ユーゴスラヴィア内戦における「民族浄化」の実像を突き止める本。また、当時の国際社会の対応についても反省する。
著者は旧ユーゴスラヴィア国際刑事裁判所(ICTY)の判事を務めた。
――「民族浄化」の実像は、よく言われるように、血で血を洗うバルカンの歴史が生んだ民族の怨念の再来、一種の歴史の必然などとして片づけられるものではない。……ごく単純に言えば、当時の指導者が仕掛けた権力闘争が引き起こしたものである。
◆メモ
著者は、国際社会に「法の支配」を確立させる上でICTYが果たした役割を有意義だと考えている。
国際社会に法の秩序をもたらすことは難しいが、地道な活動が結果を生み出すのではないか。
本書の刊行後に、セルビアの戦犯カラジッチ、ムラジッチが逮捕され、懲役が確定している。
本書に書かれているとおり、虐殺・民族浄化、政治家や軍人による権力追求は人間の本質に基づく。しかし、それを直視し、対策を考えるところから平和は始まる。
陰惨な事件を目の当たりにして解決をあきらめたり、努力をあざ笑ったりするだけでは事態は変わらないと思料する。
***
1 旧ユーゴ戦犯法廷とは何か
ICTYはオランダのハーグに設置された。裁判所は検察局、裁判部、書記局等からなり、各国から検察官、捜査官が派遣されていた。
追及された戦争犯罪は次の4つである。
・ジュネーヴ条約違反
・戦争法規および慣習に違反する罪
・人道に反する罪(ニュルンベルク条例で規定)
・ジェノサイドの罪(1928年条約成立)
ボスニア紛争(1992.4~1995.11)を未然に止める努力はなされていたが、各国の足並みが揃わなかった。
ボスニアの独立がリスボン合意によっていったん保留された後、合衆国の後押しを受けたモスリム人勢力が翻意することで、内戦が始まった。
また、ドイツはクロアチアを、イギリス・フランスはセルビアを後押ししており、かといって直接軍事介入しようとはしなかった。
――そもそも旧ユーゴ連邦の軍隊であるユーゴ人民軍は、地下空港をはじめ、地下兵舎、地下補給路、おとりの使用、軍隊の分散、大砲や戦車を隠す技術など、仮想敵国ソ連に対抗するための装備をそろえ、訓練を重ねてきた、ヨーロッパでも屈指の軍隊であった。
95年のデイトン合意後、本格的な訴追が開始された。セルビア人、クロアチア人、モスリム人勢力の戦犯が裁かれた。
この中にはセルビアのミロシェヴィッチ大統領、ボスニアのセルビア人勢力指揮官カラジッチ、ムラジッチ(両者とも逃亡した)も含まれていた。
クロアチア大統領トゥジマン、モスリム人のボスニア大統領イゼトベゴヴィッチは捜査終結前に死んだ。
2 ボスニア紛争への道
第1次世界大戦前、セルビアとオーストリア=ハンガリーはボスニア領有をめぐって対立していた。オーストリア=ハンガリーが消滅すると、セルビアはクロアチア、スロヴェニア、ボスニアを併合し、ユーゴ王国を誕生させた。
ヒトラーはベオグラードを占領しユーゴ王国を解体、ボスニアのクロアチア民族主義団体ウスタシャを傀儡として「独立国家クロアチア」を建設した。
ウスタシャと、チトーらを含む共産党パルチザン、セルビア民族主義団体「チェトニック」の三つ巴の闘いが行われた。
チトーによる統一……
チトーは1948年、ソ連と決別し、企業の管理・運営を労働者に任せる分権型社会主義を進め、国を復興させた。
しかし、工業国スロヴェニア、観光の盛んなクロアチアと、貧しいセルビア、ボスニア、コソヴォ、マケドニアとの格差が広がり、分離主義運動のきっかけとなった。
チトーは大セルビア主義を抑え込み、また民族・宗教の違いを認め、民族融和を図った。
1990年、民族主義者トゥジマンがクロアチア大統領に就くと、民族主義的政策を取り始めた。これがセルビア人を刺激し、ベオグラードからユーゴ人民軍が派遣された。
クロアチア紛争に対しUNPROFOR(国連保護軍)が派遣されたが、解決には至らなかった。
ドイツが1991年にクロアチア独立を承認したことが、ボスニアの独立を呼び起こした。そして、ボスニア独立は、確実に内戦を招くと考えられていた。
「つづく」
「民族浄化」を裁く―旧ユーゴ戦犯法廷の現場から (岩波新書 新赤版 (973))
- 作者: 多谷千香子
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2005/10/20
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