3 赤軍の攻勢、緩衝国家の樹立
イギリス:チャーチル戦争相はデニーキンに肩入れしたが、デニーキン軍がモスクワ総攻撃に失敗するとイギリス軍は撤兵を開始した。
干渉戦争の発端となったチェコ軍団は、チェコスロヴァキア成立後も英仏の駒として使われ、内戦に巻き込まれていた。しかしチェコ軍団は反旗を翻し、コルチャークをイルクーツクのソヴィエト政権に引き渡した。軍団はその後ソ連と休戦し、1920年9月に帰還した。
アメリカも撤兵を進めるなか、日本は権益確保のために1920年1月、さらに半個師団(5千人程度)の増派を決定する。一方、議会では将来的な撤兵を考えていると答弁した(原首相と田中陸相)。
――原内閣は……沿海州ならびに中東鉄道沿線に軍を駐留し続けることを、3月2日に正式に閣議決定した。これらの地域に「過激派」の影響が及ぶのは、「自衛上黙認し難き」という理由である。日本が自衛したいのは「帝国と一衣帯水」のウラジオストク、「接壌地」の朝鮮、北満州である。
日本軍は中立を命じられていたが、1920年2月、3月にかけてウラジオストク、ハバロフスク、ハルビンに次々と革命政権が樹立した。
ところが4月に大井成元率いるウラジオ派遣軍は沿海州を武力制圧し、沿海州臨時政府と停戦協定を結んだ。
南ロシア軍やポーランドとの戦争に苦しんでいたレーニンは、日本との対決を避けるため、ザバイカル州に、緩衝国家として極東共和国を樹立した。7月、原内閣はセミョーノフへの支援を打ち切りザバイカルからの撤退を決定した。
ポーランドと共闘したウランゲリの白軍は1920年秋には支援を失って敗北し、ウランゲリは亡命した。セミョーノフは極東共和国の攻撃により3日で拠点チタを失い、満州を経由し沿海州に逃亡した。
セミョーノフは1945年に大連で逮捕され処刑された。
4 北サハリン、間島への新たな派兵
日本は撤退を進める一方、北サハリンに出兵するという不可解な行動を行った。
1920年1月、アムール河口の金鉱・漁業拠点であるニコラエフスク(尼港)を、トリャピーツィン率いる4千名のパルチザンが包囲した。
白軍やロシア人がパルチザンに処刑されるのをみて、日本軍は武器の引き渡しを拒否、3月に戦闘が発生した。
しかし、日本軍が航行を妨害していると考えていた中国艦隊、また多数居住していた朝鮮人もパルチザンに味方したため、日本人は全滅した。
――尼港事件は、現地の日本軍が、パルチザンのみならず、周辺の諸民族を敵に回したなかで起きた惨劇であった。それだけに、事件は日本の国際的な孤立を際立たせていた。
国内では尼港虐殺への怒りが盛り上がり、また北洋漁業権益者による世論の操作も行われた。与謝野晶子や憲政会の加藤高明、石橋湛山は報復政策に反対したが、原内閣はサハリン州派遣軍による占領を決定した。
元々日本には北サハリンの石油資源に対する野心があり、この事件を機に保障占領しようと考えたのだった。
北サハリンでの軍政が始まり、さらに北のカムチャッカ半島に対しても、漁民保護のため艦船派遣を始めた。
山縣はシベリアからの撤退を提案するが原は拒否した。原はウラジオストク権益の重要性を主張した。
――……ウラジオストクに日本軍が駐留していればこそ、ロシアの過激主義者と朝鮮人運動家が結びつくようなことを防ぐことができる。
1920年秋、日本は中朝露国境の間島(かんとう)地方に軍を派遣していた。これは、朝鮮人運動を鎮圧するためである。
日本軍は400名弱を射殺したが、間島地方での討伐は中国の非難をあびた。日本は、中国政府ではなく満州軍閥の張作霖と協調する方針をとっていたため意に介さなかった。
5 沿海州からの撤兵
世間では出兵への非難が強まるが、原は権益保護、自衛、過激派からの防衛を理由に決心しなかった。
1921年11月、原は尼港事件を恨む中岡昆一に東京駅で刺殺された。間もなく裕仁が摂政に就任、翌年山縣は病死した。
ワシントン会議で日本は撤兵の圧力にさらされた。高橋内閣に続く首相加藤友三郎は無条件での撤兵に合意した。加藤は撤兵と軍縮を断行した人物として、英米では非常に評価の高い人物である。
このときウラジオ派遣軍と極東共和国軍が交戦しており、全面衝突間近だった。10月に派遣軍は撤退を行った。
6 ソ連との国交樹立へ
1923年8月、政府は在中ソ連大使ヨッフェを日本に招待し交渉を行った。この交渉は決裂し、また直後の関東大震災で日ソ交渉も停滞した。
1925年10月、加藤高明内閣のものとで日ソ基本条約が締結された。日本は北サハリンの開発権を獲得し、また同地からの撤兵を約束した。
・シベリア出兵犠牲者について……靖国神社によれば正式な軍人の戦死は2643人、病死690人、計3333人である。
――しかしここには、尼港事件の民間人犠牲者は含まれていない。……民間人でも在郷軍人は、日本軍の指揮下で行動して戦死した証拠があるので合祀されたい、との請願があったものの、認められなかった。ほかにも義勇兵として戦闘に参加したものや、巻き込まれた民間人の事例も含めれば、その犠牲者数は増えるだろう。
・病死の割合は日露戦争を上回った。
・ソ連側の死者は8万人に上るという。
・シベリア出兵の教訓は生かされなかった。出兵に関する資料を、陸軍は秘密文書扱いにした。
終章 なぜ出兵は7年も続いたのか
長期における派兵の原因について著者は次のとおり推測する。
・統帥権の独立
・親日政権樹立に失敗……ソ連を交渉相手として認めていなかったため、交渉相手がいない。
・死者への債務……「出兵しても何も得ずでは兵を引けないという、指導者たちの負い目」
ジョン・ダワーの言葉。
――人が死ねば死ぬほど、兵は退けなくなります。リーダーは、決して死者を見捨てることが許されないからです。この『死者への債務』は、あらゆる時代におきていることです。犠牲者に背を向けて、『我々は間違えた』とはいえないのです。
・敵と戦闘地域の拡散
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