水俣病の調査に取り組んだ医学者による本。水俣病発生の経緯から、行政、チッソとの交渉、公害認定と補償にいたるまでをたどる。
◆所感
チッソ、役所、御用学者、患者を差別する隣人等、人間の悲惨な光景が集約されたような事例である。
東大がチッソを擁護する工作に終始していたのに対し、著者の所属する熊本大学は水俣病解決に向けて尽力した。
企業の隠蔽体質や行政の不作為、御用学者の活用、税金を使った問題企業の救済など、現在とあまり変わらない醜悪な構造が詳しく書かれている。
この時代から、政府と企業の行動はほとんど変わっていないのである。併せて、患者や被害者を差別しいじめるわたしたちの習性も、変わらぬままである。
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1
水俣病は、電気化学工業会社であるチッソが、工場排水を水俣湾に流すことによって発生した。メチル水銀が港湾の魚や魚介類のなかで濃縮され、これらを食べた動物や人間に症状がみられるようになった。
環境の変化は、はじめ動物の様子に現れた。
・昭和28年から31年にかけての、漁獲量の大幅減少
・ネコが発狂、踊りだし、よだれを垂らし死亡する
・魚が浮いている
・カラスが海に墜落したり、岩に衝突したりする
・工場排水の流れる場所では、舟にフナ虫が寄り付かない
やがて、人間にも症状が出始めるようになった。
・運動麻痺
・言語障害
・知覚異常(手、足、口周辺がじんじんする)
・運動失調
・視力障害、視野狭小
・精神異常
・その他
患者は隔離病棟に移され、住民から差別された。患者の子供は店に行ってもお金を受け取ってもらえず、道端でも無視された。
住民の訴えを受けて、水俣市奇病対策委員会が設置され、著者の所属する熊本大学医学部でも研究チームが発足した。
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2
原因がチッソの工場排水と、周辺でとれる魚であることは、だれもが薄々感づいていた。しかし行政は、原因がはっきりしない以上漁獲を禁止できないとし、またチッソも因果関係を認めず、排水をやめようとしなかった。
そこで熊本大学チームは、原因物質の特定を急いだ。
チッソは、自分たちの工場の製造工程や使用物質を公にしようとしなかった。後年、会社は「医者がこれだけ苦労して原因を突き止めたのだから、会社には原因がわからなくて当然だ」と自分たちの対応を弁護した。
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3
英国の神経学者マッカルパインの水俣訪問により、症例が有機水銀中毒に酷似していることが明らかになった。
同時期、チッソの自社病院で研究していた細川院長は、工場排水がネコに中毒を引き起こすことを証明した。しかしこの報告は会社に握りつぶされ、細川院長は退職した。
チッソは県知事に対し、水俣病の原因は旧日本軍の遺棄した爆薬ではないかとして調査を申し入れ、攪乱をたくらんだ。
昭和34年、通産省の勧告に基づき、チッソは排水処理用サイクレーターを設置した。その顛末が次のとおり。
――当時、チッソに問い合わせたところ、チッソは、チッソの浄化槽は、社会的解決の手段としてつくられたもので、これは有機水銀の除去にはなにも役に立たないと回答した……ということはつまり、サイクレーターは実際の効果はないが、世論の手前つけたのだという意味であろう。このようなごまかしをチッソがやっていたことを、日本全国の人びとに知ってもらいたい。
チッソは、患者家庭互助会に対し、見舞金を受け取る条件として、「今後、原因がチッソであると判明しても、一切訴えをおこさないこと」を要求された。この和解案は行政によっても支持された。
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4
水俣病は汚染された魚介を摂取した当人だけでなく、胎盤を通じて子供にも発症することが確認された。
チッソは、熊本大学の研究を押しつぶすために画策して作った田宮委員会をひっそりと解散させた。他にも、東大の御用学者を雇い、原因について荒唐無稽な仮説を打ち出し因果関係を否定させようとしていた。
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5
昭和38年の三池炭鉱爆発について。
――労働災害による人間の破壊と公害におけるそれとは、その根本においては、まったく同じ資本(企業)の論理が存在する。
労災法による補償と、そのための症状の等級付は、あくまで人間を労働力の観点から計るものであり、必ずしもその人の人生を補うものではない。精神的な苦痛、家族や家庭の崩壊については、労災法の対象とはならない。
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6
新潟水俣病は、チッソに次ぐアセトアルデヒド生産企業である昭和電工の阿賀野川鹿瀬工場が引き起こした。
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7
昭和43年の政府の正式見解……
「熊本水俣病は、新日窒水俣工場のアセトアルデヒド酢酸設備内で生成されたメチル水銀化合物が原因であると断定し、新潟水俣病は、昭電鹿瀬工場のアセトアルデヒド製造工程中に副生されたメチル水銀化合物を含む排水が中毒発生の基盤をなしたと判断する」。
水俣病認定の過程では様々な問題が生じた。
・審査委員会が認定権を独占することになり、却下される例が相次いだ。
・発症時期を昭和28年から35年に限定したため、認定を受けられない患者がいた。
・死亡した患者の認定が困難だった。
・他の病気を併発した場合、当初、水俣病認定を却下されていた。
水俣病裁判では、チッソの過失を認めさせることに焦点を置いた。企業が、毒性のわからない物質をいくら垂れ流したとしても、「そのような毒性があるとは知らなかった」で通用するとすれば今後も同じ事象が再発するに違いないからである。
――工場廃棄物を放出するのは、いうまでもなく企業であり、一方、住民は、企業が工場で何をどのように生産しているのか、またどういう廃棄物を放出しているかを知るわけがないのだから、企業は、住民に対して安全確保の義務を一方的に負っているはずなのである。
チッソは新たな斡旋案を提示し、患者たちを一任派と反対派に分裂させた。
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8
水俣病被害認定基準をめぐる困難について。
――患者たちはこのチッソの支配する町のなかで、なるべく病気を隠そうとした。
――患者たちは、「チッソが傾けば水俣も傾く」という。しかし、この人たちは、いったいチッソからなにをしてもらったというのだろう。……江戸時代、百姓たちが年貢を取り立てられ、自分たちはおかゆをすすりながらも、「やはり殿様がいるから自分たちはこうして百姓がやっていける」といっていたのと、どれくらい差があるのだろうか。
――……当時認定された患者さんたちに対して、その妻は、「水俣病はよかねえ、寝とけば金がもらえる」などといやがらせを言って、よく、患者家族を泣かしたのである。かつて加害者であった人が、いま、逆に被害者となった。なんと悲しい、現代版いじわるばあさんの物語だろう。
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9
著者が現地で調査をおこなったところ、明らかに水俣病でありながら認定されていない住民、「隠れ水俣病」が大量にいた。
市は水俣病の認定に消極的であり、病院、保健所、市役所は、認定を受けようとする患者をたらいまわしにした。
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10
スウェーデンの雑誌記者が、チッソにインタビューした。その一部が週刊文春に掲載されたが……
――……水俣市、出水市では、その反響をおそれたチッソがその号を買い占めてしまった。しかし、市民会議がそのことを知りビラで暴露して、問題になった。
チッソのインタビューにおける発言は以下のとおり。
――「端的にいうなら、かれらは海に浮かんだ死んだ魚を食べたんですよ。が、そんなことを裁判にもちだすのはむつかしいですよ。一般の人に相手側について悪い印象を抱かせることになります。まるで動物ででもあるかのようにね。58年以後の病気の原因が、死んだ魚を食ったためなのか、水銀のためかわからんのですよ。58年以後に発病した人にかぎっていえば、それで補償金をもらえるなんて、ありがたく思ってもらいたいものです。云々」
――「彼らが貧乏でなかったらもっと補償金を得ることができたでしょう。日本では損害賠償は収入にあわせてはじき出されます。水俣の漁師は毎日の食事代をかせぐのがやっとだったんです。彼らの将来なんて、かなり限定されたものだったんですよ」
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医学は中立的であるべきだという既成概念があり、医者たちは水俣病という社会問題に深入りすることを敬遠してきた。
著者は、「医学の研究は直ちに社会的に生かされなくてはならない」と考える。
――医学の研究者の世界では、政治や社会運動と関わり合いを持つことを忌み嫌う人が多い。そのようなものと関わり合いを持つと、学問の純粋さが失われるかのように。しかしいったい学問の純粋さとはなんであろうか。