うちゅうてきなとりで

The Cosmological Fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『Let Our Fame be Great』Bullough Oliver その1

 イギリス出身、モスクワ在住歴の長い著者が、コーカサス地方や、コーカサスディアスポラの集落等、様々な場所を見分しながら、「まつろわぬもの」たる北コーカサスの民族の歴史をたどる。

 

 ◆メモ

 著者はコーカサス地方や、コーカサス人の移住先を訪問し、現地の人びとから話を聞いて回る。コーカサス人の苦境は歴史から忘れさられてしまっていた。

 ロシア帝国時代から現代まで、チェルケス人、カラチャイ人、バルカル人、チェチェン人、その他コーカサスの部族は、常に迫害され続けてきた。

 追放されてからも人びとの苦難は続く。

 どんな国も異民族迫害・虐殺という負の歴史を抱えているが、ロシアはそうした記憶を葬り去ろうとしている。

 

  ***

 導入

 アゾフ海東岸に広がる草原地帯には、モンゴル人の末裔であるノガイ族Nogaisが住んでいた。1783年、エカテリーナ皇帝の派遣したスヴォーロフSvorov将軍がかれらを服属させ、このとき多数のノガイ族が虐殺された。ロシア人はノガイ族を追放し、そこにコサックCossackを定住させた。

 ステップSteppeが遊牧民の支配から解放されると、南にはコーカサス山脈があった。

 ナルト叙事詩Nart Sagaは、コーカサス地方に根付いた神話である。この神話のなかの英雄やエピソードは、コーカサス人の心性を表すものとして今も生きている。

 

  ***

 1 チェルケス人The Circassians、1864

・著者はイスラエルのチェルケス人集落を訪問した。1864年のチェルケス人虐殺は30万人の犠牲を生んだが、アルメニア人虐殺やホロコーストと異なりほとんど認知されていない。

・チェルケス人はイスラエル、シリア、ヨルダン、コソヴォ等広範囲に離散した。トルコには200万程度のチェルケス人が生活している。

 チェルケス人は、12のアディゲ人Adygeの氏族を指す。ここにカバルダ人Kabardaやウビク人Ubykhが含まれる。

・かれらにはハブツェHabzeと呼ばれる行動規範がある……その根本は敬意Respectである。男性は泣かない、老人を敬い、老人も誠実であるべきである、女性を理由なく攻撃してはいけない、客をもてなす等。

・チェルケス人は移住した国で忠実な兵隊となった。第1次大戦時、アラビアでトルコ軍と戦った英軍将校は、チェルケス人部隊の優秀さを称え、イギリスも反共防衛のため雇うべきだと主張した。

・チェルケス人が故国――ロシア連邦内のかつてのチェルケス人領土(チェルケシアCircassia)――に帰還しても馴染めず、再び移住先に戻ることが多い。

・部族のつながりが強いこと、特に若い世代は銃文化に染まっていることから、マフィアとみなされることもある。

・1830年代、対露政策のためにデヴィッド・アークハートDavid Urquhartの知人2名がチェルケス地方を旅し、歓待を受けた。

 

 チェルケス人の緑と黄の旗は、アークハートによってデザインされた。

 喜捨の習慣について。

 

・ロシアがトルコからチェルケス地方を割譲された後、ヴェリャミノフ将軍General Velyaminovはゲレンジク要塞Gelendzhikはじめとする地中海沿岸に要塞を構築し、チェルケス人討伐を開始した。

 カバルダ人Kabalda等は貴族制であり、買収により部族を平定することが容易だった。しかしチェルケス人は合議制を主とする、比較的平等な社会であり、個別に討伐していくしかなかった。

 ロシア兵は疫病や狙撃、襲撃により何度も甚大な被害を被った。一方、チェルケス人も、指揮系統の不在、統一戦線の不在から、ロシア人に圧倒され続けた。

 ロシア軍要塞の孤立した様子、劣悪な環境、地中海の過酷な気象について。

 

クリミア戦争時、ロシアに対しトルコ、英仏が敵対したにも関わらず、北コーカサスは機会を活用せず、何もしなかった。これは部族の内紛で手いっぱいだったからとのことである。

 

 英外交官ロングワースLongworthがチェルケシアを再訪したところ……コーカサス人の貴族制は崩壊し、かれらの中には、対ロシアのために部族を統合する者がいなかった。ロシア要塞による貿易封じ込めが功を奏し、ロシアとの交流を基盤にした経済が定着していた。

・武器、火薬を入手するため、チェルケス人は自ら進んでトルコとの奴隷貿易を行った。特に幼い女児は、故郷の貧しい暮らしを嫌い、トルコのハーレムに送られることを喜ぶことが多かったという。

プーシキンの作品『コーカサスの俘虜』は人気を博し、ロシア人の中にコーカサスへのイメージを植え付けた。

 その他、コーカサスの異国的なイメージを形成した作家たちについて……デカブリストの乱首謀者のベストゥージェフAleksandr Bestuzhev、レールモントフについて。

 

・1864年、ロシア軍がチェルケス人の大規模強制移住を行った。このときの惨状を、フランス人ド・フォンヴェイルDe Fonveileが記録している。

 チェルケス人は殺害、追放され、黒海沿岸から悲惨な難民となってトルコに逃亡した。トルコの沿岸都市サムスンSamsun、トラブゾンTrabzonには大量の難民が漂着し、そこで餓死者、病死者が発生した。

・ロシアはチェルケス人虐殺について黙殺している。現チェルケシアの人間はほとんど虐殺について知らない。ソチはチェルケス人追放の拠点となったリゾート地だが、虐殺から150年後にオリンピックが開催されることで一部のチェルケス人は抗議を行った。

 しかし、虐殺行為は忘却されたままである。

  ***

 [つづく]

 

Let Our Fame Be Great: Journeys among the defiant people of the Caucasus (English Edition)

Let Our Fame Be Great: Journeys among the defiant people of the Caucasus (English Edition)