うちゅうてきなとりで

The Cosmological Fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『元禄時代』児玉幸多 その2

 6 殉死の禁

 家綱の代は、江戸時代には珍しい集団指導体制が敷かれた。保科正之松平信綱らの死後は、酒井忠清が権勢を誇った。

 政治的には安定していたが、火事や災害が絶えなかった。

 

・家綱はあまりものをいわず、老中らの言いなりだったため「さようせい様」といわれた。家綱は病身で、幸若舞平家琵琶などを好んだ。

・家康の時代に殉死が流行したため、幕府は厳しく弾圧した。殉死は美徳ではなくなりやがてすたれた。

 殉死の3種……義腹(純粋に義によって切腹)、論腹(殉死しないととやかくいわれるので切腹)、商腹(殉死しておけば子孫は安泰)

・証人……各大名の人質制度の廃止

・役料……旗本貧困救済策

 

 7 東廻りと西廻り

 幕府は全国から年貢を徴集しなければならない。このため角倉了以は河川を開発し、また河村瑞賢は東廻り航路(東北太平洋から江戸へ)と西廻り航路(東北日本海から江戸へ)を開拓・整備した。

 かれは商才にも長けており明暦の大火後は木曽の山を買い占め材木販売により巨額の富を得た。

 海運の発達により日本は全国規模の経済ネットワークを確立した。

・菱垣廻船と樽廻船

北前船

 

 8 天下の台所、大坂

 

 ――……大坂の中之島・北浜こそ、全国の経済の心臓であった。諸国の産物は多くこの地に集まり、ここの問屋の手を通して、また諸国へ流通した。

 

 大坂城には大番と呼ばれる警備当番があり旗本の最上級職だった。しかし、大番衆は幕府の権力を振りかざし道中で庶民を苦しめたため嫌われていた。

 江戸が武士・幕府権力と結びついた商人の都だったのに対し、大坂はより町民の才覚に基づいていた。このため、経営がつまづけば没落も早かった。

 

 9 犬公方

 1860年、家光の第4子、綱吉が5代将軍となった。将軍は奢侈を禁じ、農民の負担を軽くしようと努めた。

 綱吉は当初、自らを推挙した大老堀田正俊を重用したが、堀田はやがて疎んじられるようになった。正俊の死後(かれは若年寄稲葉正休ともめて刺殺された)、その一門は排除された。

 綱吉は気まぐれかつ偏執的なところがあり、越後のお家騒動(越後騒動)では厳しい処分を科した。他にも、改易などの厳罰を頻発したため、下々はおびえるようになった。

 

 ――これによってみれば、封建専制君主には、偏執狂になりうる条件が存していたとみることもできよう。

 

 老中が城内で力を失い、代わって御側や御側用人が実権を握った。有名な人物は柳沢吉保、牧野成貞である。

 綱吉には3代家光と同様同性愛の傾向があった。

 生類憐みの令は何度か改正され、徐々に厳格、偏執的になっていった。なぜ綱吉がこの法令にこだわったのかにはいくつかの説がある。1つは、綱吉に子ができず、その原因が前世で動物を殺生したため、ととある仏僧(隆光僧正)に言われたからというもの。

 

・頬についた蚊をはたいた小姓が流罪となった。

・病馬を捨てた者、犬を斬った者が流罪

 

 ――犬目付という役人が諸所をまわって歩き、犬を打つとか、邪険にあつかう者があれば、その者をしらべ、そのために所払や牢に入れられる者もでた。

 

・野良犬を世話すると捨てることができないので放置したところ、飢えた犬が江戸を徘徊し人を噛み捨て子を食い殺すようになった。犬を叩くと処分されるので水をかけるようになり、その水を番する者は「犬」と描かれた羽織を着た。

・その後、幕府は税を徴収し江戸内に1000か所を超える犬小屋を建てた。

 

 ――綱吉は死ぬまでこの悪法をやめようとはしなかった。人間は生類のうちに入っていなかったのかもしれない。

 

 ――綱吉が死ぬと、中野その他の犬は分散させられたが、数万頭の犬が追い放たれて、どういうことになったか、はっきりしたことはわからない。犬小屋の管理にあたっていた御徒や小人も用がなくなり、犬医者が失業したことは事実である。

 

 ――見渡せば犬も病馬もなかりけり御徒小人のひまの夕暮

 

 10 湯島の聖堂と貞享暦

 綱吉は学問振興に熱心だった。

 家康の代に藤原惺窩が招聘され、門人林羅山が儒官となる。

 徳川義直による上野孔子堂建設

 1688年、綱吉は孔子堂を神田台に移転、儒学と仏教を切り離し朱子学を興す
 学者……池田光政保科正之徳川光圀大日本史』(朱子学の名分論、水戸学・尊王思想の起源)、前田綱紀(室鳩巣、木下順庵など招く、尊経閣(そんけいかく)文庫本)

朱子学

 武功が用をなさなくなり、学問が出世の近道となった。朱子学は徳川政権の正当性を支えるイデオロギーとなった。

 

 ――朱子学者はことにその立場をとるが、これは、幕府権力が安定を失って崩壊に向かうときに弱点をあらわすようになる。権力の交代や社会の変革を天命として認めるときには、現状を支える力となることができない。

 

 松永尺五……在野の儒家だが、その門下に新井白石、室鳩巣、雨森芳洲

 谷時中の南学……野中兼山、小倉三省、山崎闇斎

 闇斎の門下……浅見絅斎、佐藤直方、三宅尚斎

 闇斎は後に神道に転換し垂加神道を創始した。

陽明学……中江藤樹、熊沢蕃山、

 陽明学は幕府の御用学者からは疎まれた。蕃山は、貨幣経済の抑制と自給自足世界を理想として掲げた。

 

 ――朱子学者のように、帝王となるのは天命と考え、ただそれに従順であるというのではなくて、帝王が徳を積み、仁政を施すことをなすべきであるという主張をするのである。

 

 荻生徂徠(町人無用説)、山鹿素行(『聖教要録』にて朱子学を否定、『中朝事実』での日本第一主義)、伊藤仁斎

・活字は日本語の特性のため普及せず、木版印刷が主流となった。書籍、仏書、儒書、国文学や浮世絵版画の発展を促した。

・碁家……本因坊、井上、安井、林

 碁は天平時代にやってきた。碁家の業務は将軍家の指南、碁士の統制など。

・将棋……室町時代の小将棋が今日の将棋の原型となった。

 大橋宗桂、伊藤宗看、

 詰将棋、盤上心得の出版

 将棋や碁は日本人の娯楽でももっとも息の長いものの1つである。

・貞享暦の採用……安井算哲は日食の予測が外れたのを証拠として当時の宣明暦(せんみょうれき)を廃し授時暦採用を主張したが却下された。

 今度は大統暦が用いられたがこれも反対した。最終的に1685年、算哲の作成した貞享暦が採用となった。

 中国は臣下の国に自らの暦を授けたので、日本が独自の暦を採用することは政治的な意味もあった。

・時間

 1日を日没と日の出で分割し、さらに6分割したため、時間の長さが一定でなかった。

 洋式時計は使えず、日本式時計(昼間用振り子と夜用振り子)を使用した(和時計)。

 老中や若年寄も正確な時刻を計れないので、面倒な方法で登庁時間を調整した。

 

 11 忠臣蔵

 1701年、江戸城内における、浅野内匠頭長矩による、吉良上野介義央への斬りかかり事件が発生した。

 吉良上野介は傲慢さから嫌われており、浅野内匠頭はかれから侮辱されたのだという。

 浅野内匠頭切腹を命じられ、赤穂城は明け渡しとなった。浅野家の再興もないようなので、城代家老大石内蔵助良雄は敵討ちを決心した。

 赤穂浪士たちは12月14日、吉良の屋敷に討ち入りし首を打ち取った。かれらはその後切腹となった。

 

・処分案:

 内匠頭家来は、忠孝は守ったが「徒党を組み、誓約を成す」に違反しているのではないか。

・賛成と反対

 激賞:室鳩巣、浅見けいさい、伊藤東涯など

 反対:荻生徂徠、佐藤直方、太宰春台

 荻生は、長矩は殿中で暴れたため処罰されたのを、家来は吉良を仇として、公儀の許可なく騒動を起こしたので違法である、と主張した。

赤穂浪士事件と『仮名手本忠臣蔵』はまったく別物である。

 

 ――かれらの行動を非難するものの多くは、法を破ったという点に集中する。しかし一般の民衆は法よりも情を重んじた。

 

 ――義士論にしても、義士の行動の善悪は論じるけれども、その処罰については表立って議論はなされないのである。将軍の行為は絶対であり、その判決は動かすことができないものであった。

 

 12 窮乏する財政

・幕府の財政は綱吉の代には極端に悪化した。金銀の算出が減った。

・大名・旗本の困窮が目立つようになった。

・綱吉は諸大名邸への御成り(訪問)を頻繁に行ったため民衆を苦しめた。

・財政無視の寺院造営

勘定奉行荻原重秀による元禄金銀への改鋳

 単に幕府財政の不足分を補うのが目的であり財政難は改善されなかった。

・災害の多発……地震・雷・火事・噴火

 宝永の噴火

 

 13 元禄模様

・元禄の奢侈……着物や小物など

衆道の全盛……若衆や陰間

・女たちの伊達比べ、奢り者

・三井の越後屋呉服店

・大名貸は不良債権になることが多く敬遠された

 

 ――江戸封建制度の大きな矛盾は、この租税制度の欠陥にあって、重圧をかけられた農業部門の発達はいちじるしく抑えられ、都市の消費生活のみが異常な発達をとげて、それが元禄期にもっとも華麗な面を示したといえよう。

 

 14 絵の世界と侘の境地

 俵屋宗達尾形光琳尾形乾山

 浮世絵……菱川師宣、鳥居清信

 戸田茂睡、契沖による和歌の再興

 松尾芭蕉

 

 15 一代男と曽根崎心中

 井原西鶴……『好色一代男』、『世間胸算用

 近松門左衛門……『曽根崎心中』道行

・歌舞伎の変遷……出雲阿国による阿国歌舞伎、若衆歌舞伎、野郎歌舞伎へ

 京都の坂田藤十郎と江戸の市川団十郎

 

日本の歴史〈16〉元禄時代 (中公文庫)

日本の歴史〈16〉元禄時代 (中公文庫)