7 クーデター前夜
馬子、聖徳太子が死亡後、推古天皇が死ぬと、後継者をめぐって抗争が起こった。馬子の息子蘇我蝦夷は田村皇子を立てて、皇子は舒明天皇となった。
8 改新断行
蝦夷の子である入鹿は傲慢な人間であり、山背大兄王を自害に追い込んで古人皇子を立てることで、権力を手に入れようとした。
しかし、朝廷はまだ氏族制が強く、各豪族の力がなくなったわけではなかった。
入鹿の横暴に反感を持った有力部族たちは、中臣鎌足(後の藤原鎌足)、中大兄皇子を中心にクーデタ計画を進めた。
かれらは刺客を送りこみ入鹿を殺害し、蝦夷を自殺に追い込んだ(大化の改新)。
中大兄皇子は皇太子となり、孝徳天皇の下、改新を実施した……中央集権化、公地公民制、改新の詔、難波への遷都。
・薄葬令……古墳時代の終焉
9 難波の都
難波長柄豊碕宮の所在地の特定について。
10 悲劇の皇子
孝徳天皇と中大兄は実権をめぐって不和になった。孝徳天皇の死後、子の有間皇子は即位できず、皇極上皇が再び即位し斉明天皇となった。
有間皇子が、不満分子を糾合する恐れがあると考えた中大兄は、使者を送り込み、皇子に謀反をそそのかした。罠にはまった有間皇子は捕らえられ、処刑された。
改新後、蝦夷(古代の読みは「えみし」)政策のため、主に日本海側を中心に「ぬたりの柵」、「磐舟の柵」が作られた。
粛慎(みしはせ)は、蝦夷とは別の種族である。
663年、百済救援軍は朝鮮半島に渡るが、白村江の戦いで唐・新羅連合軍に敗北した。
12 額田女王と近江朝廷
天智天皇は近江(大津京)に遷都したが、間もなく荒廃してしまった。後継者である弟の大海人皇子とは協力していたものの、天智天皇には世継ぎがいなかった。
13 壬申の乱
後継をめぐって、天智天皇と大海人皇子の関係は悪化した。天智天皇には子である大友皇子がいたが、母の身分が低く継承者の可能性はあまりなかった。
やがて天智天皇は大友皇子を重んじるようになり、大海人皇子は先手を打って出家し、政治的野心がないことをアピールした。
天皇の死後、672年、大友皇子が即位すると、大海人皇子は吉野山から挙兵した(壬申の乱)。
14 「大君は神にましませば」
天武天皇の統治について。
・飛鳥浄御原宮への遷都
・大伴氏や藤原氏(不比等)を除く、畿内豪族の凋落と、天皇専制の強化
・「政の要は軍事なり」……衛士府(徴発され都にのぼってくる兵)、地方では国司による動員権。
・伊勢神宮復興……東国進出の拠点
15 二上山の歎き
天武天皇の後継をめぐって、草壁皇子と大津皇子との間に対立があった。天皇死後、皇后は自分の子でない大津皇子に謀反の疑いをかけて処刑し、自らは持統天皇に即位した。
しかし、草壁皇子が間もなく死んだため、持統天皇は自ら政治をとることにした。
16 藤原宮のさかえ
・飛鳥浄御原令の完成
・地方行政……国・郡・里の整備
律令国家の特質とは……
・天皇の権威のもと、有力氏族からなる官僚組織が国家を運営する。
・太政官制……左右大臣、大納言・中納言以上の高級官僚が合議により政策を決定する。
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天智・天武・持統と、天皇による専制確立が進んだが、それでも国家の運営には氏族のコントロールが不可欠だった。
また、後継者争いは、政権不安定の根本原因だった。
・殯(もがり)の風習……葬儀儀礼