うちゅうてきなとりで

The Cosmological Fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『毒ガス戦と日本軍』吉見義明 その2 ――日本軍はどのように化学兵器を使ったか

 5 エスカレートする作戦

・1939年、陸軍は山西省において糜爛性ガス(イペリット、ルイサイト)の実験使用を行った。

 残存している命令からわかること……中国民間人への被害は努めて減らすという努力義務を科す一方、三国人(欧米人)に対しては絶対に被害を与えないよう徹底させられている。

・青酸ガス、イペリット、ルイサイトの人体実験……1939年春、陸軍奈良市の学校、陸軍科学研究所、関東軍化学部(チチハル)による毒ガスの人体実験が行われた。

 

・1940年8月、華北一帯で共産党八路軍が、これまでのゲリラ活動から一転して大規模攻勢を開始した(百団大戦という)。

 大きな被害を受けた日本軍は報復のため燼滅作戦を行った。焼き討ち、捕虜の殺害、兵役年齢男子の殺害が行われた。行き過ぎのために自粛を促す文書が残っている。

 

 ――これは、「燼滅」なので男女とも皆殺しにしてしまったが、これはやりすぎで、八路軍の情報を得ることができそうな男女は殺さないで生け捕りにすべきだ、という意味であろう。事実上皆殺し作戦が行われたことを認める大変な記録ということになる。

 

 このときに糜爛性ガスも使用された。

 

 対ソ戦に備えて、糜爛性ガスの人体実験も七三一部隊が行った。

 

・宜昌は長江中流域、重慶に近い都市であり、陸軍は一度占領したが兵力削減のため撤退予定だった。しかし、昭和天皇の「陸軍は宜昌をなんとかならないのか」という言葉もあり、再占領のために国民党軍との激戦となった。

 このときに日本軍はガスを大量使用した。青酸ガス、イペリット、ルイサイトを使ったという情報はすぐに世界中に伝えられた。

 

 

  ***

 6 毒ガスの生産

・陸軍:忠海兵器製造所で毒ガス製造した後、曾根兵器製造所にて砲弾・投下弾に填実した。

 海軍:相模海軍工廠化学実験部にて製造した。平塚施設は化学実験部となった。

 民間:日本曹達、保土谷化学が陸軍にホスゲンを、三菱化成が海軍に青酸を納入

・毒ガス弾の総量は、最大で陸軍200万発、海軍7万発である。放射筒は陸軍あか266万本、みどり228万本

・毒ガス生産はアメリカ、欧州諸国に比べるとみすぼらしいものだが、中国にとっては脅威だった。

三井財閥系、住友財閥系、三菱財閥系、古川財閥系、新興財閥とその他化学会社

 

 

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 7 抑制された毒ガス戦 東南アジア・太平洋戦線

真珠湾奇襲と同時に日本軍はマレー半島を攻撃した。

 イギリス連邦軍に対しては小規模ながら嘔吐性ガスを使用した。またシンガポール戦では青酸手投げびん(ちび)が使用された。

アメリカに対しては、現場が追い詰められて使用した例を除いては、正式な毒ガス攻撃は用いられなかった。このためアメリカも毒ガスの報復使用に踏み切ることができなかった。

 日本は毒ガス戦能力・毒ガス防護能力においてアメリカよりはるかに劣っていることを自覚していたため、1994年7月に毒ガス使用禁止令に踏み切った。

 なお、青酸手投げ弾を利用して、オーストラリア人捕虜を人体実験に供したことで、数名の将校が戦後絞首刑となっている。

 

 

  ***

 8 殲滅戦・殲滅戦下の毒ガス戦 中国戦線

・解放区での対パルチザン戦、毒ガス使用

 住民の室内に液体イペリットを塗布し罠をしかける

・国民党軍に対する毒ガス使用:

 1942年のせっかん作戦は、毒ガス戦と細菌戦を推進したため「とりわけ不名誉で特異な作戦」とされる。

 ペスト菌兵器の推進者は辻正信だった。

・常徳作戦、1944年の大陸打通作戦が、最後の毒ガス戦となった。

 国民党軍への毒ガス攻撃は、連合国間でも調査が進められた。日本は、連合国による毒ガス報復の可能性にさらされていた。

 

 

  ***

 9 アメリカの毒ガス戦計画と日本

 ルーズヴェルトは毒ガスを非人道兵器ととらえており、日本がアメリカに使用すれば報復すると宣言した。言い換えれば、先制使用はしないと声明を発した。

 しかし1945年4月に後を継いだトゥルーマンが同じ考えであるかはわからなかった。

 3月の硫黄島、4月の沖縄は、米軍に甚大な被害を与えたため、早期終結と人命保護の観点から毒ガスおよび原爆使用が検討された。

 

 ――スチムソン陸軍長官をはじめとする文官たちが原爆の投下をためらわなかったのと比較すれば、軍人たちは非戦闘員、とくに女性や子供を無差別に殺す兵器の無警告の使用にはある程度のためらいをみせている。

 

・ダウンフォール作戦……オリンピック作戦(宮崎平野志布志湾)とコロネット作戦(房総半島と相模湾)における大規模毒ガス投下計画

 毒ガス先制使用はほぼ確実に予定されていたという。

・日本の毒ガス戦能力……備蓄は米軍に遠く及ばず、防護装備は不足していた。

 

・日本の降伏について……

 本土決戦の前提は後方の安定(ソ連の中立)だったためそれが崩れた。

 原爆後も大本営天皇は抗戦を主張していた。決定要因はソ連参戦である。

 ソ連の占領による日本降伏は、アメリカからみて承服できるものではなかった。

 

・毒ガス使用と人種主義について。

 

 ――……日本軍は中国人に対する蔑視感から毒ガス使用に罪悪感を持たなかったが、アメリカ軍は毒ガス使用で生じるであろう日本人の被害や人命喪失の問題に罪悪感を抱かなかった。これは、毒ガス戦を可能にする背景にある人種偏見の問題と、その克服の努力の重要性を改めて感じさせる事態であろう。

 

 

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 10 敗戦・免責・投棄

生物兵器研究部門は、米軍への情報提供を見返りに免責された。

・毒ガス兵器部門や、毒ガス使用は、当初戦争犯罪として告発されようとしていた。しかし、陸軍上層部やアイゼンハワー参謀総長の政治的配慮により不問となった。

 

 ――……日本に対するこのような訴追が追及されるなら将来における我々の行動の自由が拘束されるというゆゆしい危険が存在することになる(マーシャル大佐)

 

 ――つまり、日本軍の毒ガス使用を追及すれば、毒ガスの使用は国際法上疑問の余地がないほど完全に違法化されることになるが、それはアメリカ自身の手を縛ることになり、米ソ対立が激化しつつある現在、毒ガス戦というアメリカがソ連に対して持っている優位を自ら失うことになるというのである。

 

・戦後、毒ガス廃棄・投棄の過程で、多数の作業員が被毒する事故が発生している。また、海中遺棄したガス弾や、埋めたガス弾、バレルが発掘され、住民や作業員に被害を起こす事故が断続的に発生している。

 

 

 2000年には中国東北部でガス弾が発掘され、住民多数が死傷した。日本政府は中国の申し入れに応じ、投棄毒ガス兵器の撤去と除去を開始した。

 中国にはまだ大量の毒ガスが遺棄されており、都市化、開発のなかで被害が拡大するおそれがある。

 こうした後処理や補償問題は今も継続中である。

 

毒ガス戦と日本軍

毒ガス戦と日本軍

  • 作者:吉見 義明
  • 発売日: 2004/07/28
  • メディア: 単行本
 

 

『毒ガス戦と日本軍』吉見義明 その1 ――日本軍はどのように化学兵器を使ったか

 ◆所感
 日本における毒ガス兵器開発の経緯から実際の使用までを包括的に説明する本。おそらくこれ以上に詳しい日本語の一般書はないのではないか。

 毒ガスは第2次大戦時に既に非人道的兵器、国際法違反であるという認識が広まりつつあったが、総力戦のなかで各国は使用の機会をうかがっていた。

 日本は、中国に対しては躊躇なく使用し、自分たちを超える能力を持つ欧米に対しては使用を慎んだ。一方、米国も当初は抑制していたものの、やがて先制使用論が支配的となる。

 毒ガス使用だけでなく人体実験についても言及があり、大変参考になる。

 

 この本は防〇省の法務関係部署で購入されていた。中国の遺棄化学兵器問題に関する業務のためである。

 

 

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 1 第1次世界大戦の衝撃

・第1次大戦において、初めて毒ガス兵器が使用された。日本もこれに倣い、毒ガス研究委員会を設置し、開発を始めた。

・1918年からのシベリア出兵では、パルチザンに対する催涙ガス使用が具申されたものの、国際的信用にかかわるとして却下された。

・毒ガスはその発明以来、常に国際会議において規制の対象となってきた。

 

 ハーグ宣言と条約では、毒ガス弾の使用を禁じる。しかし、「総加入条項」により、批准しない国が1国でもあればこの禁止は適用されない。

 ヴェルサイユ平和条約……毒ガス兵器の禁止。

 ジュネーブ議定書……毒ガス兵器の禁止。日本はアメリカと歩調を合わせるために、この議定書には1975年まで批准しなかった。

 

・1925年の宇垣軍縮により、軍の近代化が行われた。このとき、毒ガス兵器の制式化となった。

 

 毒ガス兵器内訳:

 みどり一号・二号(催涙ガス

 あを一号(ホスゲン、窒息性ガス)

 しろ一号(三塩化砒素、発煙材)

 あか一号(ジフェニールシアンアルシン、嘔吐性)

 きい一号(甲乙丙)、二号(イペリット、ルイサイト、糜爛性)

 ちゃ一号(青酸・シアン化水素、血液中毒性)

 

・当時ドイツが開発していた神経ガスのタブン、サリンは、日本には情報提供されず、存在すら知られていなかった。

忠海兵器製造所……大久野島の毒ガス製造工場

 設備:フランス式イペリット製造装置

    クロロアセトフェノン製造装置

    ルイサイト・青酸製造設備

    ドイツ式イペリット製造装置

    ジフェニールシアンアルシン製造装置

 

・海軍も陸軍に続いて毒ガス研究開発に着手した。主に、法服用兵器、毒ガス防護に重点が置かれた。

・1930年、台湾原住民の反乱である霧社事件に際しては、台湾軍(台湾駐屯軍)は催涙ガス弾が使用され、また青酸投下弾も使用された。台湾は、化学・生物兵器の実験場となった。

 

 

  ***

 2 満州事変と毒ガス問題

満州事変当時、関東軍は毒ガス使用を意見具申したが中央に却下された。一方、海軍は1932年第1次上海事変から、積極的に催涙ガスを使用していた。

 

 ――この時期には、陸軍省は、中国とはともかく、欧米とは国際協調を重視すべきことを強く意識しており、催涙ガスを含む毒ガスを戦闘で使用することは国際法に違反すると明確に認識していた。

 

 当初は、国際的信用の面から毒ガス使用に消極的だったが、1936年の二・二六事件以降は様子が変わった。

 

 ――……日本陸軍の毒ガス使用問題に関する姿勢・判断は、あまりに状況的であったということであろう。満州事変開始直後には、1920年代の国際協調的な立場がまだ維持されていたが、1932年以降の皇道派支配の下でそれからの離脱がはじまる。そして、1936年の二・二六事件後の陸軍統制派支配の下で、国際条約・国際協調から本格的に逸脱していくのである。

 

ジュネーブ一般軍縮会議において、日本は毒ガスの使用禁止を声高に主張していた。その後の日本軍の行動はこの主張と完全に矛盾するものとなった。

・対ソ戦に向けて毒ガス戦の準備が行われた。

 

 1933年:

 陸軍造兵廠火工廠曾根派出所(毒ガス弾の充填)

 陸軍習志野学校設置(毒ガス戦訓練・教育、出張による化学戦教育、運用演習)

 関東軍にて人体実験開始

 

 1934年:

 習志野学校、関東軍等の計画により毒ガス演習開始

二・二六事件では、宮城付近を傷つけないよう催涙ガス使用が検討されたが、その前に全員が投降した。

 

 

  ***

 3 日中戦争の全面化と本格的使用の開始

 1937年7月7日、盧溝橋事件をきっかけに近衛内閣は国民政府を膺懲するとして2個師団を派遣し、日中戦争がはじまった。

 陸軍は多数の毒ガス部隊を派遣したが、「その目的は、実験的使用を行い、来るべき本格的な現代戦、つまり対ソ戦のための実戦経験を積むことであった」。

 

・部隊……11月、中支那派遣軍松井石根大将)の下に上海派遣軍、第10軍を編入

・上海攻略に84日間かかり、死傷者が4万人に達したため、日本軍は南京を毒ガス……イペリットで徹底的に攻撃しようと考えていた。これは中央により却下されたが、現地の強引な作戦指導を表すものである。

・野戦化学実験部は、国民政府軍の対毒ガス能力を調査した。

・徐州会戦、安慶作戦、山西省において「あか」と「みどり」が使用され、威力を発揮した。国際問題に発展するのを防ぐため、筒や弾頭は土中に埋められ、また戦闘不能の中国兵はすべて殺害された。

・1938年8月、仮の首都である武漢攻略の際には全面的に催涙ガス、嘔吐ガスを使用した。

 嘔吐ガスと組み合わせることで、発煙筒が敵を委縮させ撤退させる効果を生んだ。

・予備役・後備役からなる師団は、足手まとい扱いされていたという。

 

 ――武漢作戦・広東作戦は、10月末の武漢・広州占領で終了した。しかし、戦争は終わらなかった。戦争終結の見通しを失った近衛内閣は総辞職する。以後、国力の限界から、日本軍は積極的侵攻作戦をやめて、占領地の確保に専念せざるをえなくなる。こうして、日中戦争は、どちらの側がより長く持ちこたえることができるかを競う、無期限の持久戦に突入していった。

 

 

  ***

 4 恒常化する毒ガス戦

 重慶を拠点に国民党は健在だった。また、華北では八路軍が、華中では新四軍が農村地域を支配し共産党による「解放区」を設置した。

 このため華中・華北での抗日パルチザン討伐、警備活動において催涙ガス「みどり」、嘔吐ガス「あか」が利用された。

 南昌攻略のための渡河作戦において、日本軍は大規模なガス筒、ガス弾の使用に踏み切った。困難な作戦や、堅牢な陣地、城を攻略する際に、以降、ガスが使われることになる。

 続く1939年9月のカンショウ会戦の毒ガス使用の模様は日本の報道各社に撮影され、毒ガス使用の有無を巡って、若干の騒動をひきおこした。

 

  ***

 [つづく]

 

毒ガス戦と日本軍

毒ガス戦と日本軍

  • 作者:吉見 義明
  • 発売日: 2004/07/28
  • メディア: 単行本
 

 

音楽オモチャで遊ぶ ――FL Studio

 最近、所用で時間をとられているので制作した音楽を記事にすることにした。

 FL Studioという作成ソフトで簡単に音楽をつくることができる。

 

 これらの素人音楽はわたしの素人ゲームに採用されている。

 

 


[HQ] ENSEI / ambient techno music for a junk game

『ロシア秘密警察の歴史』リチャード・ディーコン その3 ――秘密警察は人類最古のシステムの1つ

 16 リヒャルト・ゾルゲ

 ゾルゲは近代でもっとも優秀なスパイの1人とされる。かれはGRU(赤軍参謀本部情報総局)職員となり主に極東で活躍した。

 

・日本がイギリスの手薄な地点、シンガポールなどを攻撃することを予想

・ドイツ大使館にドイツ人として潜伏し、大量の軍事情報を収集

・ドイツのポーランド侵攻計画を報告

・日本にはソ連侵攻計画はないことを確認

 

 ゾルゲとともに、その協力者である尾崎も優れたスパイと評価される。

 

 

 17 トロツキー暗殺とルーシー・ネットワーク

 スターリントロツキーの暗殺を強く指示した。ベリヤは部下を使い、死に物狂いで暗殺を遂行させた。かれは下手人の家族を人質にとり、必ずトロツキーを殺すよう命令した。

 1940年、トロツキー工作員メルカデルに刺されて死んだ。

 

 スイスのスパイ網……ドイツの電撃戦によりヨーロッパのソ連スパイ網は崩壊してしまった。ソ連は、スイスを拠点に工作員の浸透を試みた。

 

 コードネーム「ルーシー」ことドイツ人ルドルフ・リスラーの構築したスパイ網は、ドイツ軍事情報をイギリスとソ連に提供した。かれの正確な情報と分析は、独ソ戦に多大な貢献を果たした。

 本書では、ラインハルト・ゲーレン(ドイツ陸軍及び西ドイツの情報将校、初代BND設立者)の回顧録にも言及しつつ、ドイツ側の協力者がマルティン・ボルマンだったのではないか、と推測している。

 

 

 18 原爆スパイ

 ソ連情報機関は各国共産党を信用していなかった。アメリカにおけるスパイ網組織化は、リディア・スタールによって行われた。

 

 ソ連の目的は原子力技術の獲得だった。

 アメリカの高官たち……ハロルド・ウェア、フランク・コー、ローチリン・カーリー、ローレンス・ダガン、アルジャー・ヒス、ハリー・デクスター・ホワイト、ネイサン・シルヴァーマスター等がソ連のスパイとなった。

 

 ――アメリカほどロシアの徹底的な破壊的浸透を受けた国は他に見当たらない。ルーズヴェルトの時代、そしてそれ以前にもきわめて多数の有力なソ連スパイがアメリカで活動していた。

 

 原爆をめぐるスパイ活動は成功し、ソ連は数年のうちに原爆を保有することができた。

 

 

 19 ナチを出し抜いたスヴェトロフ

 NKVD以降の組織変遷……NKVDとNKGB(国家保安人民委員部)→MVD(内務省)とMGB(国家保安省)へ

 ドイツ軍情報部は、テヘランでの連合国首脳暗殺計画を企画したが、ソ連スパイのスヴェトロフにより阻止された。もっともこのエピソードの信ぴょう性には疑いがあるという。

 

 

 20 反NATOスパイ

 1945年には、古参の工作員……元チェーカーやGPU出身者はほぼ粛清され、スターリン派で固められていた。

 

 東欧にはソ連スパイが浸透し、政府を操作し、暗殺や工作に従事した。

 イタリア、ベルリン、ウィーンなどで東西のスパイ合戦が激化した。ソ連は、西側がドイツを復活させ、ソ連にけしかけるのではないかと疑っていた。

 スターリンの死はソ連内部を一変させた。ベリヤが跡を継いで君臨しようとしたが、かれは赤軍から恨まれており、またマレンコフの軍への影響力を軽視していた。

 

 ベリヤは同僚たちに逮捕されすぐに処刑された。

 

 1954年、ベリヤ排除とともに国家保安委員会すなわちKGBが誕生した。

 1958年以降、シュレーピン長官のもと、KGB及びスパイのイメージ向上政策が図られた。

 また、ベリヤの処刑後に恐怖心から亡命する者が続出したため、組織は昔より穏健になった。

 

 

 21 ブレイクとアベル

 ソ連が雇った優秀なスパイについて。

 協力者の獲得方法……職場での不満、秘密にしている同性愛癖、借金など。

 

 アベルは『ブリッジ・オブ・スパイ』でも取り上げられたアメリカ在住のスパイ・マスターである。

 

 

 22 長官アンドロポフとコノン・モロディ

 ベリヤ死後、KGBの長官には行政職の党員を採用し、党によるコントロールが図られていた。しかし、フルシチョフを失脚させたのはかれに不満を持つKGBの有力勢力だった(ペンコフスキー大佐事件)。

 以後、KGBはしだいに政策決定に参加しはじめる。

 

 ――現在、KGBソ連の権力構造において少なくとも軍部と同等の勢力を持っていると思われる。KGBは単なる諜報活動とテロの道具から、より高度な組織に格上げされ、独自の謎めいた雰囲気をもち、党中央委員会の外で隠然たる独自の政治的影響力をもつ存在に変貌したのだ。

 

 ブレジネフ政権下、アンドロポフが長官となり、KGB改革を進めた。

 

・第1総局:外国情報収集分析

・第2総局:破壊活動、経済スパイ、サボタージュ、反逆、通常警察業務

・第3総局:「スメルシュ(スパイに死を)」の後継、処刑・暗殺、防諜

・第7局:外国人

・第8局:暗号解読、通信、組織防衛

・第9局:ソ連指導者警護

国境警備隊

 

 

 23 KGBの対フランス、アフリカ、アジア作戦

 各国におけるソ連のスパイ活動について、細かい説明がある。

 KGBは無線通信に力を入れたため、技術においては西側を一時期凌駕した。

 KGBの最大任務は、国内治安の維持である。

 ド・ゴール政権への浸透を試みたKGBのハニートラップについて。

 

 アフリカでは、旧宗主国であるイギリスやフランス、また新興勢力である中国の勢力を削ぐために、ソ連スパイが投入された。

 KGBは中国に対抗するため台湾国民党と連絡を取り合い、また南米においてはカトリック教会を利用した。

 

 

 24 冷戦時の逆情報工作

 KGBにはソ連共産党幹部を監視する部門とともに、西側に虚偽情報や攪乱情報……「逆情報(Disinformation)」をながす部署がある。

 

 ――……それは奇妙な戦場であり、共産主義と反共産主義の間の理論上の争いではもはやない。ソ連でさえ今日、この種の争いが無駄であることを認めている。モスクワは、現在、理論闘争などは英国共産党のような、取るに足らぬ時代遅れの共産主義者にのみふさわしいと考えるまでにさばけているのである。

 

 国際機関への浸透、また報道機関への浸透が行われた。

 麻薬密売人と情報機関とのルートは一致していることが多い。諜報員が麻薬密売人を兼ねることも多い。

 

 

 25 西側の内通者と亡命者

・中東へのソ連スパイの浸透について

・英国、特にGCHQ(政府通信本部)がスパイに汚染された。

 

 

 26 国内治安を強化するKGB

 1980年代前半、アンドロポフがブレジネフの継いで共産党書記長となり、KGBの支配は強まった。KGB議長はフェドルチューク続いてチェブリコフがついた。

 KGBは世界最大の諜報機関であり、国内だけでも200万人以上の関係者を抱えていた。

 組織構造は複雑でありまた頻繁に改変された。

 

・第1総局……国外活動、殺人執行

・第2総局……国内保安、防諜、逆情報、

・第3総局……国境警備

 

 80年代後半になっても、ソ連は共産圏、西側諸国、教会、フリーメーソン、国際機関などあらゆる領域において工作を続けていた。

 

 

 終章 KGBにもペレストロイカの波

 本章は訳者木村明生によるものである。ゴルバチョフの主導するペレストロイカに伴い、KGBに対する改革圧力もまた強まった。

 新議長クリュチコフが送り込まれた。

 

 KGBはより開かれた組織になると声明を出したものの、当時のCIA副長官ロバート・ゲーツは、KGBの対外活動が強化されるだろうと予測した。

 その後確認された活動……通信傍受・解読、軍隊へのスパイ行為、スペツナズ要員による偵察、ネガティブキャンペーンギリシア、中米、フィリピンでの工作、盗聴器の設置。