政党の変化について。
イギリス、アメリカを例に政党の変容を説明するが、1918年当時の説明であるため、理解しにくい。
・名望家たちの政党(名望家たちによる集団指導と、党内での官職任命)
・デマゴーグやカリスマを頂く大衆政党(行政の長となった大統領による大規模猟官制、ボス)
――人民投票的指導者による政党指導は、追随者から「魂を奪い」、かれらの精神的プロレタリア化を現実にもたらす、ということである。指導者のための装置として役立つためには、追随者は盲目的に服従しなければならず、アメリカ的な意味でのマシーン――名望家の虚栄心や自説に固執して、故障をおこしたりしないマシーン――でなければならない。
ヴェーバーは、民主制の支配を2つに分ける。
・指導者民主制(フューラー(指導者)と人民投票マシーン)
・職業政治家支配(党内派閥による支配)
ドイツでは、政治家としての道は政党職員、利益団体、ジャーナリズムから生まれるだろうという。
***
政治家に求められる要素……
・情熱
・責任感
・判断力
政治家にとって最大の敵は、自身の虚栄心と無責任である。
政治と倫理との関係について、ヴェーバーは心情倫理と責任倫理との違いを説明する。
・心情倫理……「キリスト者は正しきをおこない、結果を神にゆだねる」、動機や行為自体の正しさを追求する態度。かれにとっては理想の炎を燃やすことが倫理であって、失敗は、世間や他人や神の不完全によるものである。
・責任倫理……結果の責任を負うべきだとする態度。自分の行為の結果が予測できた以上、その責任を他人に転嫁すべきでないとする態度。
――この世のどんな倫理といえども次のような事実、すなわち、「善い」目的を達成するには、まずたいていは、道徳的にいかがわしい手段、少なくとも危険な手段を用いなければならず、悪い副作用の可能性や蓋然性まで覚悟してかからなければならないという事実、を回避するわけにはいかない。また、倫理的に善い目的は、どんな時に、どの程度まで、倫理的に危険な手段と副作用を「正当化」できるかも、そこでは証明できない。
ヴェーバーは、心情倫理は必ず破綻すると考える。
――心情倫理家はこの世の倫理的非合理性に耐えられない。
――この世がデーモンに支配されていること、そして政治にタッチする人間、すなわち手段としての権力と暴力性とに関係をもった者は悪魔の力と契約を結ぶものであること。さらに善からは善のみが、悪からは悪のみが生まれるというのは、人間の行為にとって決して真実ではなく、しばしばその逆が真実であること。これらのことは古代のキリスト教徒でも非常によく知っていた。これが見抜けないような人間は、政治のイロハもわきまえない未熟児である。
政治においては、暴力手段をいかに正当化するか、また部下にいかにその報酬を与えるかが重要となる。
政治は、必ず暴力という悪魔と契約を結ぶ。
人間愛と慈悲を持つ聖人たち……キリスト、聖フランチェスコ、ブッダらは、決して政治という方法を用いなかった。
***
ヴェーバーは、心情倫理のみを重視する情熱家や革命家を否定する。かれらには、政治の結果責任を負うつもりがないからである。
――……まず相手の十中八九までは、自分の負っている責任を本当に感ぜずロマンチックな感動に酔いしれたほらふきというところだ……。
著者は、10年後(1930年代)には反動の時代が始まっていて、いま期待していることのほとんどは実現していないだろう、と予言している。
ドイツの歴史をたどると、この予言は的中している。
――自分が世間に対して捧げようとするものに比べて、現実の世の中が――自分の立場からみて――どんなに愚かであり卑俗であっても、断じてくじけない人間。どんな事態に直面しても「それにもかかわらず……」と言い切る自信のある人間。そういう人間だけが政治への「天職」を持つ。
- 作者: マックスヴェーバー,Max Weber,脇圭平
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