本書において、著者は、ナチス親衛隊の情報部(SD, Sicherheitsdienst)に所属したアカデミカー(大卒)の親衛隊員たちの心理や背景を理解しようとする。
かれらは情報部においてドグマ形成、政治的監視、国内外の情報収集を行った。また、東部出動に派遣され、ユダヤ人や異民族の殺害にも加担した。
◆メモ
・SS知識人のほとんどは、ナチスの政権獲得前から政治活動に取り組んでいた。
・SDが取り組んでいた世界観形成において、ドイツは一貫して防衛・防御の方針を保持している。ヒトラーの侵略や、ホロコーストは、全て自己防衛のためであると解釈された。
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1 ドイツの若者たち
SDに所属したアカデミカーの多くは、少年時代を戦争と混乱の時代に過ごしている。第1次大戦における総力戦体制は、子供や民間人への教育、プロパガンダも盛んにおこなわれた。
かれらは野蛮なロシアやフランスからドイツを防衛する必要があると感じていた。また実際に、国境地帯の住民はコサックの占領を受け、残虐な体験を植え付けられた。
後に親衛隊の幹部となる青年たちの多くが、排外主義とヴァイマール共和国打倒を掲げるフライコール(義勇軍)に参加している。
ドイツでは、2つ以上の大学で学び卒業することが通例だった。大学のゼミや講座を中心に、後のSS知識人たちのネットワークが形成されていった。
かれらは民族主義的(フェルキッシュ)、反ユダヤ主義的、反共主義的な学生団体に所属し、運動に参加した。こうした学生団体は、「国家社会主義学生同盟」や突撃隊と関係を深め、一部は統合していった。
運動に参加しない学生たちも、多くは民族主義的な傾向に同調していた。
――……ボンは「国境の知性の砦」であった。ライプツィヒは、ズデーテン地方へのプロパガンダ旅行に学生を送り込む中心地。ケーニヒスベルクは、ポーランドに包囲され、回廊によって帝国から切り離された、ドイツ文化の島であった。
SS知識人たちは自分たちのネットワークを頼り親衛隊への入隊を進めた。
SS知識人たちの学者としてのレベルは様々だが、次のような傾向がある。33年以前に大学に在籍していた者の論文は、一見、非政治的である。一方、33年以降に在籍していた者の論文は、ナチイデオロギーに強い影響を受けていた。
これはナチ政権の学問領域に対する浸食を示している。
SS知識人たちは「知識人も兼ねた活動家」であり、各々が専門知識を使って党の活動やドグマ形成活動、政治運動に参加した。かれらの多くは学生時代から明らかに政治的だった。
著者は、こうした若者たちの根源的な動機が、第1次大戦によって生まれた「ドイツ人を根絶やしにしようとする隣国に対する恐怖」に由来すると考える。
2 ナチズムへの加入――ある政治参加
SSにおける人種主義……人種決定論、北欧主義、科学的反ユダヤ主義。
世界観形成に携わったギュンターの著作について。
人種主義に基づく政策は、ホロコーストだけでなく、ドイツ人の婚姻、家族制度にも及んだ。
SSは、まず自分たちが血統学的な採用基準を用いることによって、来るべき優生政策の先駆けになろうとした。
・アーネンエルベ協会……SDとの人種学に関わる交流。
SS、SDはそのドグマによってエリートたちを取り込んでいった。
オットー・オーレンドルフは次のように弁明している。
――私たちが国家社会主義の中に見出したのは、この理念でした。国家社会主義は新しい秩序の基礎をもたらしてくれると、私たちは期待しました。
SDに入る前にナチ党員だったものもいれば、SDに所属しながら後年まで党員にならなかったものもいる。党員でなくとも、活発な人種主義活動を行っていた者もおり、一概に党員でないからナチ思想と無関係とはいえない。
SS知識人の多くが、採用過程に差はあれど、古参の闘士(1931年以前のナチ党員か、フライコールの構成員)だったことを示している。
1940年にSDとゲシュタポがRSHA(国家保安本部)に統合され、SDの敵研究・監視任務と、ゲシュタポの執行任務が確立した。
SDは敵の研究・監視をその機能とし、ユダヤ人、共産主義者、フリーメーソン、ラインラント分離主義者、同性愛者、反政府主義者、犯罪者等を研究し、組織図や名簿ファイルの作成に励んだ。
SDは定期的に報告書を作成し、親衛隊上層部がこれを掌握した。例示された報告では、フリーメーソンやユダヤ人の陰謀論が真面目に論じられている。
誰が国家の敵かという定義は、北欧主義から強い影響を受けていた。
アインザッツグルッペンの活動は、オーストリア併合、チェコスロヴァキア解体から始まった。この過程でドイツ人共産主義者や反政府的なチェコ人が逮捕された。
アインザッツグルッペは、このように多様な活動に従事しており、虐殺を行った4部隊だけを指すものではない。
活動はポーランドでさらに拡大した。
[つづく]