うちゅうてきなとりで

The Cosmological Fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『Let Our Fame be Great』Bullough Oliver その2

 ◆メモ

 本書は、コーカサス各地域に住む民族の歴史を説明する。このとき、ソ連時代からロシア帝政時代へと記述がめまぐるしく変化する。

 

 2 山岳トルコ人The Mountain Turks、1943~4

 スターリンの民族政策について。

スターリンは、ドイツ軍に一度占領されたカラチャイ人を、敵性分子として強制追放した。カラチャイ人は、ロシア帝国に早くから服属したため、チェルケス人と異なり自由を謳歌していた。

 仏教徒カルムイク人Kalmykや、直接占領されていないチェチェン人、イングーシ人も追放された。

 速やかな追放を達成するため、僻地の村では、人びとを家に閉じ込め焼き殺して処分する方法がとられた。老人や足の悪い人間はその場で射殺された。

 

コーカサス山脈の最高峰エルブリュスElbrusや、ダイキタウDykhtauの麓には峡谷gorgeが連なり、トルコ系のバルカル人が住んでいた。

 19世紀中頃には英国人ダグラス・フレッシュフィールドDouglas Freshfield等が登山探検に訪れた。その他、少数の訪問者が、革命以前のバルカル人の生活に関する貴重な記録を残している。

 ロシア帝国の統治は大変非効率的であり、役人は民族について何も知らなかった。このため峡谷では統治が行き届かず、山賊や盗賊が跋扈した。

 

 バルカル出身の革命家イスマイル・ザンキシエフIsmail Zankishiev、通称フタイKhutaiについて。

 1917年の革命と同時に、コサックと高地人、高地人同士の紛争が勃発した。

 フタイは戦闘員として富裕層を追放、殺害し、地方のソヴィエト政権を打ち立てた。かれは支配者の地位につくと、かつての腐敗役人のように振舞ったため恨まれた。

 その後一度追放されるが、スターリン時代に再び峡谷に戻ってきた。今度は、かれは山に潜伏する盗賊となった。

 フタイらバルカル人は民族政策に反対し、峡谷にやってきた赤軍を攻撃したため、スターリンは1942年11月、NKVDを派遣した。これがチェレク峡谷の虐殺The Cherek Massacreであり、数千人の非戦闘員が殺害された。

・ベリヤ率いるNKVDは、この虐殺を隠蔽するために、その後進駐したルーマニア軍が虐殺を行ったと報告を書き換えた。

 フタイは山に潜み続けたが、NKVDの野砲部隊に包囲され死亡した。かれは抵抗の象徴となった。


 中央アジア、主にカザフスタンに追放された民族は酷寒のなかで多くが死亡した。

ソ連は敵性民族を「非民族化」Unnationし、歴史から抹消しようとした。バルカル人、カラチャイ人、カルムイク人チェチェン人、イングーシ人は百科事典から削除された。

 

 フルシチョフスターリン批判以後、徐々に名誉回復がなされ始めた。

 ゴルバチョフとそれに続くエリツィン時代には、強制移住をめぐる訴訟が行われ、チェレク峡谷虐殺を実行したNKVDナーキンNakin大尉、コズロフKozlov少将らが訴追された。

 ところが、1994年以後のチェチェン紛争ムスリムコーカサス民族に対する社会の反感が増大し、プーチン政権では、再び虐殺を隠蔽する動きが目立ち始めた。

 虐殺を生き延びた人びとは、チェチェン侵攻はドイツが再びポーランドを侵略する行為と変わらない、と非難する。

 

  ***

 3 グロズヌイGrozny、1995

 ソ連の崩壊とともに、衛生諸国と同じように、チェチェンでも独立運動が盛り上がった。

 空軍少将ジョハル・ドゥダエフDzhokhar Dudaevは、エストニア独立運動を目の当たりにして、チェチェン共和国独立の指導者となった。かれはチェチェンでの生活実績がほとんどなかったが、未来の英雄として迎えられた。

 二枚目のパイロットというイメージとは裏腹に、かれは強硬な分離主義者だった。

 1994年末、エリツィンはロシア軍を派遣するがみじめに敗退した。しかし、戦争と治安の悪化は収まらず、中央アジアから帰ってきたチェチェン人も再び戻らざるを得なかった。

 

 チェチェン・ダゲスタンの反抗について。 

・1721年、ピョートル1世の時代、ロシアのダゲスタン侵攻が始まった。それまでも黒海沿岸にコサックを住ませてはいたが、ペルシアとトルコが弱体化した隙をついて、ロシア軍はカスピ海沿岸のデルベントDerbentを占領した。しかし、その後の山岳部侵攻はうまくいかなかった。

 ダゲスタンはアヴァール人Avar、ダルギン人Dargins等、40を越える民族が居住し、また言語も無数にあった。かれらは険しい山間に住み、独自の風習を守った。

 チェチェン人の間ではコーランの教えどおり、女性はラクダのように荷物を運ぶ機能しか持たない。あるチェチェン女性いわく「いまだに男が何のために存在しているのかよくわからない」。

 

 18世紀末、ウシュルマUshurma、通称シェイク・マンスールSheikh Mansurがイスラーム預言者を名乗り、ロシアに対する抵抗を呼びかけた。かれは一度ロシア部隊を全滅させたがその後捕縛され死亡した。かれは英雄となった。

 西方のチェルケス人と異なり、ダゲスタン、チェチェンの人びとは、イスラームを媒介として団結した。マンスールと前後して、スーフィー神秘主義が普及し、ナクシュバンディー教団Naqshbandiを基盤とした師弟関係が確立した。

 ギムリGimry出身のナクシュバンディー指導者シェイク・ジャマル・エディンSheikh Jamal-Edinは、ロシアへの抵抗戦争を呼びかけた。ナポレオン戦争後、コーカサス平定にやってきたエルモーロフYermolovは、グロズヌイをはじめとする要塞を多数建設し、また山岳部族の絶滅を掲げた。

 

・1854年、ダゲスタンの指導者イマーム・シャミールThe Imam Shamilの軍……シャミールの息子とシャミールの後継者ガジ・ムハンマドGazi-Muhammad部隊が、カラタKarataから南下し、グルジアに侵攻、ダヴィド・シャヴシャヴァッゼDavid Chavchavadzeの王女たちを誘拐した。その後、ロシア軍にさらわれ育てられていた息子のジャマル・エディンと捕虜交換を行った。

 この息子はコーカサスの風習に馴染めず間もなく病死した。

 [つづく]

 

Let Our Fame Be Great: Journeys among the defiant people of the Caucasus (English Edition)

Let Our Fame Be Great: Journeys among the defiant people of the Caucasus (English Edition)