うちゅうてきなとりで

The Cosmological Fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『Diplomacy』Henry Kissinger その4

 ~東西冷戦~

 

 ◆朝鮮戦争に関する米ソの誤算

・米国は、ソ連との全面戦争あるいは東欧侵略以外を想定していなかった。

ソ連は米国の理想主義、「価値」の役割を軽視していた。

 北朝鮮が韓国に侵攻すると、米国はすぐに動員をおこなった。あわせて、フランスのインドシナ占領を支援したが、これは毛沢東を警戒させた。

 朝鮮戦争のような、米国権益の辺境で攻勢があった場合どうするべきなのか。米国はその後もベトナムで悩むことになった。

 米国は、北朝鮮の侵攻をソ連の指示だとみていたが、そうではなく、金日成の意志が原動力となっていた。

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 ◆スターリン以後

 スターリンは死の直前に、東欧をめぐって西側に妥協しようとした。しかし、実現することなく死んだ。

 後継者たち……マレンコフ、モロトフ、カガノヴィチ、フルシチョフらは、大粛清の影響から猜疑心に取りつかれており、西側への妥協政策ができる状況ではなかった。

 西側においても、スターリンによる和解案に耳を傾けたのはチャーチルだけだった。

 スターリンは、西側諸国も自分と同じように、イデオロギーではなく「現実政治」に則っていると誤解していた。

 実際は、アメリカは終戦直後のスターリンの頑固さに反発し、理想主義に基づいて動いているのだった。理想主義の世界では、ソ連との妥協はありえなかった。

 1955年のジュネーブサミットで、ドイツ統一問題は棚上げされた。米ソを軸とする冷戦体制が確立し、ある程度の安定がもたらされた(デタント(雪解け))。

 しかし、フルシチョフは在任中様々な手段で西側の封じ込めに挑戦し、結果ソ連国益を損なった。

・アデナウアーは偉大な政治家と評価を受けている。かれは、ドイツ統一を棚上げし、西側との関係強化を指向した。

 統一されたドイツは、必然的にヨーロッパの脅威となることをアデナウアーは認識していた。

 

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 ◆スエズ動乱

 スエズ戦争について。エジプトの大統領ナセルは、1956年、アラブ・ナショナリズムを鼓舞し、スエズ運河の国有化を宣言した。それ以前から、ソ連は中東での権限強化のためエジプトに武器を援助していた。

 スエズ問題をめぐって、米国と英仏は分裂した。英仏は、従来の植民地権益が奪われることを恐れ、武力介入を主張した。米国は、スエズ問題を植民地的なものととらえ、英仏の介入を懸念した。

 エジプト自身はソ連の衛星国になろうとしたわけではなく、あくまで冷戦を利用してアラブの独立を達成しようとしていた。

国務長官ジョン・フォスター・ダレスは、非常に理想主義的、宗教的な人物だった。現実主義のイーデンはかれを忌避した。

・米国は倫理に基づいて英仏イスラエルの武力介入を阻止したが、ベトナム戦争で仕返しをされ、単独で武力行使をすることになった。

 また、スエズ戦争と同時期のハンガリー動乱との間で、米国の行動には一貫性がない。

ソ連は武器援助の形式を利用し、その後も第三世界への介入をつづけた。

 

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 ◆ハンガリー動乱

 スエズ戦争と同時期に起きたハンガリー動乱において、米国はソ連の武力介入に対し何も手だてを打たなかった。

 武力の行使による利益獲得を非難する米国の倫理からすれば、ハンガリーへのソ連の介入は正当化できないもののはずだった。

 米国は、英仏には倫理を要求し、一方、自国は、直接国益の関わらないハンガリーのために犠牲を出すことを拒否した。

 

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 ◆ベルリン危機

 西ドイツの飛び地となっていたベルリンをめぐって、1958年以降、緊張が高まった(ベルリン危機1958~1961)。

 東ベルリンから西ベルリンへの流出が続いており、東ドイツは危機感を抱いた。フルシチョフベルリンの壁を建設したが、ケネディは特に反応しなかった。

 東西どちらも、ベルリンを明け渡すことには納得せず、問題は棚上げになった。

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 ◆西側諸国について

 イギリス:チャーチルは自国がもはや覇権国家でないことを知っていた。イーデンはそれに気付かず、スエズ戦争で失敗した。マクミラン首相以降、英国は米国に従属することで自由を得ることにした。

 フランス:伝統的に現実政治に則った国であり、米国の道徳的な外交観には同調しなかった。あくまでフランスの国益が問題だった。フランスの地位向上のために西ドイツと手を組み、ソ連の進出を抑止しようとした。また、ド・ゴールは米国に対して距離を置いた。

 合衆国、フランス双方の要求は通らなかった。冷戦時代には、共通目標に基づく協調が可能となったが、それは一時的なものだった。冷戦終了後、国益ナショナリズムの衝突が復活した。

 

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 ◆ベトナム戦争

 ベトナム戦争の契機は、トゥルーマンアイゼンハワーにある。

 トゥルーマンは封じこめ政策を提唱し、さらにアイゼンハワーは自由国家と民主主義を守るというウィルソン主義を推し進めた。

 米国は自由国家を守るためにインドシナに介入したが、結果は理想とはかけ離れたものになった。

 米国は自国の権益を離れて、価値や倫理に基づいて行動した。しかし、そもそもベトナム共産主義化が米国の脅威になるのか、ベトナムソ連の傀儡なのかという前提を検証することがなかった。

 トゥルーマン時代には、「ドミノ理論」の萌芽が見られた。

 政治家たちの間で、ミュンヘン会談の教訓が強迫観念として残っていた。それは、「敵は早いうちにあらかじめ排除しなければ巨大化する」というものである。

 トゥルーマンは、フランスのインドシナ支配を支援しつつ、現地人の独立を促すという矛盾した政策を実施した。

 フランスはゲリラ戦争に敗れ撤退した。しかし、米軍人の南ベトナム軍に対する教育は、伝統的な戦争に即したものだった。

 チャーチルド・ゴールは、東南アジアに権益はないとみなし、米国に協力しなかった。SEATOは東南アジア諸国と米英仏との反共同盟だったが、英仏が拒否権を行使したため、一度も統合作戦は行われなかった。
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[つづく] 

 

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