中公「日本の歴史」シリーズの1つ。
大和朝廷の成立をたどる。
聖徳太子の実像は現在新たに研究が進んでいる分野なので、他の文献も読む必要がある。
1 新王朝の出発
飛鳥は大和朝廷の始まりの地である。
大和は朝鮮半島と元々関係が深く、4世紀末には百済・新羅を勢力下におき、任那には日本府を設置していた。しかし、5世紀末、高句麗・新羅が力を持つと、任那の日本勢力は駆逐された。
6世紀の継体天皇は朝鮮半島に軍を派遣するが失敗し、磐井の乱の原因となった。
――天皇家と蘇我氏とは、地方勢力や民衆にたいしては朝廷の地位を高めるために協力し、朝廷の内部にあっては、天皇専制と豪族連合のどちらを優先させるかできびしく対立した。
2 保守派物部氏の没落
臣(おみ)……蘇我氏、葛城氏、平群氏、巨勢氏、紀氏などは、地方の豪族出身であり、天皇家と出自は同等である。
一方、大伴氏や物部氏、土師氏、弓削氏など連(むらじ)は職能集団が起源であり、天皇家への隷属性が強かった。
物部氏は軍事・警察・(神明)裁判を司り、雄略天皇の代に権力を持った。
用明天皇の死後、物部守屋と蘇我馬子との対立が激しくなり、合戦により物部は殺害された。蘇我馬子は厩戸皇子らを擁し、豪族連合を率いた。
こうして、天皇専制勢力は没落し、豪族連合・崇仏派の蘇我氏が指導的立場となった。
3 推古女帝
崇峻天皇時代の蘇我馬子の政治方針……仏教興隆、東国経略、任那復興。
592年、崇峻天皇は馬子の差し向けた刺客により暗殺され、炊屋姫(かしきやひめ)、すなわち推古天皇が即位した。
女帝の即位は、皇太子が決まるまでの中継ぎの意味もあるが、皇后の地位が安定したことにもよるという。
――……天皇の地位が高くなれば近親結婚がいっそう濃密になる。ある意味では、近親結婚の濃度のこさが天皇の権力の強大さのバロメーターである、ともいえそうだ。
古代においては、天皇不執政(天皇が執政をおこなわず、名目上の指導者に留まること)は、一般原則ではなく、特殊な場合にのみ起こった。
余談だが、戦前、保守派は天皇機関説(近代的不執政説)を批判したが、戦後は天皇免責の観点から不執政説を支持した。
4 聖徳太子の立場
用明天皇の子、聖徳太子、別名厩戸皇子は、摂政として天皇専制の強化に努めた。
一方、蘇我馬子は、天皇を不執政の地位に祭り上げ、官司制を通じて実権を握ろうとした。
・新羅征討……太子主導の計画による。複数回、筑紫から外征しようと派遣軍を送ったが、渡海は中止した。最終的に、新羅は大和には服属しなかった。
・冠位十二階……氏族ではなく個人単位に与えられ、官僚制の確立を目指すもの。
百済の官制とつながりが深い。馬子と太子が共同で制定したと思われる。
・十七条憲法……天皇親政を強く掲げているため、天武・持統朝の偽作の説もある。
・遣隋使……太子による。
・斑鳩宮への移転。
5 日出ずる国からの使者
聖徳太子が派遣した小野妹子は、手紙により隋の煬帝を怒らせたものの、無事、使者裴世清を大和に連れてくることに成功した。
遣隋使は、煬帝に対し日本の地位を示すとともに、煬帝からの使者を受け入れることで、地方豪族に対し、天皇の威信を高めることを目的としていた。
「天皇」という君主号(元は、大王(おおきみ)を用いていた)や、「日本」という国号が成立したのも、聖徳太子時代と考えられている。
6 いかるがの大寺
現存する法隆寺が最初のものか、再建されたものかについて、戦後論争があった。結論としては、現存法隆寺は、初代から数十年後に再建されたものという説が主流となった。
しかし、かれが信仰に厚く、また渡来人から仏教を学んでいたことは間違いない。
[つづく]