3 虐殺はなぜ起こったか
・カラジッチ(スルプスカ共和国大統領)とムラジッチ(ボスニアの軍人)
・タリッチ(ボスニアのユーゴ人民軍中将)とブルダニン(ボスニアの政治家)
――タリッチは、自発的に出ていこうとしないモスリム人やクロアチア人を一掃するため、軍隊の末端の荒くれ者の兵士を泳がせたり、無法者の民兵集団を軍隊の末端に組み込んで、その後ろ盾になった。そして、集団殺害、虐殺、拷問を彼らのなすがままにまかせ、「大セルビア」の夢を実現するために力を尽くした。
ボスニアではセルビア人勢力がプロパガンダ(虐殺のデマ等)を利用し民族憎悪を煽った。また、クロアチア戦争から帰還したセルビア人民兵が殺される事件、逆にモスリム人、クロアチア人が殺される事件が頻発し、治安が悪化した。
選挙ではモスリム人政党が勝ち、イゼトベコヴィッチが大統領となった。
ボスニアでは、モスリム人がもっとも教育程度が高く、都市を基盤にしていた。一方、軍隊と警察はセルビア人が占めていた。
イゼトベコヴィッチ大統領が、就任後、モスリム人の優位を唱えたためさらに対立は深まった。
・SDA(民主行動党、モスリム人政党)
・HDZ(クロアチア民主同盟)
カラジッチ率いるSDSは議会をボイコットし、独自共和国建設のために活動を開始した。
・無法者の民兵に、敵対民族の家屋を荒らすよう指示
・ユーゴ人民軍(実質、セルビア軍)からの徴兵を拒否した敵対民族を失業に追い込む
一方、モスリム人も民兵を組織し、SDA、愛国政治同盟の指揮下でセルビア市民の虐殺、拷問を行った。モスリム民兵にはアフガンやイランからやってきたムジャヒディンも含まれていた。
1992年3月の国民投票でボスニア独立が決定したため、SDSと民兵は非常事態政権をつくり、モスリム人追放とセルビア人共和国(1992.9にスルプスカ共和国樹立)の設立を目標に掲げた。
ユーゴ軍はモスリム人、クロアチア人に対してのみ刀狩りを行った。また、かれらの財産はSDSに近い有力者に奪われ、税金なども横領された。
民兵による強制移住、焼き討ち、処刑や拷問が公然と行われるようになった。
オマルスカ強制収容所やマニアチャ強制収容所では、日々拷問と殺戮が行われ、後に看守や民族主義者がICTYに移送された。
1995年12月のデイトン合意によってボスニア戦争は終結した。ボスニアは、ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦とスルプスカ共和国の連邦となった。
スレブレニツァの虐殺は同年7月に発生し、7000人のモスリム人が虐殺された。この事件の首謀者に対しては、ジェノサイド罪が成立した。
9月からNATOによる爆撃が強化され、セルビア勢力も和平案に応じざるを得ない状況に追い込まれていた。モスリム・クロアチア人勢力は優位に立ちつつあったが、トゥジマンが戦争継続に消極的だったため、イゼトベコヴィッチは和平に応じた。
4 ミロシェヴィッチの役割
コソヴォ紛争中の1999年5月に、ミロシェヴィッチはハーグに移送された。かれは汚職や一連の敗戦、経済的困窮により、セルビア人から見放されていた。
ミロシェヴィッチの問われた犯罪は次のとおりである。
・コソヴォ紛争中の、セルビア人勢力によるアルバニア人の殺害・拷問
[つづく]
「民族浄化」を裁く―旧ユーゴ戦犯法廷の現場から (岩波新書 新赤版 (973))
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