目的
――本書は、これらSSの組織の1つであるナチ・エリート護衛部隊の軍事部門で、ヒムラーの戦時帝国の最大の構成組織であった武装SS(Waffen SS)の実像の解明を目指すものである。中でも特に、武装SSの発展の過程、すなわち、組織の目的、発展を可能にした技術、組織・編成、外国人兵士の利用、国防軍との関係、陸軍とのあいだで距離を置いた要因、戦闘での成功と失敗、さらに第三帝国の軍事的成果において果たした役割の解明に重点を置いている。その上で、物議を醸している困難な問題である武装SSの犯罪性の解明も試みた。
SSは党のエリート護衛部隊として1929年創設された。指導者はヒムラーだった。その後、党の拡大に併せて増員されていき、やがて情報機関、警察、武装SSの3部門を支配することになった。
・武装SSと一般SS、収容所管理部隊であるSS髑髏部隊は相互に人事交流があった。よって、武装SSもホロコーストと無縁ではない。
・武装SSの発展は複雑であり、主な焦点は、国防軍との共存をいかに図っていくかにあてられていた。
・最終的に、武装SSの過半数は外国人や民族ドイツ人(外国籍ドイツ人)が占めることになった。
***
1
SSは初めSA(突撃隊Sturmabteilung)の一部門に過ぎなかったが、1934年の突撃隊粛清により独立武装組織の地位を得た。ヒトラーはSS特務部隊(SS‐VT)の設立を命じたが、陸軍はこれを懸念した。
1936年までに、SS特務部隊(SS‐VT)――LAH(ライプシュタンダルテ・SS・アドルフ・ヒトラー)を含む近衛部隊――とSS髑髏部隊(SS‐TV)――強制収容所担当――が整備された。
SS特務部隊総監部……パウル・ハウサー(訓練)
LAH指導者……ゼップ・ディートリッヒ
武装SSの目的は、以下のとおりだった。
・国内反乱分子の抑圧
・国家社会主義の尖兵としての役割
1938年、ヒトラーの布告により、SSの役割が定められた。一般SSは武装せず、SS特務部隊はヒトラーの指揮下で武装する。戦時には、武装SSは陸軍の統制下で活動する。
国防軍の大半はナチ党に共感しておらず、ヒトラーは陸軍との妥協を図るため武装SSの立場を名目上陸軍の下に置いた。しかし、編成上の変更にはヒトラーの承認が必要だった。
1939年、ようやくSS武装師団の設立が行われた。
2
9月1日から始まったポーランド侵攻で武装SS師団は初めて戦闘に参加した。
その後、新兵募集、補充要員確保をめぐって国防軍徴兵担当部局との争いが起こり、国防軍とSSとの関係はさらに悪化した。ヒムラーたちは制度の抜け穴を利用して新兵を補充し、またシュコダ製の兵器を調達した。
西部戦線での戦闘が始まると、武装SSの師団は陸軍に編入され、陸軍高級将校の指揮を受けた。武装SSは当初、国防軍から冷たい反応で迎えられた。
――武装SSと接触する機会のなかった大抵の陸軍高級将校たちのSS師団に対する印象は、街頭で喧嘩しているSAの褐色シャツの「ナチ野郎」で編成されているのであろうというものであった。
しかし、練度の高さが明らかになると、賞賛に代わった。
第4の軍種としての武装SSが優れていた理由……
・厳しい身体的基準と、鍛えられた身体能力
・教育と洗脳による強力なリーダーシップと団結
3
西部戦線(オランダ、ベルギー、フランス)での武装SSの活躍について。
特に自動車化されていた師団がオランダ戦線等で貢献し、SSの野戦部隊としての実力を認められた。部隊は、無謀に近い攻撃精神を発揮し、後の武装SSの特徴となった。
ただし、軍事経験のない指揮官は甚大な被害を出した。
――勇気とイデオロギー的確信は、訓練、経験や適切な指揮能力の代わりにはならなかったのである。
洗脳された親衛隊員たちは、陸軍なら躊躇するような非人道的な命令も実行した。
第1装甲師団「ライプシュタンダルテ」
指揮官:ゼップ・ディートリヒ
SS特務師団「ドイッチュラント」(後「ダス・ライヒ」)
指揮官:パウル・ハウサー
SS髑髏師団「トーテンコプフ」(収容所担当の髑髏部隊を母体とする)
指揮官:テオドール・アイケ
SS警察師団
[つづく]
詳解 武装SS興亡史―ヒトラーのエリート護衛部隊の実像 1939‐45 (WW selection)
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