うちゅうてきなとりで

The Cosmological Fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『The Bosnia List』Kenan Trebincevic その1 ――拷問殺人を行う隣人たち

 ◆所感

 子供時代にボスニア紛争を生き延びて、ニューヨーク市民となったボスニア人が書いた本。

 タイトルは、戦争を生き延びた著者が、故郷であるボスニアに戻ったらやりたいことをリスト化した作業に基づく。

 

 戦争は少年時代の著者に衝撃を与え、その傷は長く残った。

 ボスニアでは、サラエボや著者の出身ブルチコのように、多くの自治体で各民族の混住が進んでおり、それまでは特に抗争もなく生活していた様子がわかる。

 戦争をきっかけに、かれらは人が変わったようになり、子供だった著者に対しても容赦なく攻撃を行うようになった。

 

 

 内戦を引き起こしたのは政治指導者や民兵・マフィアたちである。しかし、本書で描かれているのは、「普通の人びと」が殺人や拷問、嫌がらせに取り組む姿である。

 戦闘員や職業犯罪者でない市民が、なぜこのような行為を平然とできるようになったのだろうか。

 ボスニア紛争においては、社会を成り立たせている基本的な制度――法律、行政、軍隊――が崩壊し、他民族迫害のためのツールとなった。

 

 わたしは、こうした異常事態でどうすれば良心を保持できるか考えてみた。

 周りの空気に流されないよう心がけるのはまだ簡単である。

 ボスニア紛争中に見られたように、地元のマフィアに従わなければ自分が殺害されるような状況に陥ったら、自分はどうするだろうか。 

 殺される危険を冒しても、例えば、敵対する外国人をかばえるだろうか。ただ殺されるといっても、指の骨を粉砕されたり、下半身をペンチでねじきられたりした後に殺されるという状況である。

 自宅の近くに大量の避難民が押し寄せてきて、話を聞くと外国人の虐殺から逃げてきたと判明したとき、「それは許せん」と激怒しないだろうか。

 わたしには脳内シミュレーションしかできないが、残念なことに上のような事態が実際に多数の人に降りかかったのである。

 

 いざとなると社会や組織、周りの人間は頼りにならず、悪い行いをするときの言い訳になる。最終的に行いを律することができるのは自分の信念だと考える。


  ***


 1

 著者が11歳のとき、1992年3月、ボスニアが独立を宣言し、間もなく内戦が始まった。

 そのときまで、ブルチコBrckoに住む著者とその家族は平穏に暮らしており、だれも戦争がやってくるとは信じていなかった。

 ブルチコは、クロアチア国境に接する町であり、ボスニア内のスルプスカ共和国セルビア人勢力が独立を主張した地域)を結ぶ位置にある要衝だった。

 

・著者は空手を習っており、コーチのペロPero(セルビア人)を尊敬していた。しかし内戦が始まると、コーチは著者と眼を合わせなくなった。かれは、週末兵士Weekend Soldierとして、サラエボSarajevoやクロアチアで敵を攻撃していたようだ。

・戦争が始まった直後、著者と近所の子供たちはユーゴ人民軍の倉庫に侵入し、装備品を盗んだ。学校にばれたが、ムスリムボシュニャク人)である著者だけが、校長から何度も尋問を受けた。

 ユーゴ人民軍がセルビア人勢力で占められ、ムスリム迫害に加担したとすれば、そのような軍から装備を盗むことは果たして悪いことなのだろうか?

・それまで民族融和と団結を説いていた学校の教師は、著者の頭に銃口を突きつけ射撃した。偶然、弾詰まりをおこしたため、著者は助かった。

セルビア人の子供たちはヴコヴァルVukovarから逃れてきた難民の前で、かれらを撃ち殺すごっこ遊びを行った。子供たちは著者の敵に回った。

ザグレブディナモZagreb DynamoベオグラードレッドスターBelgrade Red Starとのサッカー試合で、大規模な暴動が起こった。著者とその父親らは、ばかげた騒ぎだとおもったが、やがて町のセルビア人たちが、ムスリムに敵意をむき出しにするようになった。

 サッカー暴動を率いたのはセルビア人マフィアのアルカンArkanだった。

ja.wikipedia.org

 

 アルカンは、内戦が始まると準軍事組織の指揮官となり、ヴコヴァルや各地で無抵抗の市民を拷問・殺害した。

・町の名士だった著者の父親は、口座を凍結された。

 父のオフィスであるスポーツ会館は、ムスリムを拷問し、首を斬り落とす屠殺場となっていた。屍体はバスケットボールコートに積み上げられ、やがて冷凍トラックが回収に来た。

・いつの間にかセルビア人兵士が町を徘徊するようになり、外出は死に直結した。トラックが、手足を縛られた屍体を満載して、家の前を通っていった。

・かれらはある時からユーゴスラヴィア人、ボスニア人と名乗ることができなくなり、ムスリムであるために命を奪われるようになった。

 

 2

 合衆国に亡命し、一緒に生活していた父親が、死ぬ前にボスニアを訪問したいと言い出した。

 父親も著者自身も、20年以上経ってもなお、当時の隣人たちに対して強烈な殺意を抱くことがあった。

 ボスニア人の一部にとって、デイトン合意は不公平の産物である。合衆国は、ボスニア人たちが勝利を重ね、自分たちの土地を取り戻す前に、強制的に戦闘を停止させた。このため、永遠に故郷に帰れない人びとが発生した。

 現在、ボスニアヘルツェゴビナボスニア人中心の国家)はますます軍備を充実させている。一方、スルプスカ共和国セルビア人中心の国家)は44%以上の失業率に悩まされている。

 

 3

 内戦ぼっ発後、かれらは市内から逃げ出すこともできず、親戚の家や、略奪された自分の家を転々としていた。

 父親と兄は強制収容所に連れていかれたが、奇跡的に解放された。

 市内のただ1組のムスリム家族として、常に死と隣り合わせの生活を送った。父親と兄は、殺害される危険があったため、部屋のなかで息を潜めて過ごした。

 電力や水道は停止し、食糧が不足した。著者はまだ子供だったため、商店に買い出しに行かされたが、途中、民兵に殺されそうになった。また、店主は、「トルコ人に売るものはない」と著者を叩きだすことがあった。

 

・隣人からの嫌がらせ、隣の主婦、近所の子供

 主婦ペトラは、家具を奪って自分のものにした。

・空手仲間や、近所の友達は、著者に唾を吐き、出ていけと罵った。当初、一家を自宅のアパートから追い立てたのは空手コーチのペロだった。

・収容所を仕切っていた巨漢の男……父親は、経営者としてこの巨漢の男を雇っていた。この男は、収容所でレイプや拷問を行ったが、著者の父親と兄の身の安全を保障した。

・国境のブルチコでは、クロアチア勢力、セルビア人、ボスニア人が戦闘を続けていた。セルビア民兵が死ぬたびに、父親と子供たちは、神はしっかりと見ている、と喜んだ。

 かれらに嫌がらせをした民兵が、ボスニア人兵によって惨殺されたときも、一家は留飲を下げた。

 民兵には、チェトニク、略奪専門の集団など、多様性がある。

ボスニア独立を問う国民投票の際、ムスリム政党に投票した人間は、殺害の対象となった。投票リストが流出したため、かれらはセルビア人に捕えられ殺された。

 

 4

 本章では、アメリカで暮らす著者とその家族が故郷を訪れたときの様子が描かれる。

 著者と兄は、父親を連れてクロアチア首都ザグレブから故郷に向かった。

セルビア人の失業率の高さは、よくかれらのジョークの対象になった。セルビア人たちは、大セルビアを目指し他民族を攻撃してきたが、今日、かれらはますます縮小している。

・いまだに強烈な憎悪をかきたてられるため、かつて自分を裏切った友人たちに会ったとき、自身を制御できるかが心配だった。

 

・積極的に嫌がらせを行った隣人のペトラは、いまはみじめな老婆になっていた。

 著者とその兄の姿をみかけると、老婆は息をのみ、眼をそむけてこそこそと逃げようとした。

 著者は、老婆の持っていたトマト袋をはたき落そうとしたが思いとどまり、最後に「だれも忘れてないぞ」と吐き捨てた。

 

 5

 ベオグラードからやってきた民兵夫婦、ボバンBobanとダーチャDacaと家族との交流について。

 あるとき、ウージーUZIを持ったセルビア民兵の夫婦が、著者の自宅にやってきた。

 男は、自分がアルカンの虎(民兵組織)に所属していることを自慢し、西ボスニアでたくさんのムスリムを殺してきたと豪語した。女のほうは、著者の母親と親しくなり、いっしょにコーヒーを飲んだ。

 セルビア人の女は頻繁に家を訪問して、シャンデリアや家具がほしい、といって穏やかに物をもらっていった。女は著者にお菓子を買い与え、また自分の貸家に招いて、サブマシンガンを触らせた。

 家族は、この夫婦は単なる泥棒に過ぎないのではないかと疑った。男はまったく身なりが汚れておらず、戦闘に参加しているようにはおもえなかった。

 おそらく、人殺しさえできず、安全に物品を奪いにきただけではないだろうか。

 父親は、自分のシャンデリアを天井からはずすときに、あの女の首を肩からねじりとってやりたい、と毒を吐いた。父親は、それまでには口にしないような罵詈雑言を吐くようになっていた。

 

 6

 2011年、著者と兄エルジン、父ケーカは、故郷の町を訪問していた。

 著者の父は、第2次世界大戦のことを思い出していた。

ボスニア人たちの多くはドイツ軍を歓迎した。ドイツ軍はセルビア民兵を排除したからである。そのときはホロコーストの情報は届いていなかった。

ボスニア人は、よりましな支配者を選ばなければならなかった。かれらは、武装SSハントシャール(ムスリム部隊)、共産パルチザンに分かれて戦った。

 ソ連兵はセルビアを支援しており、また風呂に入らず、粗暴だったため、嫌われていた。

 

 

 著者が訪問したセルビア人墓地には、かつての空手コーチ・ペロの墓があった。かれは戦争中に死んだが、死因は不明確だった。

 唾を吐き、小便をかけようとしたがやめた。最終的に自分は生き残り、裏切り者は死んだ、という勝利の感覚が湧いてきた。

 

・子供のときによく遊んだ土手で石を投げた。

ボスニア人墓地には、ボスニア人側で戦ったセルビア人も埋葬されていた。かれらは、真に尊敬に値する人物である。民族よりも、自分たちの信念・良心に従ったからである。

 [つづく]

 

The Bosnia List: A Memoir of War, Exile, and Return (English Edition)

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