うちゅうてきなとりで

the cosmological fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『日中十五年戦争史』大杉一雄

 著者は旭川の陸軍で終戦を迎え、日本開発銀行で勤務した民間人の歴史家であり、学者ではない。

 日中戦争当事者の回顧録や、中国側の記録、戦史叢書や記録を参考に、特に日中戦争本格化までの経緯を分析する。

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 日中戦争を段階的に区分し、それぞれのフェーズにおいて和平工作や戦争回避の努力がなされていたことを明示する。

 事実によれば、満州事変前後や盧溝橋事件後、その後の第2次上海事変にかけて、一気に全面戦争へと突き進んでいったわけではない。各勢力が努力はしていたが、結果的に戦争を回避することができなかった。

 

 著者の結論は以下のとおり。

満州事変は満州特殊権益を超えた侵略行為だった。

・事変終結後も、関東軍華北に圧力を加え、傀儡政権工作等を行い、抗日ナショナリズムを激化させた。

・日中外交交渉は失敗し、関東軍は綏遠事変等強硬策を続けた。中国側は国民党を中心に民族統一運動の体制を固めた。

・盧溝橋事件後、政府の不拡大方針は現地軍の独走で潰れた。

・南京攻略までの間、トラウトマン工作による和平への道が模索された。参謀本部は不拡大を主張したが、現地軍と「近衛内閣」はそうではなかった。

・近衛による「蒋介石を相手とせず」声明により、停戦の道は絶たれた。

 

 なぜ、こうした事態になったかの要因は以下のとおり。

文民統制の困難な大日本帝国の政治システム

・軍からの威嚇・圧迫による政治の委縮

・中国軍と中国ナショナリズムへの過小評価・蔑視

 

 ――日清戦争後顕著となった日本の対中優越感、中国蔑視の観念は中国民族主義を理解することができず、その抗戦能力を過小評価することとなった。知識階級や外交官のなかにさえそのような傾向があらわれていた。だからこそ日本はきわめて安直に中国に武力を行使し、身動きできなくなるまで侵略をおしすすめてしまったのである。

 

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 ◆メモ

満州特殊権益は、日清日露戦争を通して獲得された、日本の国家的資産と考えられていた。しかし、事変によって成立した満州国の領土は、当時の既得権益範囲を大幅に超えるものだった。

広田弘毅は軍部に協調し、また確固たる態度をとらず時流に流され続けた。著者は広田弘毅を厳しく批判している。

石原莞爾は、参謀本部の黙認をとりつけ満州事変を起こした後、日中戦争時には不拡大派として停戦を主張した。しかし武藤ら強硬派から疎んじられ左遷された。石原の満洲工作は、下剋上と独断専行を軍隊に蔓延させ、統制を失わせた点で罪深いものがある。

 また、石原の世界最終戦論は、日蓮宗的な思想の入り混じったもので、合理的とは言い難い。

・幣原は協調外交で知られるが、国際連盟を始めとする国際機関には懐疑的だった。

・1935年、蒋介石は幣制改革を実施し、国民党の貨幣を正式採用し経済力を強化した。これは英国のリース・ロスの支援による。一方、日本は軍事力で圧力を加えていただけだった。

・華南は日本海軍の担当領域であり、1936年、成都、北海で邦人襲撃が起きた際は、海軍が強硬策を主張した。

 

 ――もともと大陸政策、対外武力行使に関しては陸軍の積極・主役、海軍の消極・脇役とその役割は決まったようなものだったが、このときの陸軍と海軍との、いわば主客転倒したような態度の違いは一体何を意味するのであろうか。それは陸軍が対ソ戦略に重点をおく「石原イズム」のもとに、対華用兵には慎重な方針をとり、ハッスルした海軍の行動に対し冷静な態度を持していたということである。もしこのとき陸軍が安易に海軍が同調していたならば、日中戦争は一年早く、「盧溝橋」を待たずして「北海」から始まったことであろう。

 

・当時はソ連の脅威が大きな位置を占めていた。石原、多田駿ら参謀本部の不拡大派は、対ソ軍備を優先すべきと考えていた。

・近衛内閣は大きな期待を受けたが、対中和平工作は後退した。

・当時の国民は、満州を日本の国家資産と考え、中国をこらしめるべきという世論に傾いていた。知識人の大半は、満州は認めるが日中戦争拡大には懐疑的だった。満州も返還し経済連携すべきと主張していたのはごく一部(石橋湛山ら)だった。

日中戦争初期に宣戦布告しなかったのは、中立維持の米国からの輸入を維持するためだった。

・中国のナショナリズムは強固であり、いずれ満州も奪回されただろうと著者は推測する。蒋介石は、日本を持久戦に追い込めば勝てると確信し、デモや抗日運動に連動して強硬策を進めた。一方、和平の窓口は常に開けていた。

・盧溝橋事件後、参謀本部の和平案を退け、拡大方針を進めたのは政府である。具体的には……近衛首相、広田外相、杉山陸相、米内海相

 財界人は、設備投資の面から戦線拡大を支持し、国民も中国に一発食らわせようと熱狂した。木戸幸一も、中国に見下され、株価が下落することを警戒し拡大を支持した。海軍も米内、山本、井上ら役職者が開戦派に迎合した。

 

 ――近衛らにそれだけの識見と予見力がなかったことは残念なことだが、実は彼ら自身が、強制されたのではなく、陸軍省側と同じように武力による屈服が容易にできると考えていたのであり、参謀本部説は少数とみていたのである。

 

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 個人的なまとめ

 大まかな年表

 1931年9月 柳条湖事件

 1932年1月 第1次上海事変

      3月 満州国建国宣言

      5月 五・一五事件

      9月 日本、満州国昇任

 1933年3月 国際連盟脱退

      5月 塘沽停戦協定

 1934年4月 天羽声明(日本のモンロー主義

 1935年6月 梅津・何応欽協定、土肥原・秦徳純協定

      11月 冀東防共自治政府成立、抗日激化

      12月 冀察政務委員会

 1936年2月 二・ニ六事件

      8月 成都事件(邦人襲撃)

      9月 北海事件(邦人襲撃)

      11月 綏遠事変(関東軍の傀儡擁立工作)

      11月 日独防共協定

      12月 西安事件 国共合作

 1937年6月 近衛内閣成立

      7月 盧溝橋事件

         通州事件(傀儡政府中国人部隊による叛乱・民間人虐殺)

      8月 第2次上海事変

         不拡大方針放棄閣議決定

         中ソ不可侵条約締結

      9月 第2次国共合作

         石原作戦部長更迭

      12月 南京占領、虐殺事件

          北京に中華民国臨時政府成立

 1938年1月 御前会議「支那事変処理根本方針」決定

         大本営、和平交渉打ち切り

         「国民政府を対手とせず」声明

 

日中十五年戦争史―なぜ戦争は長期化したか (中公新書)

日中十五年戦争史―なぜ戦争は長期化したか (中公新書)