うちゅうてきなとりで

The Cosmological Fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『隷属への道』ハイエク その1

 第2次大戦末期に書かれた、全体主義への道に警告をおこなう本。

 ドイツを例にあげ、善意と情熱が社会主義をつくり、必然的に全体主義にいたることを示す。アメリカ、イギリスも、敵であるドイツと同じく社会主義的、全体主義的な傾向を帯びつつあることを指摘した。

 

 ――……今日見受けられる19世紀の自由主義への軽蔑、見せかけの「現実主義」、あらゆるものを冷笑する態度、「不可避な傾向」を宿命とあきらめて受け入れる態度、などというのも、かつてのドイツに見られた現象であった。

 

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 ハイエクの主張のうち、以下の点について特に納得した。

・経済活動は人間社会の大きな部分を占めるため、これを計画化し管理することは人間の自由を抑圧してしまう。

・賢い人びと、理想主義的な人びとは、自分たちの計画を皆に実行させれば理想が具現化すると考えているが、その手段は必ず強制と暴力を伴う。

・人間が技術や生活を発展させてきたのは個人主義と自由による。

全体主義、集産主義、社会主義においては、最悪な者が指導者となる。

 

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 全体主義は、西欧文明の特質である個人主義を消滅させた。

 

 ――個人主義とは、「人間としての個人」の尊敬を意味しており、それは、1人1人の考え方や嗜好を、たとえそれが狭い範囲のものであるにせよ、その個人の領域においては至高のものと認める立場でもある。……おそらく「寛容(Tolerance)」という言葉だけが、ルネッサンスに隆盛を誇りながら、近年に衰退の一途をたどり、ついに全体主義国家の台頭とともに完全に消滅しかかっている、あの西欧文明の原理の完全なる意味をいまだに伝えている唯一の言葉だろう。

 

 ドイツやソ連は、集産主義を指向する。集産主義、社会主義は、国民の経済活動や生活を管理統制しようとするものである。

 

 ――そしてその誰もが、自分たちの目標は、計画化によってのみ完全に達成できることを知っており、それゆえに計画化を求めているのだ。しかし、これらの人びとが強く要求している社会計画を実行に移せば、それぞれの目標があからさまに衝突しあうことになるだけだ。

 

 ハイエクは、強大な権力による統制や規制が、必ず腐敗と弊害を生むことを指摘する。

 経済における独占を生み出してきたのは、企業間の共謀、政府の公共政策、すなわち「政治による特権」である。

 社会主義、つまり計画経済と、民主主義は両立しない。

 

 ――議会での討論は、有用な安全弁として、もっと言えば、国民の不平に対する政府の答えを宣伝する便利な媒体として、維持され続けていくかもしれない。……だがそれは「議会の支配」ではありえない。議会は、現実の絶対権力を持つべき人間を選べるだけ、という程度にまで縮小されるのが関の山だろう。そして、全体の体制は「国民投票に基づく独裁体制」へと進んでいくだろう。

 

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 民主主義は国内平和と個人の自由を保障するための手段に過ぎず、最善でも完全無欠でもない。ときには独裁者がより多くの精神的・文化的自由を実現することもある。

 

 ――また、きわめて同質的な、そして空論ばかり振りまわす多数派の支配のもとでは、民主主義政府は最悪の独裁体制と同様に圧政的なものとなることは、少なくとも可能性としては考えられる。

 

 ――民主主義的な統制は、権力が恣意的になるのを防ぐかもしれない。だが、民主主義がただ存在しているだけでは、その防止が可能になるわけではない。民主主義が、確立したルールでは統御できないような、権力の使用を必然的に含む活動を行おうと決定するならば、まちがいなく民主主義そのものが恣意的な権力となるのである。

 

 ――「形式法の支配」としての「法の支配」こそ、すなわち、政府当局によって特定の人びとに与えられる法的特権の不在こそ、恣意的政治の対極である、「法の前における平等」を保証するものなのである。

 

 「法の支配」は、合法権力であれば何をしてもよいという意味ではない。

 そうではなく、立法の範囲を制限することを意味する。

 

 ――それは、立法を形式法として知られる種類の一般的なルールに限定するものであり、特定の人びとを直接の目標とした立法や、そういう差別のために誰かに国家の強制権力を使用できるようにさせる立法を、不可能にするものである。

 

 また、国家の強制権力は、予測可能かつ事前に周知されているものでなければならない。

 

 [つづく]

 

隷属への道 ハイエク全集 I-別巻 【新装版】

隷属への道 ハイエク全集 I-別巻 【新装版】