『馬仲英の逃亡』に続くシルクロード3部作の2作目だが、時系列としては前作よりも前から始まる。
1933年秋、北京のスウェーデン・ハウスに滞在していたヘディンは、国民政府の重役と会談し、民国発展のために新疆への自動車道路開発が有意義なのではないかと提案した。
その後、ヘディンは国民政府から正式に自動車道路調査隊の編成を命じられた。
こうしてかれはゴビ砂漠を通って、新疆への自動車探検をすることになった。その際、現地の政治紛争には決して介入しないように指示された。
8か月の期間を使い、自分たちの目的である考古学的調査、植物調査なども並行して進めようと試みた。
新疆は盛世才や「大馬」馬仲英、その他部族の王が割拠しており、また盗賊がひしめいていた。
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ヘディンの交友関係は非常に広く、ドイツ軍(ワイマル共和国軍)のフォン・ゼークト元帥とも会っている。当時ドイツは多数の軍事顧問等を派遣し、国民政府を援助していた(中独合作~1937年)。
日本軍は熱河地方に進出し、北京にも侵攻しようと不穏な動きを見せていた。
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ヘディンはスウェーデン人、モンゴル人、ドライバーらとともに、乗用車とトラック数台に荷物を積み込み、北京から長城を超えて西域に向かった。
礫砂漠や干上がった河、高地を走るのは困難であり、タイヤがはまったり、エンジンが故障したりでたびたび行程はストップした。
ぬかるみや溝にはまったときには、積み荷をおろして車体を引き上げる必要があったという。
ガソリンを積んだトラックもあり、本隊より先に進み燃料を入手しにいくことがあった。
11月になると厳しい寒さが襲ってきたため、マイナス10度や20度の世界を、シュラフやたき火、ココア、テントで乗り切った。
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・ハルハ族とオルドス族
・死者を呼ぶエツィン・ゴル
・外モンゴルの首都ウルガではソヴィエト政権が成立し、ウラン・バートルとなっていた。
・様々な地形……黒ゴビ(完全な不毛の砂漠)、低い丘の連なり、積石(ケルン)
・ダンビン・ラマの盗賊要塞
――この城塞で、ダンビン・ラマ、いわゆる「贋ラマ」がその勢力をのばし、隊商から税金をとりたてたのである。10年前、かれはハルハ・モンゴル人に襲われ殺害された。いまその廃墟に立ってみると、このロマンチックな城塞を領しているのはきつねと鳥にすぎないことがわかる。
・時折すれ違う商人たち
・タマリスク(Tamarisk)の繁殖する地帯
・新疆の戦争にはタルグート族も参加していた。
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馬仲英に軟禁され、また自動車を奪われた事件の後、1934年6月頃、ヘディンらはウルムチに向かった。
・新疆地区には、ロシア革命時に亡命して以来、中国政府の指揮下にあるロシア人軍団が存在した。
・ヘディンの計画……クルジャ、チュグチャクへの前進
・ウルムチにおいて探検隊は盛世才から歓迎を受けるが、同時に厳しい監視下に置かれた。ウルムチはスパイ行為や暗殺・陰謀で渦巻いていた。
盛世才はソ連(スターリン)とも関係があり、支援を受けていた。ソ連領事らは、盛世才よりも力を持っていた。
・負傷したフンメルの救出と、フンメル、ベリマンらのドイツへの帰還。
・ヘディンらはウルムチから脱出し、安西(アンシー)を経て南京に向かった。
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シルクロードについて
漢の武帝の時代、張騫らが西域に派遣され、汗血馬を求めて大宛(フェルガナ)との交渉を試みた。戦争の後、漢と西域を結ぶ貿易行路が確立した。当時の最高級品である中国の絹が、行路「シルクロード」を通じて西方へもたらされた。
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1935年の年明け、かれらはウルムチから安西を経て、長城沿いに西安に向かった。
道は砂漠や山、険しい断崖など様々な様相を見せ、また盗賊や馬賊も潜んでいた。
甘粛は「大馬」に荒らされたことで荒廃していた。ヘディンの観察では、どの町も貧しく、半壊した建物ばかりだった。
かれは町の人口規模を家族単位で記述している。
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とある町では、強盗犯らに対する見せしめの拷問が行われていた。
――その声はもう人間の声などというものではなく、鞭うたれ折檻されている動物のうなり声であった。……苦しさが極まると、かわいそうな連中は自分の鳴き声を自制できなくなる。かれらは泣くと同時に笑うのである。
――つまりこの不幸な8人は、肉をひきさかれ、皮をはがれ、うちのめされ、しかももう一晩、はっきりしないまま送らなければならないのである。