既に事態をただ傍観するだけになっていた。ハルダーは抵抗運動から遠ざかり、ヒトラーを亡ぼすにはドイツの敗北と被害が不可欠だと諦めていた。

 カナリスやオスターら情報部は、ヒトラーの8月末の命令撤回以来、ドイツは戦争を回避するだろうと楽観視していたためにショックを受けた。

 

 

 4 東方での勝利と「まやかし戦争」

 第1次大戦と異なり、ドイツ国民は戦争の行く末に不安を抱いていた。英仏との全面戦争は、ドイツの破滅を意味していた。

 ポーランドでの電撃的勝利後、ヒトラーは英仏に平和攻勢をしかけるがダラディエやチェンバレンは動じなかった。

 ただちに秋に攻撃をしかけようとするが、軍の反対にあい、ヒトラーはやむなく譲歩した。

 当時、SDやゲシュタポは具体的な反乱計画について何も情報をつかんでいなかった。かれらは軍や外務省の多数、そしてゲルデラーらがヒトラーに反抗的で、敗北主義者であると考えてはいたが、それ以上の調査は何もしていなかった。

 

 1939年11月、ゲオルク・エルザー(Georg Elser)によるヒトラー暗殺未遂(ビュルガーブロイケラー爆破)が発生した。本書は、ヒムラーとハイドリヒによるナチス古参暗殺計画の可能性を示唆している。それはエルザーが終戦直前まで生かされていたことの説明になるとしている。

 

 ノルウェーデンマークへの侵攻は、海軍のレーダー、ローゼンベルクが提唱したものだった。陸軍はこの計画に反対し、ほとんど協力しなかった。

 1940年5月、ベルギー・フランス侵攻に成功したものの、イギリス上陸作戦は不可能となり、戦線は膠着した。

 

 

 5 電撃戦からスターリングラードまで

 この間、反政府勢力は引き続きクーデタの可能性を模索していた。陰謀グループのメンバーは流動的だが、このとき中心となったのはゲルデラー、ベック、外交官ハッセル(von Hassel)などである。

 かれらは君主制復活に向けて、だれを王に立てるべきかをあれこれと議論した。

 なお、カイザー・ヴィルヘルム2世はヒトラーの征服後も、オランダに留まった。連日、国防軍兵士が邸宅に見学に来て、警備のSS将校も元皇帝に対してプロイセン式の敬礼を行うようになっていた。

 クーデタ勢力は王政復古主義者、社会主義者立憲主義者等様々だったため、意思統一が困難だった。一部のメンバーは、ヒトラーを排除しゲーリングヒムラーを擁立する可能性も検討した。

 

 1941年3月、ヒトラーは軍高級幹部を集め、対ソ戦の準備を命じた。このとき、敵の政治委員やパルチザンを抹殺する「コミッサール指令」を出した。

 軍は、これまでSSがやってきた汚れ仕事を自分たちもしなければならないとして不満を抱いた。ある将校は、「これはドイツ軍の汚点になるだろう。ドイツ軍は、プロパガンダにしか出てこないBoche(ドイツ人の蔑称)になるだろう」と嘆いた。

 しかし大方の指揮官はこの指令を実行した。

 

 独ソ戦は当初うまくいったが11月の降雪とともに膠着した。モスクワを目前に停滞していた中央軍集団司令官ボックをヒトラーが直接叱咤するとして訪問することになった。このとき、クーデタ勢力はヒトラー拘束を計画したが実行されなかった。

 

 12月にボックが更迭されギュンター・フォン・クルーゲ(von Kluge)が就任すると、配下のトレスコウ(Henning von Tresckow)は叛乱を呼びかけた。しかし優柔不断のクルーゲは最後までどっちつかずの態度をとった。

 

 1941年8月、チャーチルルーズヴェルトが締結した大西洋憲章(The Atlantic Charter)は、クーデタ勢力に衝撃を与えた。そこには、米国の中立廃止とともに、ドイツの完全武装解除が掲げられていた。

 連合国側は、ドイツには信頼できる反政府勢力が存在せず、ナチ政権とドイツ国民は一体だと認識するようになった。

 停滞した軍に対しヒトラーは「無撤退(No Withdrawal)」の指示を出した。将校たちは、暴走するヒトラーに対し反抗するどころか、勲章と司令杖(baton)をほしがり最高指揮官のむちをなめる始末だった。

 陸軍総司令官ブラウヒッチュは、ヒトラーの伝令になっていたが、将校団とヒトラーの板挟みになり12月に隠退した。するとヒトラーが自ら陸軍総司令官となり、大量の指揮官を更迭した。

 

 1943年1月末、スターリングラードで包囲されていたパウルス元帥(Friedrich Paulus)率いる第6軍9万人が降伏した。ベックらクーデタ勢力はパウルスに蜂起を打診していたが、実現しなかった。

 

 

 6 スターリングラードからノルマンディまで

 スターリングラード陥落は、ドイツ国民に衝撃を与えた。

 ヒトラーは直観に優れた軍事的天才と考えられていたが、実は単なる誇大妄想の伍長なのでは、という疑いが市民、軍の間に生じた。戦争に負けるのではないかという不安が初めてドイツを覆った。

 クーデタの時機も、国民の支持もあったにもかかわらず、もっとも重要な要素……明確なヴィジョンと指導者に欠けていた。

 高級将校たちは、ナチ政権がもたらす特権……勲章、司令杖、手当、不動産等によって懐柔されていた。

 

 クーデタ勢力は伝統的保守派軍人・政治家と、青年(クライザウ・サークルKreisau Circle)に分かれていた。後者は法律家ヘルムート・フォン・モルトケ(Hlmuth von Moltke)が中心で、暗殺計画には反対していた。

 1943年、トレスコウ、その副官シュラーブレンドルフ(Fabian von Schlabrendorff)、オルブリヒト大将(Friedrich Olbricht)、オスターらは、時限爆弾を使いヒトラーを飛行機事爆破しようとするが、起爆装置の不備により失敗した。

 

 ヒムラーへのクーデタ提案の失敗と、カナリス、オスター、ポーピッツらの追放……ヒムラーは、ポーピッツの提案に応じており、逮捕はこの事実のもみ消しでもあった。

 

 工作グループにおけるオスターの後任者として選ばれたのはクラウス・フォン・シュタウフェンベルク(Claus von Stauffenberg)だった。

 1943年、ヒトラー暗殺と同時に発動するクーデタ計画「ワルキューレ作戦」が策定された。しかし、その後何度も暗殺は失敗した。

 1943年2月の反政府グループ摘発をきっかけに、シェレンベルクとミュラーが率いるSDがアプヴェーア潰しを行い、組織をRSHAに吸収した。カナリス提督は反ヒトラー勢力を長い間匿い続けたが、オスターとともに職場を追われた。

 ロンメルも反ヒトラー感情を隠さなかったが、ゲルデラーらは元帥をヒトラー戦争の加担者とみなしていたため(ロンメルは当初ヒトラーのお気に入りだった)、かれらとは折り合わなかった。

 

 軍・外務省は、内部で東方派(ロシアとの友好を求める)と西方派(英仏と協力し、東方を征服する)に分裂していた。シュタウフェンベルクもロシアをソ連から解放するという理想を持っており、ウラソフ将軍の義勇軍支援を担当した。

 

 

 7 1944.7.20 ヒトラー暗殺計画

 戦闘で片手、片目を失った障害者のシュタウフェンベルクは、カリスマ性と行動力を備えていたが、親ソ派であり、他の叛乱メンバーとは異なる思想を持っていた。

 フェルギーベル(Erich Fellgiebel)の総統指令部通信遮断作戦失敗は、作戦に致命的な影響を及ぼした。「総統の巣」を通信遮断しなかったため、反乱側の通信とヒトラー側の通信が同時に拡散され、各部隊は混乱した。

 爆発が起きた後、家来たち(カイテルゲーリング、リッベントロップ、デーニッツら)は、互いに責めて罵り合った。

 ベルリン勢は、国防省を制圧したものの、現場の状況がわからず混乱した。フロム予備軍司令官は、積極的には加担せず、成功した側に加担しようと優柔不断な態度を続けていた。

 ヒトラー暗殺に失敗したため、実質的に反乱は「電話交換機の叛乱」に過ぎなかった。叛乱側は各部隊にSSの拘束を命じたが、同時にヒトラーからも叛乱鎮圧の指示を受けたため困惑した。

 

 勝ち馬に乗るタイプ……フロム、クルーゲ、ロンメル

 

 レーマー少佐(Otto Ernst Remer)は反乱首脳部を鎮圧し出世した。

・パリ……シュテルプナーゲル(Carl-Heinrich Rudolf Wilhelm von Stulpnagel)による唯一の成功

 

 ヒトラーが生きている以上、反乱に加担する者は増えなかった。間もなく計画者たちは制圧された。

 ※ 拳銃自殺の難しさ……ベックは1度目失敗、シュテルプナーゲルは両目を失明したまま捕まり処刑

 

 鎮圧後、名誉法廷により将校特権をはく奪した後、人民法廷によってほぼ全員が処刑された。

 

 ヒトラーがもっともショックを受けたのは、ロンメルの叛乱賛同だった。国民へのショックを避けるため、ロンメルが反乱勢力に加担した事実は伏せられ、SSは将軍を自決させた。

 将校たちの不服従が明らかになったとはいえ、戦争を遂行するには将校団の力が不可欠だった。政権は、反乱者と将校団を弁別するよう声明を発した。

 

 著者のコメント……7.20の暗殺計画は、不十分かつ準備不足だったかもしれない。しかし、かれらは連合国の支援も受けずに、かれら自身で政権打倒を企図した。この点で、暗殺計画は真に自発的な運動だった。

 

 

  ***

 終章

・反乱者やその関係者に対して、ナチは残酷な拷問と処刑を行った。軍は完全に委縮し、党への従属はさらに強まった。ナチス敬礼を採用し、国防軍司令官はヒムラーが兼務した。高官らは党におもねり、軍人であると同時にナチズムの唱道者となった。

・連合国は、無条件降伏により当初の目的――プロイセン軍国主義とナチズムの解体――を達成した。

・本書刊行時の動きとして、暗殺未遂事件で功を挙げたレーマーによる社会主義帝国党の勃興と、再軍備に対し警告を発する。

 

 著者の認識では、ドイツには潜在的軍国主義的・拡大主義的傾向があるため、警戒を怠ってはならないのである。

 

  ***

 メモ

 Wehrhoheit 防衛高権

 Heelesreitung 陸軍統帥局

 Bendlerstrasse 国防省のあった番地

 Wehrkreise 軍管区

 Oberkommando der Wehrmacht 国防軍最高司令部(OKW)

 Oberkommando des Heeres 陸軍総司令部(OKH)

 Blumenkorsos 花のパレード

 

The Nemesis of Power: The German Army in Politics 1918-1945

The Nemesis of Power: The German Army in Politics 1918-1945