~ウィーン体制の終焉から第1次世界大戦まで~
◆ウィーン体制の終焉
ナポレオン3世とビスマルクの時代……2人の指導者がウィーン体制を終わらせた。
ナポレオン3世はイタリアのカルボナリ(統一運動家)出身であるため、欧州各地のナショナリズム運動を支援した。しかし、最終的に宿敵であるプロイセンを利することになり、敗北によって退場した。
ナポレオン3世の外交は、国益無視、革命理念偏重、支離滅裂の評価をくだされている。かれは大衆の欲求を基盤にしたが、最後は大衆から見放された。
ビスマルクはプロイセンを統一し、列強の一角となった。プロイセンの台頭は、フランスの地位を低下させた。
ビスマルクの「現実政治(Realpolitik)」は、パワーの分析と使用に基づいて外交方針を定めるものである。自己抑制を必要とする外交方針を、かれの後任者たちはコントロールすることができなかった。
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◆勢力均衡の行き詰まり
ビスマルクの築いた勢力均衡は、やがて複雑化し、利害の対立は収束不能になった。
・ドイツは統一により大陸の支配的な勢力となりつつあった。ドイツの台頭は列強の警戒を招いた。
・バルカン半島をめぐってロシアはオーストリア、イギリスと対立した。
・ロシアは領内の非スラブ人を抑圧するために、領土拡大を続けなければならなかった。ロシアは、領土を常に広げて安定させなければならないという脅威に囚われていた。
・1878年、ビスマルクの呼びかけによるベルリン会議により、バルカン半島をめぐる対立は先延ばしされた。ビスマルクは三帝同盟によるロシアとの接近がドイツ安定のかぎと考えた。
・ディズレーリは、ビスマルクに連なる現実政治の追求者である。一方、グラッドストンは、公正さや人道に基づいて外交を行う、ウィルソン型の政治家である。
・ビスマルクの後任者は、勢力均衡のための調整ができず、単純な軍備増強に明け暮れた。
勢力均衡体制は、覇権国家の台頭を防ぐことはできたが、ヨーロッパの平和を維持することはできなかった。
・民主主義諸国においては世論が大きな影響を持つようになった。世論が排外主義や好戦主義にとらわれた場合、政治家はこれを拒否することができず、外交上の選択肢は制限された。
・ロシア、ドイツといった専制国家でも、民族主義勢力や、議会の過激な代議士たちの圧力が外交に圧力を加えた。
勢力均衡を維持するための微妙な調整や各国の選択肢は徐々に狭まっていき、最後は全体戦争に陥った。
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◆第1次世界大戦の起源
第1次大戦の責任者を追求するのは困難だが、ドイツとロシアがその多くを負っている。
・ウィルヘルム2世は、誇大妄想にとりつかれた愚かな君主という評価を受けている。
・ドイツの外交は自ら敵をつくり、露仏の同盟を成立させた。さらに、ドイツの拡大政策を警戒した英国と露仏が同盟し、三国協商が成立した。
・英国は栄光ある孤立splendid isolationから脱して、ドイツ、ロシアを封じるために日英同盟、英仏同盟を結んだ。
・ヨーロッパ諸国は、軍事技術の発達が何をもたらすかに気が付いていなかった。かれらは全体戦争を軽く考えていたという。
・ロシアの外交官は、ドイツとの戦争がロシアを亡ぼすと警告したが、皇帝が聞いたかは定かではない。
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◆総力戦
第1次大戦は、軍事動員が外交を無効化してしまった例となった。セルビア事件をきっかけにオーストリアとセルビアは緊張状態となった。
しかし、戦争の直接的なきっかけは、ドイツとロシアの動員である。かれらは直接的な利害対立者ではなかった。
ヴィルヘルム2世、ニコライ2世ともに、戦争は回避されるだろうと考えていた。しかし、過去の軍事的危機と異なり、このときは実際の動員が伴っていた。
もし、外交的な手段で各国の妥協が成立していれば、戦争は避けられただろう。第1次大戦は、各国が同盟関係を律儀に守ったために回避できなくなった。
・ドイツ軍はシュリーフェンプランに基づいて機動した。つまり、ベルギーを侵犯しフランスを撃退した後、ロシアを攻撃するというものである。
・ロシア軍も、ドイツに対する全面侵攻という攻撃計画以外を持っていなかった。
・イギリスは、ドイツの覇権を阻止するためにフランスに肩入れし参戦した(直接の理由はベルギーの中立侵犯)。
・ドイツとロシアの戦闘が始まったとき、戦争の発端であるオーストリアはまだ軍事動員を実行できていなかった。
いったん戦争がはじまると莫大な犠牲が生まれ、各国は戦争を止めることができなくなった。
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◆ヴェルサイユ体制の欠陥
英国の外相エドワード・グレイはウィルソン大統領を説得し米国を参戦させた。
ウィルソンは休戦に伴い、パリに向かった。かれは欧州の勢力均衡を否定し、集団安全保障による国際秩序を提唱した。かれは、民族自決(self-determination)と民主主義こそが平和な体制をつくり、国際秩序を達成するだろうと主張した。
ウィルソンの「十四か条の原則」は国際連盟の根拠である。
しかし、それは国際政治の実態とかけ離れており、また米国のメキシコに対する行動も、ウィルソンの思想とはかけ離れていた。
ナポレオン戦争後のウィーン体制では、諸国はフランスの封じ込めという点で団結していた。
ロシアは消滅し、フランスは復讐を計画し、イギリスは大陸から離れ、米国は国際連盟から距離を置いた。
ヴェルサイユ条約はフランスの立場を弱め、ドイツの立場を強くした。
・ドイツに対する一方的な戦争犯罪認定
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◆ドイツ封じ込めの難しさ
ヴェルサイユ体制における集団安全保障はうまく機能しなかった。これは、国連においても同様である。
各国の利益が一致することはほとんどないからである。
・ロシアの消滅、ポーランドの誕生、東欧諸国の独立は、ドイツの地位を高めた。ポーランドの存在は、ドイツ、ロシア双方にとって邪魔だった。
・イギリスは、フランスの覇権国家化を警戒し、またドイツを対ソ障壁と認識した。
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シュトレーゼマン政権の下、ドイツは徐々に国力を取り戻していった。
ドイツへの強硬政策を進めるのはフランスだけになり、英米はドイツ復興を支援した。ソ連はまだ革命外交の時代だったが、国家生存のためラパッロ条約によりドイツと協定を結んだ。
1924年ロカルノ条約は、英仏独・ベルギーの国境線を保持し、集団安全保障を行う取り決めである。この条約はドイツの東方拡大につながった。
シュトレーゼマンの人徳により、パリ不戦条約等、大陸には秩序が戻るかに思われた。
しかし、ヴェルサイユ体制の構造的な欠陥は補えなかった。
・ヴェルサイユ体制の不備……ドイツの相対的優位、集団安全保障の失敗、逆効果となった賠償金、東欧の空白化
・条約のとおり英仏独が軍縮を行えばドイツは優位に立つ。しかしフランスが軍縮を拒めば、ドイツも武装解除を維持する正当性がない。軍縮は各国平等が建前だからである。
・シュトレーゼマンの政治方針はドイツ拡大主義だが、平和的手段と外交を遵守する点で、ヒトラーとは全く異質である。
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[つづく]
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