ヒトラーの伝記。
フェストは「ヒトラー最期の12日間」の原作者でもあり、本書もヒトラー研究の古典とのこと。
歴史観について……もしヒトラーがポーランド侵攻前に死んでいれば、かれはナポレオンやアレキサンダーに連なる古代的な偉人として称えられ、反ユダヤ主義や世界征服論も、若さゆえの情熱ととらえられていたかもしれない。
ヒトラーとナチスの台頭を阻止できる機会は何度かあったようだ。
しかし、熱狂や妥協、ヒトラーへの過小評価によって、そうした機会は見過ごされてしまった。
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1 無目的の人生
かれは自分の経歴を隠し、脚色した。
青年時代のヒトラーは、周りと打ち解けない、典型的な社会の脱落者である。かれは時代遅れの画風で絵を描き続けたがまったく認められず、高等教育を受ける能力もなかった。
ヒトラーの思想を形成するゲルマン民族主義、反ユダヤ主義、社会ダーウィニズム、優生学等は、当時のオーストリアやドイツに広く普及していた。
かれの生まれたオーストリアでは、ドイツ人以外の民族が優遇されており、ドイツ人たちは不満を抱いていた。ユダヤ人、チェコ人等が労働力として台頭しつつあり、ドイツ人は、自分たちが少数派になるのではないかと恐れていた。
・ヒトラーの祖父は確定しておらず、ユダヤ人である可能性もある。本人もゲシュタポに調査させたが突き止められなかった。
・父親アロイスはヒトラーが少年時に死んだ。ヒトラーは2回ほど学校に行かされたが、成績が悪く2回とも退学した。
・その後、画家を目指した。美術学校への試験に何度も落ち、挫折した。
・ヒトラーは19世紀のブルジョワ文化にあこがれ続け、当時盛んだった現代音楽や絵画には見向きもしなかった。
・ブルジョワ社会から脱落させられたヒトラーは、自分の不満を政治的風潮に転嫁した。当時、オーストリアで主流だった汎ゲルマン主義と反セム主義に同調するようになった。
ヒトラーの反セム主義や国家社会主義には先駆者がいるが、本人はこれを隠し、自分こそ創始者であると偽りつづけた。
・シェーネラーとウィーン市長ルエーガーは、反ユダヤ主義の師である。また本書では、特にワーグナーからの影響が強いことを認めている。ヒトラーはワーグナーに影響を受け、気質や経歴も互いに似ていた。
・徴兵逃れのためにウィーン、リンツ、ミュンヘンと転居した後、かれは捕まった。
・かれは第1次世界大戦が始まるとバイエルン国軍に志願した。戦争はヒトラー含む多くのヨーロッパ人を、退屈で疲弊した生活から解放した。ドイツは自国民を欺く大本営発表を続けていたが、突然の敗戦により国民は衝撃を受けた。
ドイツ革命は保守派と手を組む中途半端なものとなり、国民の支持を得られなかった。その後、ヴェルサイユ条約によりドイツ国民は屈辱と怒りにとりつかれた。
・敗戦後、ヒトラーはドイツ労働者党(後のNSDAP)に参加し、政治活動を始めた。
2 政治への道
極左による革命と義勇軍・共和国軍による弾圧・暴力行為が行われる中、ヒトラーは政治活動に関わり、演説の技術や、反ユダヤ主義思想の洗練に努めていた。
国民の間には、敗戦に対する怒り、赤色革命への恐怖が根強く、左翼や議会主義は支持を得られなかった。一方、民兵組織が人気を勝ち取っていた。
ドイツ労働者党に加入する前、ヒトラーはバイエルン共和国において、軍の情報将校カール・マイヤーに勧誘され、政党活動を調査するスパイとなっていた。
・バイエルン・レーテ共和国はクルト・アイズナーが設立した革命政権だが、間もなく共和国軍に鎮圧された。このとき、革命家たちが人質数十人を殺害し、対抗して民兵や軍が共和国関係者を殺害した。
ヒトラーは、ドレクスラーの主催するドイツ労働者党の集会で、演説の才能を発揮した。
かれは精力的に演説をこなし、酒場の集まりに過ぎなかった党を共産党に対抗できる大衆政党に変化させた。
NSDAP(国家社会主義ドイツ労働者党)は、オーストリアのドイツ国家社会主義労働党にならって命名された。卍のシンボルも、オーストリアの党にならい採用した。
ヒトラーはバイエルンを中心に支持を広げていき、実業家や警察、国防軍の中にも勢力を構築した。フランスのルール進駐等、国難が迫っていたが、他の国粋主義政党とは一線を画し、腐敗政府の打倒を第一目標に掲げた。
1923年5月、バイエルンにおける右派の分離独立運動が腰砕けになった後、9月、周囲の期待に応えるため蜂起した。ヒトラー、ルーデンドルフ、クリーベルらは、ミュンヘン近郊のビュルガーブロイ・ケラーを襲撃し、バイエルン州総督カールらの集会を襲い、ベルリン進軍を主張するが失敗し投獄された。
[つづく]