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1930年代には、治安維持法の適用が拡大した。
33年……司法官複数名が検挙された。また築地警察署において、小林多喜二が特高課の拷問により死亡した。
30年代には、共産党に並んで、国家主義運動も懸案事項となった。頭山満、内田良平、平沼騏一郎らの既存右翼とは異なり、急激な社会変革を目指す革新右翼……北一輝、大川周明、西田貢、また急進的な軍人が現れ、クーデタやテロを行った。
1930年 浜口首相狙撃
1931年 三月事件
満州事変
十月事件
1932年~33年 血盟団事件
1933年 五・一五事件
治安維持法は、2度改正が試みられたが失敗し、その後は拡大解釈で対応した。
検挙者増大に伴い転向政策が進められた。思想犯は、転向者、準転向者、非転向者に分類された。
しかし、内心を監視するのは困難であるため、「転向者を監視する保護観察と非転向者を隔離する予防拘禁」が必要とされた。
新興宗教への適用拡大……
1935年 第2次大本教事件
その後、内務省の主導により、宗教団体の弾圧が行われた……新興仏教青年同盟、天理、ひとのみち教団、天津教その他。
転向者に対しては「日本精神」の体得が要求されたが、この精神は、共産主義だけでなく自由主義、個人主義をも否定するものだった。
やがて治安維持法は自由主義や民主主義、反戦運動にも適用されていく(人民戦線事件等)。
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法適用が曖昧であること、警察による拷問が常態化し、議会で人権侵害の非難を受けていたことから、1941年に再度改正された。
・罰則強化
・刑事手続きの特例(令状なし、審理の迅速化)
・予防拘禁
改正治安維持法は、近衛内閣が新体制運動と大政翼賛会に関して批判を受ける中成立した。
・新興宗教の取締り(反戦、兵役拒否は国体変革の名目で摘発された)
1941年11月施行された「臨時取締法」は、東条憲兵が国民の反戦的言動を取り締まる際に猛威を振るった。
横浜事件は神奈川県特高課が、出版社や政治団体に対して複数の検挙を行った事件の総称である。
45年2月、近衛文麿―真崎甚三郎ら皇道派が早期降伏工作を天皇に訴える(近衛上奏文)。
――しかし、昭和天皇はまだ本土決戦に期待をつないでおり、「我国体については近衛の考えとは異なり、軍部は、米国は我国体の変革までも考えおるよう観測しおるが」……として軍部の意見を支持した。
――天皇は、45年6月に沖縄が陥落して以降、本土決戦論に見切りをつけていた。また客観的情勢として、これ以上の戦争は食糧危機を招いて日本を内部崩壊させる危険があった。そして天皇にとって、「国体護持」とは、三種の神器を守ることをも意味した。本土決戦となれば国体が危ないことを悟った天皇は、降伏を決意したのである。
朝鮮は独立運動が盛んだったこともあり法の適用が多く行われた。
満州国では匪賊討伐を認め、その場での殺害を認める法律がまずつくられた。その後、1941年に治安維持法が施行され、共産主義系武装組織、満州国の国体変革、日本の国体変革が取締り対象となった。
終章
破防法……52年、共産党の武装闘争方針採択に対応し成立。あわせて運用主体である公安調査庁成立。
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著者の見解……治安維持法は、暴力や革命の基盤となる結社の取締りを目的とした。しかし、運用される過程で、取締り対象が暴力から言論へと変質していった。
清沢冽、大佛次郎は、言論の自由と暴力取締りを要求した。自由と民主主義を守るには、この2つがセットでなければならないと著者は考える。
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◆感想
・自由の保障と、取締り(監視、制限、摘発)とのバランスの問題は時代を超えて存在する。
・治安維持法の時代は、政治テロ、暗殺やクーデタの多い時代だった。
こうした暴力がしっかりとコントロールされなければ、言論の自由も存在しなくなる。しかし、統制が方向を間違えれば、治安維持法がたどったように、言論と思想の弾圧につながる。
・政治家が、抜け道を利用し、議会を軽視して法案を成立させるという行為は、この時代から行われていた。
・政治についてはかれらの言っていることだけでなく、実際にやっていることをよく見ることが大切である。権力を持っている人間が、自主的にルールを守るだろう、倫理に則った行動をするだろう、と期待するのは誤りである。常に監視下に置く必要がある。
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