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『諜報・工作』ラインハルト・ゲーレン その1 ――軍事情報業務について


 ◆所見
 ドイツ陸軍、のちゲーレン機関、BND(ドイツ連邦情報局)で情報機関の親玉として働いた軍人ラインハルト・ゲーレンの回顧録

 独ソ戦時の、参謀本部における勤務要領や、情報組織の整備、経験談など、興味深い話が多い。

 

 ベルリンは東西冷戦における前線であり、様々な情報戦が展開された。

 本書は、ベルリン閉鎖(1948)や壁の建設(1961)にまつわる経緯、東ドイツ国家保安省との戦いをくわしくたどる。

 

 著者の反共主義は筋金入りであり、ソ連が現実主義に基づいて動くようになった、という見方を否定する。ゲーレンの考えでは、ソ連との共存は不可能である。

 

 ヒトラーは、軍の諫言をまったく聴き入れず、犯罪行為によってドイツを崩壊と恥辱に導いたと結論付ける。一方で、打倒ソ連の信念から、独ソ戦自体は正当だったと主張する。

 ゲーレン機関は合衆国の下で働いていたため、かれの世界観は「冷戦屋」のものである。インドネシアや南米、中東における西側陣営の作戦を基本的には肯定している。

 回顧録であるため、自らの功績を列挙する箇所については冷静に読む必要がある。

 軍隊と同じく、情報機関には人間の道徳や倫理に反する点が必ず存在する。しかし、歴史上、こうした国家機構が不要になったためしはない。

 政治家が正しい判断を下すためには、情報機関の力が不可欠であるとゲーレンは考える。

 

  ***

 ラインハルト・ゲーレンは、1942年から陸軍参謀本部東方外国軍課での勤務を命ぜられ、情報の世界に入っていくことになった。

 東方外国軍課は、ソ連軍の動向に係る情報を収集・分析し、作戦部署やさらに上級の司令部に報告する部署である。

 総力戦の性質上、ゲーレンとその部下たちが取り扱う情報は、東部戦線の軍事情報にとどまらず、ソ連の経済・工業能力、政治家たちの権力闘争、市民の士気などにも及んだ。

 ゲーレンは、こうした情報活動の重要性と価値を強調し、回顧録の形で伝えようとした。

 

 かれは米軍へ投降した後、ソ連に関する情報の集積と、情報網を評価された。そして、大きな権限と自由を保ったまま、「ゲーレン機関」として米軍の下で働くことになった。

 ゲーレン機関は、西ドイツ政府発足後、1956年に米軍から移管され、ドイツの連邦情報局(BND)となった。ゲーレンは初代BND長官を務めた。

 

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 米軍への投降をめぐるプロローグ

・全編にわたって、反共主義ソ連脅威論が繰り返される。いわく、戦間期に、本当に危険だったのはドイツではなくソ連だったはずだ。

・米軍内では、ゲーレンら東方外国軍課職員の処遇をめぐって、個人的な好き嫌いに基づいた抗争・いやがらせが行われた。どの国の軍でも派閥争いがあることにゲーレンは気が付いた。

終戦直後、スターリンは「アンクル・ジョー」として米兵から親しまれていた。合衆国は、ソ連との協調が可能であるとまだ信じていた。

 ゲーレンたちは、共産主義の危険性や、ソ連情報の重要性について、理解ある米軍人を探さなければならなかった。

・米軍情報担当のサイバート准将、ボーカー大尉らの協力を得て、ゲーレンたちは米本土へ移送された。

・情報の経験がないものには驚きだが、身分証の偽造は、ごく当然に行われる行為である。

 

  ***

 1 東方外国軍課

・1942年、独ソ戦の中、ゲーレンは参謀本部東方外国軍課の課長となった。

 かれはヴィルヘルム・カナリス海軍大佐が率いる国防軍防衛部(アプヴェーア、防諜部)との協力体制を確立した。

 つまり、アプヴェーアと東方外国軍課、そして各部隊の情報部門、飛行偵察情報部門とが、お互いに速やかに情報共有ができる仕組みを整備した。

・一方、ナチ党情報機関とは、権限をめぐって常に対立していた。

 親衛隊情報部(SD)のヴァルター・シェレンベルクは賢い人物だったが、軍情報機関を形骸化させようと様々な工作を行った。

・情報活動は、伝統的な軍人たちには理解されなかった。ゲーレンは、当初5人しかいなかった課の編成を拡大し、60人規模の部署に発展させた。あわせて、情報部門の長に、将官が配置されるよう要望した。

 情報部門は、自分たちの分析結果をもって、軍の花形である作戦担当に箴言しなければならない。これは「悪魔の弁護士」の役割であり、相手が嫌がる悲観的予測であっても報告しなければならない。

 

・課の編成

 第1班:ヘレ少佐指揮、敵側情報ダイジェストの作成

 第2班:キューライン少佐指揮、敵情の長期的評価

 第3班:フォン・レンヌ指揮、ソ連専門家、ロシア語担当

 

参謀本部東方外国軍課の日課

 昼:前線軍団全部から情報データ・要約到着

 夕方まで:要約状況報告の作成

 2030:課内での報告資料検討会議

 2200:ハルダー参謀総長の総合作戦検討会議

 翌朝9時:状況評価会議

 翌朝10時:総合作戦会議

 正午:ヒトラーの「狼の巣窟」での大本営会議

 

 ――われわれの要約情報を戦争遂行にとって価値あるものにしたのは、何よりも仲間の勤勉さ、徹底ぶり、専門的知識、それにスピードだった。

 

・こうして作られた情報報告をヒトラーは疎ましくおもい、「こんな報告を書いた者を気違い病院へ送ってしまえ、と怒鳴ったという」。

・1942年、ゲーレンらの分析では、ソ連にはまだ多数の予備兵力が存在し、師団を新設して前線に送り込むことが可能だった。

スターリングラードの戦いに際して、参謀本部の助言をヒトラーは受け入れず、結果的に大敗北につながった。

 

 ――……われわれが相手とするソ連は、きわめて有能かつ巧妙な戦略的、政治的頭脳の持ち主であった。

 ――今や、ますます高度化してきたソ連の欺瞞戦術を見抜くのは容易な技ではなかった。

 

・ゲーレンは情報伝達のスピードアップを要求した。

 

・1943年4月、ヒトラーは「拠点(ツィタデレ)」作戦を発動した。課は、ソ連側が独軍攻撃の意図を既に察知していると警告したが、聞き入れられず、最終的に失敗した。

・ゲーレンは、マルティン・ボルマンがソ連のスパイであり、無電発信によりドイツの機密を伝達していたと主張する。

ヒトラーは軍事作戦に口出しし害を与えた。

・反共産主義イデオロギーを利用し、ロシア人を離反させ味方につけるべきだと参謀本部は考えた。しかしヒトラーは劣等人種ロシア人との協力を拒否し、占領地でも住民を離反させた。ドイツの占領政策・東方政策は失敗した。

 

 ――この第三帝国時代ほど、政治(それも誤った政治)の優位が強力に打ち出されたことはない。1941年には軍部首脳はヒトラーの命令に屈するほかなかった。

 

・ロシアをボリシェヴィキから解放するというウラソフ将軍の要望を利用し、軍は解放軍を設置しようとした。しかしヒトラーは認めず、ウラソフは飼殺しにされた。かれは終戦時にソ連に引き渡され処刑された。

 

ヒトラー暗殺計画に対するゲーレンの見解。

 

 ――反逆罪は、所詮、反逆罪である。だがこれは、国家の存亡がかかっているといったときにのみ、例外として、道徳的に正当化されるだろうし、それ以外に肯定できるようなケースは考えられない。……しかしながら、すでに連合軍側から無条件降伏をきびしく突きつけられていた以上、このクーデターが完全な意味で成功することは困難であったろう。

 

  ***

 [つづく]

 

諜報・工作―ラインハルト・ゲーレン回顧録 (1973年)

諜報・工作―ラインハルト・ゲーレン回顧録 (1973年)