ヒトラー暗殺は複数回試みられたが、すべて失敗した。
本書は、ゲオルク・エルザー、国防軍による暗殺計画をたどる。
国防軍のレジスタンスを率いた中心人物はヘニング・フォン・トレスコウ、また1944年はシュタウフェンベルクである。1938年にはハルダーら将官らが、独ソ戦開始後には中堅将校たちが活動の主体となった。
◆メモ
ドイツ製テレビドキュメンタリーの書籍化で、内容は充実している。
軍を含めて、ヒトラーに抵抗する人びとがいたということは貴重な事実である。
法治国家としての体裁を保つため、ヒトラーは首謀者たちを裁判にかけ、弁護人も立てている。ユダヤ人虐殺や秘密警察によるテロを行っていながら、このような形式を重視する点が異様である。
ナチ政権は、誰の目を気にしていたのだろうか。
ドイツ人は暗殺を企てた軍人たちに激怒し、またヒトラーとともに勝利を目指していた。多くの人間が、いっせいに思考停止に陥るということを認識しなければならない。
トレスコウ、シュタウフェンベルクは、暗殺後にどのように政権を奪取し、どのように正統性を得るかに悩んでいた。
国民の支持を受けた政治体制を覆すのは非常に困難である。
・軍人の義務と、キリスト教徒の義務……軍人は主君に忠実でなければならない。また、キリスト教徒は人を殺してはならない。
レジスタンスたちは、どのように良心と暗殺との折り合いをつけたのか。
たとえ最悪の独裁者であっても、軍隊や公務員が統制に従うべきか、という問題には、答えがない。例え、現代的な軍隊のように例外条項(犯罪的な命令には服従しなくてよい等)をつけても、それが100%の安全弁にはならないだろう。
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1
・1939.11.9……ゲオルク・エルザーによるヒトラー暗殺未遂事件が、ビュルガー・ブロイケラーで発生した。
面目丸つぶれのゲシュタポが、疑わしい人間を大量に拘束する一方、警察出身のアルトゥール・ネーベは捜査によりエルザーを割り出した。
・フェンロ―事件……親衛隊シェレンベルク中尉が英国情報部員をおびきだしオランダで拉致した事件。ヒトラー、ハイドリヒの命令の下、オランダの中立侵犯を立証するために計画された。
・1938年、チェコスロヴァキアのズデーテン割譲要求のとき、ルートヴィヒ・ベック、フランツ・ハルダー参謀総長以下国防軍将官らはクーデターを計画していた。しかし、チェンバレンらがヒトラーの恫喝に従ったことで計画は霧散した。
かれらは完璧にこだわるあまり機を逸した。
計画は、ヒトラーの開戦と西側の参戦という不確定条件に左右されていたために、行動を起こすことができなかった。
ポーランド侵攻時、優柔不断なハルダーたちは何もできず、軍人としてのキャリアを選んだ。
エルザ―は1945年4月まで特別囚として収容所を転々としたが、ダッハウでヒトラー、ヒムラー直接の命令により処刑された。
――彼が明らかにしたのは、たんなる一市民であっても、世界史に残る行為を決行することは可能だということだった。ずっと信じこまされていた嘘、ナチ国家の教父には何1つ抵抗できなかったという言い訳がすべて嘘であることを、エルザ―は明らかにした。……国家の暴走を制することは、平均的市民にも十分可能だったのだ。
2
1943年に、トレスコウの指揮の下、若手将校を特攻隊にした暗殺計画が実行された。しかし、数回ともすべて失敗した。
ヒトラーの警護は厳重で、近づける人間は限られていた。また、ヒトラーが外に出るときも、行動予定は不規則だった。
独ソ戦が始まると、国防軍は、赤軍との戦闘と並行して、戦争犯罪が行われていることを知った。
かれらは間違いなくアインザッツグルッペの実態を知っていた。のみならず、国防軍も「コミッサール指令」や、戦争犯罪の訴追免除命令を受けて、一般市民、ユダヤ人の殺害に加担していた。
トレスコウら国防軍人は、アインザッツグルッペが実行した殺害を示す書類に署名している。
また、アルトゥール・ネーベ、ハンス・フォン・シュテルプナーゲルらは、実際に指揮官として射殺部隊を率いて大量虐殺に手を染めている。かれらがレジスタンスに参加したのは、良心の呵責からか、または自己保身のためかは、今では謎である。
[つづく]