2 パートナーシップ
ドイツ敗戦時、かれらは資料を山中に埋めて身を潜め、機を見て米軍に投降した。
米軍と協議したゲーレンらは、ヨーロッパ駐留アメリカ軍総司令部参謀部軍事情報部USFET G2との協定を結ぶ。
内容:
現存勢力を利用し、ドイツ情報機関を設立する。
機関はアメリカ人と共同で働く。
機関はドイツ人の指導の下で働き、ドイツ政府が樹立するまで、米側の任務指令を受け入れる。
同機関は米側から資金提供を受け、あらゆる情報報告を米側に提出する。
アメリカとドイツの利益が競合する場合、ドイツ側の利益を第一に考えることを認められる。
このようにして、ゲーレン機関の活動が始まった。
・組織の整備、器材の調達、予算の確保
・バイエルン州ミュンヘン郊外プーラッハに拠点を置いた。保全の観点から、職員の家族全員を住まわせ、必要な商店や学校、施設も準備した。
・異なった国々が情報活動で協力する場合、信用のおける、頼りになる人物が極めて重要になる。
・資金難から、現地協力者や職員が去っていった。
・情報機関では、官僚化された組織、お役所主義は非効率と無駄につながる。組織全貌や権限は、外からは見えない方が望ましい。
・1949年ころから、西ドイツ首相アデナウアー、首相府局長グロプケとの親交が始まった。かれらは情報機関の重要性を理解していた。
かれらは、情報機関の意義が、共産党をのぞくすべての党に理解される必要があると感じていた。
・1950年、国内の治安維持のため憲法擁護庁BfVが設置された。しかし、初代長官オットー・ヨーンは後にKGBスパイであることが判明した。
・情報活動
情報収集部門からの情報の吸い上げ
等級C、B、Aといった情報の信頼度格付け
・ゲーレン機関は、ナチの残党、人権侵害組織だとして、一部ジャーナリズムから攻撃を受けた。その奥には、東ドイツ・ソ連の宣伝部門が隠れていた。
・東ドイツ国家安全保障局長(SSD)ウォルベーバーと、ゲーレン機関との戦いが詳しく書かれる。東ドイツは、ゲーレン機関を壊滅させることはできなかった。
勇気ある闘士が東ドイツの中枢で西側のために働き、摘発された者は処刑された。
スパイの世界では、金のために働くものより、信念のために働くものを信頼する。
スパイ網摘発作戦
職員の誘拐・浸透作戦
プロパガンダ合戦
・1955年、西ドイツは主権国家としてNATOに加入した。翌年、ゲーレン機関は西ドイツに移管され、連邦情報局(BND)が発足した。
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3 西ドイツのために
・スパイは世界最古の国家的職業の1つである。スパイのすべてが、賄賂や恐喝、麻薬によって動いているわけではない。かれは、スパイという仕事に着せられた負のイメージに反論する。
・スパイは政治的目的から誕生したのだろう。現在では、イギリス、次いでアメリカとイスラエルの諜報機関がもっとも優れている。
――イギリス人は官僚主義の弊害を最小限度に抑えると同時に、そのSISは、政府と議会の双方から高い信頼を勝ち得ている。最大限の慎重さをもって扱われ、機関の長の名前すら明らかにされないこともある。
・ゲーレンらの作成する情報ダイジェストは、当時の社会党政治家からも、中立的であるとして支持された。
・情報機関の最大の難点は、公共機関としての責任と権限の明確さを放棄しなければならない点にある。
組織は部外者に対して不透明であるべきである。
無数の小細胞を戦術単位として、柔軟に活動させるべきである。
NEED to KNOW
組織の各歯車が、相互に関連し、異常がすぐ察知できる体制であること。
政治的干渉から自由であること。政治的配慮によりトップがころころとすげかわるべきでないこと。
――要するに情報機関は上級の閣僚または首相から大筋の政治的指令は受けるべきだが、それから先の機関の専門的指令はただ機関の長官にのみ属することを認めねばならない。
・BNDと冷戦
冷戦におけるゲーレンらの情報収集活動についてエピソードを並べる。
国際共産主義運動の監視
ベルリン危機
U2墜落事件
ピッグス湾事件とキューバ危機
スパイの浸透、二重スパイの養成、スパイ摘発
中ソ紛争について
フェルフェ事件……BND本部で勤務していた事務官ハインツ・フェルフェが逮捕され、KGBのスパイであることが判明した。
「デア・シュピーゲル事件」……国防省の情報がリークされたとき、BNDが国防省を欺いたかのように報道された。
・ゲーレンは反共主義者であり、ベトナム戦争の価値を認める。しかし、その戦略……逐次投入は理解不能であると批判する。
米軍撤退後、南ベトナムが自立できる可能性については、完全に悲観的である。
――……力を大量かつ圧倒的に使う方が、のちの対ソ作戦でわれわれが試みたような漸進的エスカレーションより、常に、双方とも、犠牲は少なくてすむのである。
・アデナウアー政権、エアハルト政権後、キージンガーによる、社民党との連立内閣に至り、ゲーレンとBNDへの風当たりは強くなった。こうしてかれは引退した。
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4 西側世界の未来
ゲーレンのソ連に対する見方は以下のとおりである。
・イデオロギーの存在を無視する国際政治の見方は誤りである。
・ソ連のいう「平和共存」、「緊張緩和」は、攻撃的な方針であり、相手の油断を誘っているに過ぎない。
その他、文化、芸術、経済、スポーツ、すべてに「党派性」を持たせ、政治工作化するソ連の方針について説明する。
外交機関だけでなく、国際機関、教育機関もまたソ連の工作活動の拠点である。
ヨーロッパにおける共産主義勢力のターゲットは常にベルリンだった。ソ連は、ベルリンを東側に吸収しようと様々な策略をしかけてきた。
ゲーレンは、ベルリンこそ反共の砦であると主張し、西側諸国の団結を唱える。
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