中公「日本の歴史」シリーズの1つ。
江戸成立直後の、野蛮と暴力が残る時代、また江戸の発展や文化について知ることができる。
◆メモ
綱吉の評価、柳沢吉保、荻原重秀らの評価は学者によって幅があるようだ。
度々火災に見舞われる江戸、人の命の軽さ、綱吉の支配、赤穂浪士に熱狂する民衆など、大変興味深い。
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1 由井正雪の乱
1651年(慶安4年)、3代将軍家光が死に、幼い家綱が跡を継いだ。家光の弟たる保科正之を筆頭に、大老井伊直孝、酒井忠勝、老中松平信綱らが合議制により幼将軍を補佐することになった。
同年、江戸在住の軍学者由井正雪は、槍使い丸橋忠弥、金井半兵衛らとかたらって、江戸に騒乱を起こし、久能山に籠城する反乱計画を立てた。
密告によって稚拙な計画は暴露し、かれらは自害または処刑になった。首謀者の一族郎党は皆磔や斬罪となった。
動機ははっきりしないが、当時、改易処分によって増大していた牢人の不満をくんだものであるという疑いが濃厚だった。
――牢人は失業者とはいえ、身分は武士であり、当時の知識層である。そういうものを大量に作り出すことは、実は社会秩序の上からいえば、はなはだ危険なことであったにもかかわらず、幕府や諸藩では、そのうえに牢人にたいしてきびしい統制を加えてきた。
新井白石は由井正雪を、時代が時代であれば漢の高祖になっただろうと高く評価した。
幕府は牢人への過酷な取締を緩和したが、その後も類似の反乱計画は相次いだ。
日本におけるクーデタはそのほとんどが未熟な計画に過ぎず、成功したのは大化の改新くらいであるという。
2 明暦の大火
火事を警戒するお触れや規則について。
火事の見物禁止、見張り中の転寝(うたたね)はさらし者にするなど。
1657年(明暦3年)1月18日、大火発生によって多くの住民が江戸湾に飛び込んだが9600人ほどが焼かれるか凍死した。
――……井水に逃げ込み、溝に逃げいったが、下の者は水に溺れ、中の者はおされ、上の者は焼かれ、ここでも450人が死んだ。
浅草門では人びとが堀に次々と飛び込み屍体の山で溝が埋まった。
――死者はいたるところに横たわり、京橋あたりは男女死人の山で、橋は焼け落ちたが流れる死人を踏んで渡ることができた。
死者総計10万2000人程度とされる。
オランダ商館長ワグナールも火事に巻き込まれ避難を強いられた。
火災の原因……強風、乾燥、牢人やあぶれ者たちによる物取り放火、
「車長持」という台車に財産を入れて逃げ惑ったため、避難が遅れ、死者が増える一因となった。
その後、防災都市計画に基づいて市街の再編成が行われた。幕府は、道路の拡張、火避け地の造成、瓦葺の禁止、郊外(武蔵野市や三鷹市)への町民の開拓移住を命じた。
浅野内匠頭長直は、奉書火消(大名に火消しを命じること)で度々活躍した。浅野内匠頭が出動すると、迅速に火を消し、また自ら火のついた小屋に飛び込んで建物をつぶし延焼をとめたりしたため、英雄のような扱いを受けていた。
――のちに赤穂義士のでたのも、こういう英傑が主君にいたからであろうという評判であった。
3 旗本奴と町奴
由井正雪の乱に前後して、幕府はかぶき者の取り締まりを行った。
かぶき者……びろうどの服、総髪、立髪、大髭、太刀と大脇差
平行して、町奴や男伊達と称する者も横行していた。
かぶき者の発生はもっと古く、家康の代に京都をたむろする不良武士たちが徒党を組んだのがおこりである。かれらは町民をからかったり、喧嘩をしかけたりして治安を乱した。
――かぶき者が横行して善良な市民を苦しめたのは、戦国の余燼がくすぶり、いつまた戦乱になるかもしれないときで、力のはけ口を求める者たちが、落ち着きを取り戻そうとする都市生活に溶け込むことができずに、反抗的な行動をとったのであろう。歴々の武士たちのあいだにさえ殺伐な風潮が残っていた。
織田有楽の親類を殺害したかぶき者と、その棟梁、大鳥居逸兵衛(いつべえ)ら、捕えられたかぶき者たちの逸話について。この事件では300人程が処刑された。
1615年の大坂の陣後も、殺伐とした悪事はおさまらなかった。
1628年、江戸城下で辻斬りが横行し、1000人斬りに及ぶかとおもわれたので、辻番制度が設けられた。
特権を持つ武士のなかには放縦と悪事にふけるものも現れた。かれらは容姿の整った小姓や草履取を武装させて従え、また衆道(しゅどう)の対象とした。
かれらは徒党を組み、抗争を行うことがあった。武士に雇われる若党(わかとう)・中間(ちゅうげん)にも奴があった。
旗本奴は六法ともいわれたが、6つの暴力団が江戸を跋扈したことが由来とされる。
旗本奴の水野十郎座衛門と町奴の幡随院長兵衛について。
水野は異様な姿で出座したため不作法のいたりとして切腹を命ぜられた。
――これはおそらく誇張があろうが、異様の姿であったにはちがいなく、さもなければ急に切腹となり、二歳の子まで殺されることはなかったであろう。
江戸だけでなく上方……大坂や京都にも多くの奴がいたが、かれらは後に芝居の題材となった。
4 江戸八百八町
江戸は間もなく世界有数の巨大都市となった。外国人の記録によれば、スペインの町よりも清潔で道も整っていたという。
職種ごとに居住区が分けられていた。
江戸は城下町であり城塞防衛の役割を担った。武家地は6割、寺社地は2割、町地が2割だった。人口では商工業者が半分を占めた。
寺社地は寺社奉行、町地は町奉行が支配した。町奉行は南北2人おり、相互に上番した。それぞれ与力25人、同心100人を指揮した。裁判は与力の、警察・捜査は同心の仕事だった。
同心の巡回……定町廻り(じょうまちまわり)、臨時廻り(りんじまわり、祭りなどイベント警備)、隠密廻り(おんみつまわり、武家や商人に対する諜報活動)
前科者や手先を使わなければならなかった。かれらは小者、目明し、岡引(おかっぴき)という。
町奉行の指令を受けて江戸市民に通達するものが町年寄という。その下に町名主がいる。
・地主は借主の糞尿を契約して農家に売った。
・自警組織として辻番が設置されたが老人や病人、弱者がおかれたり、勝手に上番中に物を売ったりした。
・江戸時代は税は土地に課された。公役・国役は町人が負担した。
五人組の承認なしに家を借りることはできなかった。
・奉公人の種類……日雇人足も含まれる。奉公人は主人に逆らうことはできず、刑罰も重かった。
・水道の整備……家康家臣大久保忠行による神田上水、その後つくられた玉川上水
・床屋や商人は厳しい徒弟制の下で働いた。かれらは、20年間ほどは給料ももらえなかったため、結婚できなかった。このため遊び歩くことが当たり前だった。家にこもって出歩かないことは「野暮(家暮)」とされた。
5 夜の世界、新吉原
門と廓で囲まれた傾城街の成立について。吉原は当初日本橋人形町にあったが、明暦の大火後、浅草に移転した。
・遊女の格式……太夫、格子(京都では天神)、端女郎、雑用少女である禿(かぶろ)
新造(しんぞう)……禿から遊女に上がること
引舟……客の接待等
鑓手(やりて)……やりてババア
太鼓持、末社
・吉原で遊ぶには金がかかった。ただ金やステータスを自慢する者は野暮といわれた。金を持っており皆をよろこばせる者は京都では粋(すい)、江戸では通り者(とおりもの)といった。
「だいじん」……紀伊国屋文左衛門、奈良屋茂座衛門
・その他の傾城町……京都島原、大坂新町、伏見夷町、全国の宿場町など
・暗者女(くらものおんな)、惣嫁(そうか)、私娼(京都では辻君、江戸では夜鷹)
・1635年ころには、幕府に管理されていた吉原の外に、湯屋がつくられた。ここで働く湯女(ゆな)がやがて売春婦となったが、1656年の新吉原移転時にすべて移転させられた。
しかしその後は茶屋と茶立女(ちゃたておんな)が盛んになったため1668年に吉原に移転し、「散茶女郎」となった。
――こうして吉原は、唯一の公認の遊郭として、非公認の遊女の発生を抑える努力をしたのであるが、根絶させることは不可能であり、ことに江戸後期には、多くの社寺門前を中心にした岡場所の繁栄をみたのである。
・遊女はほとんどが貧しい家から買われた少女であり、それは人身売買(建前上禁止)や奴隷と同等だった。
――飯盛女が多くいたので知られていた中山道の追分宿でも、藪の中や畑の畔に、遊女の墓というのが、「幻泡禅定尼」「芳艶禅定尼」などと、あわれな戒名をつけて、草にかくれて残っている。それでも墓を建ててもらったのは幸いとしなければならないであろう。
[つづく]