うちゅうてきなとりで

The Cosmological Fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『Yugoslavia: Death of a Nation』Laura Silber その3

民族浄化

 民族浄化は、戦争の副産物ではなく、根幹をなした。

 6月にはマッケンジーや国連の尽力により、サラエボ空港が国連軍に引き渡された。

 サラエボにマスメディアの関心が集中している状態は、カラジッチやセルビア人勢力にとって好都合だった。

 1992年の夏を通じて、ボスニアの北西部、東部において、計画的な民族浄化が行われた。

 混住の進む都市部では、特定民族に対する嫌がらせ、解雇、車両運転禁止、焼き討ち等による追放が行われた。

 村や町ではムスリムの名士や有力者たちが処刑され、男性は収容所に入れられ、残虐な看守たちから暴行や拷問を受けた。

 

・ロンドン会議

 ジョン・メージャーJohn Major英首相の主催する国際会議では、ユーゴスラヴィアが非難され、経済制裁が強化されたものの、空爆や武力介入は回避された。

 会議においてミロシェヴィッチと、パニッチPanicセルビア首相、チョシッチCosicユーゴ大統領が仲違いし、2人はミロシェヴィッチによって排除された。

 

・スレブレニツァSrebrenicaの陥落

 1992年4月以降、スレブレニツァではムスリム人ナセル・オリッチNacer Oricの民兵セルビア人勢力を追い出し、数少ないムスリム人優位を保持していた。

 しかし、セルビア人勢力の増強によってスレブレニツァは降伏した。国連は、スレブレニツァを安全領域Safe Areaに指定したが、実態は、セルビア側の制圧と民族浄化を手助けしたに過ぎなかった。

 国連には、安全を確保する手段がなかった。1995年7月に、セルビア人はスレブレニツァの民族浄化を完了する。

 

・ヴァンス・オーウェン・プラン

 国連によって示されたこのプランは、ボスニアを民族ごと10のカントンに分ける案だった。クロアチア人勢力とボスニア人勢力は賛成したが、セルビア人勢力は、自分たちが占領した地域の大半を失うことになるため、反対した。

 一方、それまでボスニアセルビア人勢力を監督指導していたミロシェヴィッチは、これ以上の経済制裁を回避するため、カラジッチらに対しプランを受け入れるよう要求した。

 しかし、説得にも関わらず、カラジッチ、ムラジッチ、ビリャナ・プラヴシッチBiljana Plavsic(スルプスカ共和国副大統領)そしてクライシュニクは国会で提案を拒絶した。

 ミロシェヴィッチは自分の代理人proxyのコントロールを失った。

 ――「ある日、かれのおもちゃが勝手に動き出した」

 

 ヴァンス・オーウェン・プランはボスニアセルビア人によって拒否され、続いてセルビアクロアチア主導のボスニア3分割案が提起された。

 

ムスリムクロアチア紛争

 1993年11月、ネレトヴァNeretva河畔の町モスタルMostarの橋が崩壊した。

 ボシュニャク人とクロアチア人の同盟関係は表面的なもので、ボスニア紛争間もなく、両勢力の戦闘と追放・虐殺行為が始まった。クロアチア人とセルビア人は、お互いに前線で接することなく、ボスニアの領土を切り取ろうとたくらんだ。

 ムスリムクロアチアの対立は、クロアチア紛争時から始まっていた。トゥジマンはボスニアの主権を認めず、クロアチア人地域を併合しようと考えていた。

 ヘルツェゴヴィナ地方のクロアチア人は伝統的に過激な民族主義者が多く、中部・北部のクロアチア人は他民族社会に対し理解があった。

 マテ・ボバンMate Bobanはヘルツェグ・ボスナ地域を設立した。

 1992年10月以降、プロソルでのマフィア対立をきっかけに、ボスニア軍(Army of Bosnia-Herzegovina)とクロアチア防衛評議会(HVO, Croatian defense council)との紛争が始まった。

 クロアチア人はかれらの土地から他民族の追い出しをはかった。

 トラヴニクTravnik、ヴィテスVitez、キセリャクKiseljakではクロアチア人による民族浄化が行われた。

 

 1993年春には、スレブレニツァの陥落と同時に、ムスリムの反撃が始まった。収容所生還者で作られた第3軍団や、厳格なムスリム集団である第7旅団が台頭した。かれらはサラエボモスタル、トゥズラTuzlaの三角地帯を拠点化し、ゼニツァZnicaではクロアチア人を排除した。

 3つの勢力が互いに追放・虐殺を行い、収容所を設置した。過激な部外者(民族主義者や、追放された難民)が共同体を恐慌状態に陥らせ、憎悪が拡大した。

 

セルビアクロアチア関係

 ミロシェヴィッチとトゥジマンは、常に連絡をとりあっていた。前線の兵士たちが殺しあう一方で、両首脳は、ボスニアの分割について協力しようとしていた。

 クロアチアにとって、強力なセルビアと組むことは有利である一方、従属的な立場に甘んじることでもあった。

 

サラエボ市場の虐殺

 1994年2月、サラエボのマルカレ市場に砲弾が落ち、60人以上が死亡した。攻撃者がだれかを特定するのは困難で、カラジッチは、「ボスニア勢力による自作自演だ」と批判した。

 しかし、サラエボ包囲によって既に1万人近くが死亡しており、特に合衆国はセルビア人への武力行使を主張した。

 UNPROFORのローズ将軍gen. roseの仲介により、サラエボでの砲撃が停止した。

 

・ワシントン合意

 同月、合衆国チャールズ・レドマンCharles Redmanの仲介により、クロアチアボスニアが同盟を結んだ。クロアチアは、ボスニアクロアチア人が収容所を作り迫害を行っていることについて欧米から非難を受けており、道徳的な支持を失う恐れがあった。

 トゥジマンは、このまま「侵略者」セルビアと同類になるよりも、ボスニア分割併合をあきらめる代わりに、クロアチア本国の国際的承認を受けるほうを選んだ。

 ボスニアクロアチア人は、トゥジマンから、以前とは正反対の指示を受けた。すなわちボスニア人を殺戮するのではなく、ボスニア人と協力せよと命じられた。

 

・ゴラジュデGorazdeの戦い

 スレブレニツァ、ジェパzepa等とともに東部の包囲地の1つだったゴラジュデにおいて、セルビア人勢力が大規模攻撃を開始した。

 1994年4月、国連の承認によりNATO空爆を行ったが、小規模であり効果は薄かった。空爆を主張する合衆国と、地上軍を置いている英仏の間には意見の不一致があった。また、ゴラジュデ攻撃はカラジッチとベオグラード、ロシアとの分裂を決定づけた。

 

セルビア人の分裂

 米英仏独露からなる交渉グループ(the Contact Group)は、新和平案を携えて当事国と接触した。スルプスカ共和国は、この案ではセルビアが手に入れた地域を手放すことになるとして反対した。

 ミロシェヴィッチモンテネグロ大統領も、カラジッチらの強硬意見の巻き添えを食って経済制裁を続けられるのはこりごりだった。ミロシェヴィッチは、カラジッチらを批判し、統一セルビア人国家を否定した。

 

 5 ゲームの終わりThe Endgame

・勢力図の変化

 セルビア勢力の分裂とクロアチアの台頭は戦況を変えた。1995年7月のスレブレニツァ虐殺を境に、欧米は完全にセルビア勢力を敵と認定した。

 一方、クロアチアは夏に「嵐作戦」を開始した。クライナ・セルビア共和国の戦力は完全に崩壊し、町が次々とクロアチア軍に奪取された。西側諸国はクロアチアの攻勢に目をつぶったため、大規模なセルビア人の避難が生まれ、その過程で数百人が殺害された。

 マルティッチ大統領や、バビッチ等のセルビア地域勢力首脳はどこかへ逃亡した。

 8月にはクライナが陥落し、ボスニアセルビア人勢力も同じ運命を辿ることが予想された。

 

パクス・アメリカーナPax Americana

 ミロシェヴィッチ、トゥジマン、イゼトベゴビッチらは、オハイオ州デイトンのライト・パターソン空軍基地Wright-Pattersonに集まり、和平案について話し合った。このとき、合衆国の働きかけによりサラエボ砲撃は中止した。

 国務長官ウォーレン・クリストファーWarren Christopherとその補佐官リチャード・ホルブルックRichard Holbrookeが仲介を務めた。

 旧知の仲であるミロシェヴィッチとトゥジマンはすぐに意気投合した。ボスニア外相シライジッチSilajdzicに対しても、ミロシェヴィッチは譲歩し、サラエボを譲った。かれはサラエボムスリムに渡すことでカラジッチの権力基盤を崩そうとしたのだった。

 ミロシェヴィッチは実際に接するとユーモアがあり魅力的な人物だった。かれはシライジッチに、「きみはサラエボにおいてトンネルを使い狐のように出入りした。一方、臆病者たち(カラジッチら)は丘の上からきみを殺そうとした」と言い、ボスニア側の奮闘を認める発言をした。

 かれは、セルビア経済制裁を解除するために和平に乗り気だった。

 イゼトベゴビッチの強硬な主張により、北東部のブルチコBrckoが共同の行政区画となった。

 和平案の成立に際し、ユーゴスラヴィア崩壊の張本人であるミロシェヴィッチは、まるで自分のしたことを忘れたかのように楽天的だったという。

 クロアチアとトゥジマンの勝利は、軍事力の勝利を象徴していた。合衆国は、武力と外交の併用が、紛争解決に効果を発揮したことを痛感した。

 

・結論

 平和は、民族浄化を通して達成された。追放と虐殺によって、各勢力の領土が明確化され、和平案がそれを固定化したからである。

 セルビア人、クロアチア人、ボスニア人は教訓を学んだ。

 

 ――冷戦後の世界においては集団安全保障は機能せず、また強者から弱者を守る意思も欠如している。自由と安全を手に入れるためには議論や理屈は不要であり、ただ大規模な兵力だけが重要である。ユーゴスラヴィアにおいては、小リアは正義ではなく強者に味方するだろう。

 

Yugoslavia: Death of a Nation

Yugoslavia: Death of a Nation

  • 作者: Laura Silber,Allan Little
  • 出版社/メーカー: Penguin Books
  • 発売日: 1997/01/01
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