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『The Indian Mutiny』Saul David その1

 1857年、デリー(Dheli)近郊のメーラト(Meerut)から始まったインド反乱についての歴史。

 東インド会社によるインド侵略の経緯から始まり、反乱の推移を細かく記述する。

 反乱の鎮圧を担当した東インド会社軍の将校たちは、イギリス軍将校とも異なる、特異な立場にあった。かれらは政治将校、つまり政治家としてもインド統治に携わった。

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 1 東インド会社(The East India Company)

 1613年、ムガル帝国(Mogul Empire)の時代、イギリス東インド会社はスーラト(Surat)に交易所を設立し、その後マドラスMadras、1639年)、ボンベイ(Bombay、1664年)、カルカッタ(Calcutta、1696年)にも拠点を建てた。

 

 東インド会社は、フランスを抑えてインドでの収益を上げていった。18世紀、ムガル帝国が弱体化し、周辺諸国に攻められていくなかで、会社は安定を求め、政治化・軍事化した。

 1740年代には英仏の対立が始まり、会社は常備軍を創設した。

 1756年、七年戦争(Seven Year's War)の勃発により英仏の交戦が世界各地で行われた。

 1756年、ベンガル(Bengal)の藩王(Nawab)たるシラジュ・ウッダウラ(Siraj ud-Daula)が、カルカッタにある会社の拠点を襲いヨーロッパ人を殺戮した。

 マドラス評議会は会社の事務官ロバート・クライヴ(Robert Clive)にカルカッタの再占領を命じた。クライヴは軍隊を率いて才能を発揮し、藩王の部隊と戦った。

 1757年6月、クライヴは、プラッシーの戦い(Battle of Plassey)で、フランスの支援するベンガル藩王を破った。

 会社はミール・ジャアファル(Mia Jafar)を藩王に据え間接統治をおこなった。さらに、親戚に王座をすげ替え、ベンガルの領有地域を広げた。

 本国の議会は、東インド会社が「帝国内の帝国」と化し、コントロールできなくなる状況を危惧した。議会は会社を統制する法律を定めた(1784年のインド庁(Board of Control)の設置)。

 

 18世紀初頭にかけて、マイソール王国(Mysor)、タンジャーヴール(Tanjore)、カルナータカ(The Carnatic)等が併合された。

 ベンガル管区(Bengal Presidency)は第2次マラタ戦争(Maratha War)などを通じて領地を拡大した。ボンベイ管区(Bombay Presidency)は西インド全域を支配した。

 その後、19世紀前半、征服戦争によって、アッサム(Assam)、アラカン(Arracan)、テナセリム(Tenasserim)、シンド(Sind)、パンジャブ(Punjab)、ペグ(Pegu)を手に入れた。

 

 その他の諸王国を併合する際、総督ダルハウジー卿(Lord Dalhousie)は「失権の原理」(Doctrine of Lapse)を利用し、藩王や太守に養子相続を認めず、領地財産を吸収していった。

・西インドのサーターラー(Satara)

・サンバルプル(Sambhalpur)

・ジャーンシー(Jhansi)

・ナーグプル(Nagpur)

 

 こうしたやり方はインド人の間に、イギリスの正義と公正に対する不信感を植え付けた。1856年には同様の手口でアワド藩王国(Oudh)を併合したが、これが後の反乱につながった。ベンガル傭兵(Sepoys)の四分の三が、アワドから採用されていたからである。

 

 1833年以降、東インド会社は、インド総督(Governer-General of India)の元、ベンガル知事、マドラス知事、ボンベイ知事によって統治されていた。

 1857年には、会社はインド亜大陸の三分の二を支配しており、ヨーロッパ人部隊4万5000人、インド人部隊23万2000人を保有していた。ヨーロッパ人とインド人との割合は1対5だった。

 ヨーロッパ人の不足した状況は、19世紀初頭に比べれば改善されていたが、支配地域の拡大と、1854年のクリミア戦争に伴う英国陸軍2個連隊の派遣は、不安要素となった。
 ダルハウジー卿は、ヨーロッパ人部隊をこれ以上減らすことはインド統治にとって極めて危険であると報告していた。

 

 2 カーロ・カニング(Carlo Canning)

 インド反乱に対処した総督について。カーロ・カニングは1856年に赴任し、精力的に働いた。インド総督は、給料はいいが、歴健康を害し死亡する者も多かった。

 アワドの併合によって、ワジド・アリー王(King Wajid Ali)やその下の領主たちの不満が蓄積していた。

 カニングはアワドの顧問官にヘンリー・ロレンス(Sir Henry Lawrence)を任命した。かれはインドやアジアにおいて優れた軍歴を持っていた。

 

 3 職業軍人たちの不満

 ベンガル軍の特性と、反乱の要因となった軍人たちの不満について。

 東インド会社軍は、18世紀末から近隣の現地人を雇う方式を採っていた。ベンガル軍の多数は、上位カースト……ヒンドゥー教農民、北インドの武士階級ラージプート(Rajputs)、武装したバラモン(Brahmans)であるブーミハール(Bhumihars)によって構成されていた。

 元々、カースト制度は緩やかであいまいな慣習だった。新カーストは頻繁に生まれ、また身分間の移動も珍しくなかった。

 18世紀末になると、カースト制度の厳格化が進行した。ベンガル軍の傭兵たちは、無数の宗教上・身分上の習慣を実践するようになった。かれら上位カーストの軍人は、軍隊を通して自分たちの身分の差別化を図った。

 19世紀中ごろになると、異なるカーストからも募集が行われ、上位カーストの傭兵たちは立場を脅かされるようになった。

 

・1834年の「一般命令」(General Order)……あらゆる身分から兵隊を採用する。

・シク戦争を通じて、パシュトゥン人(Pathans)、パンジャブに住むムスリムシク教徒(Sikhs)、ヒンドゥー教徒が雇用された。

・グルカ兵(Gurkha)の採用

・1856年、カニング卿の発した「General Service Enlistment Act」により、新規に雇われた兵は海外遠征にも出されることになった。

 

 上位カーストの傭兵たちは、会社がかれらを、世界中で使える苦力(Coolies)やパーリア(Pariahs)(南インドの不可触賤民)に変えようとしていると考えた。

 軍人たちは皆志願兵・傭兵であり、かれらの士気はその待遇に依存していた。1857年時点で、数々の不満が蓄積していた

 

・薄給、窮屈な軍装、重いマスケット銃、劣悪な兵舎。

・ヨーロッパ人に比べてインド人の昇任は遅く、また年功序列のため意欲も生まれなかった。老いたインド人将校は無能な者が多かった。

・非正規部隊(Irregular Army)の中には、軍馬の維持などで借金漬けというものもあった。こうした部隊の反乱参加率は高かった。

 叛徒たちの多くは、新しい雇い主、出世、利益を求めて蜂起したのだった。

[つづく]

 

The Indian Mutiny: 1857 (English Edition)

The Indian Mutiny: 1857 (English Edition)